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SENgoKU anD VISIon -乱世を追う-

戦国・江戸時代 武将 甲冑・刀剣・茶道具 博物館・美術館・城・茶室などを巡る拝見記。その他の雑記もあり。

1705 多賀大社 春の宝物特別展

2017-06-28 | 探訪
今回も滋賀
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多賀大社
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太閤橋
豊臣秀吉が造営させたと伝わる事から「太閤」橋と呼ばれるが、実際は寛永15年(1638)徳川幕府の命で本殿以下が再建された際の造営とされる。
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太閤蔵
天正十六年(1588)豊臣秀吉は、母大政所の病気平癒を祈り米一万石を奉納。その際奥書院庭園と共に造られたとされる。
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つり鐘(ってほとんど見えてませんが・・・)
天文24年(1555)鋳造。造成にあたり浄財を寄進した物の名が記されており、佐々木・尼子・多賀などと共に浅井長政の幼名浅井猿夜叉の名も見られるそう。
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奥書院
勅使の間。彦根藩主が休憩に使用したと伝わる
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奥書院庭園
秀吉寄進により造営された

さていよいよ
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春の宝物特別展
三十六歌仙絵
現在は6曲の屏風装であるが、元は扁額形式であったとされる。
奉納は永禄12年(1569)11月、奉納者は浅井長政の重臣・遠藤喜右衛門尉直経。
翌元亀元年(1570)姉川の戦いでは味方大敗の中、織田方の武将に成りすまし信長を暗殺しようとしたが見破られ斬首された。

最後は奥書院へ向かう廊下にあった奉納絵馬
まずは歴史小説の二大巨匠から
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司馬遼太郎
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池波正太郎
そして何故か
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川上哲治(元読売ジャイアンツ)
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原辰徳(元読売ジャイアンツ)
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江川卓(元読売ジャイアンツ)
新しいところでは
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則本昂大(東北楽天ゴールデンイーグルス)
地元出身の野球選手ですね

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多賀の名物「糸切り餅」も忘れずに

1705 安土城考古博物館 信長のプロフィール

2017-06-25 | 探訪
安土
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安土城考古博物館
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春季特別展「信長のプロフィール」
期間:4月29日(土)~6 月4日(日) 
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織田信包画像
竜安寺蔵。頭巾を被り袈裟を付けた姿の肖像。剃髪し老犬斎と号した頃のものとされる。
織田信包は織田信長の弟。信長と歳の近い兄弟は早くに亡くなっていく中、織田一門では信忠、信雄と信長の子息に次ぐ地位を与えられていた。また浅井家滅亡後に織田家に戻っていたお市の方と三姉妹の面倒もみており信長からの信頼の程が窺える。
津田信澄所用 鎖帷子
紺の麻地の上に鉄製の鎖を縫いつけた鎖帷子。信澄に仕え後に大溝で町年寄となった福井家に伝来した。
津田信澄は信長の弟信勝(信行として知られる)の子、父信勝は謀反の為に信長に討たれるが、信澄は許され信長に仕えた。しかし本能寺の変で信長が亡くなると、明智光秀の娘婿であった信澄は共謀を疑われ織田信孝・丹羽長秀によって討たれている。

ここからは常設展示より
全て安土の摠見寺蔵
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織田信長所用 南蛮兜
鉄錆地六枚張兜鉢
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織田信長所用 陣羽織
ビロード地に金糸で雨龍(表)と木瓜紋(裏)を施す
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織田信長所用 革袴
鹿革製。同様の袴が上杉神社所蔵の上杉謙信・景勝の服飾類にあるそう。
箱書によれば元亀元年(1970)越前より撤退し京に戻る際に道案内をした朽木元綱の家臣・長谷川茂政が信長より拝領したと伝わる
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織田信長像
甲冑姿で厳つい髭だらけの顔と他の肖像画とはかなり異なる。
また画像には「柴田勝家」の朱印が押されているが詳細は不明。
安土の摠見寺では天明二年(1782)信長二百回忌法要において、この画像が書院の床に掛けられた。


1705 三溪園 新緑の古建築公開

2017-06-21 | 探訪
今回は横浜
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三溪園
実業家 原三溪によって、明治39年5月1日に公開された庭園。
京都や鎌倉より古建築を移築されている。

庭内は内苑・外苑に分かれていますが、今回の目的の2茶室は内苑にあります。
その内苑の入口が
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御門
京都東山の西方寺にあった薬医門。宝永5年(1708)ごろの創建。
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臨春閣
三溪園を代表する建築物。第一屋・第二屋・第三屋(二階建)の3棟よりなる数奇屋風書院の建物。
大阪の春日出新田にあった八州軒と呼ばれた建物を移築したもので、その際に3棟の配置や屋根の変更を行っている。
三溪がこの建物を入手した背景には、その来歴が関係しているようです。
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臨春閣の元は、豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構とされ千利休の意匠とされます。その後桃山(伏見)城に移されたとされており、三溪も「桃山御殿」と呼んでいました。
しかしながら、現在ではこの説は否定されています。
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現在はこの説に代わって紀州徳川家の別荘であった巌出御殿説が挙がっています。
が、この説も不十分なようで
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結局は元から春日出新田の会所だったようです。
今見る臨春閣の姿は、三溪園に移築して以後に作られたものであり原三溪の理想とする「桃山御殿」の姿なのでしょう。

臨春閣が桃山御殿とされた事から、三溪はその周りには秀吉ゆかりのモノを配置しています。
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瓢箪文手水鉢
秀吉愛用で、その後に藤堂高虎に与えられ伊賀上野城にあったもの
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身代り灯籠
ある時千利休が刺客に襲われ身をかわしたところ刀がこの灯籠に当たったので「身代り」と呼ばれています
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手水鉢
豊臣秀吉が架け替えさせた五条大橋の橋杭を転用したと伝わる

残念ながら臨春閣は秀吉ゆかりの建築物ではありませんでしたが、実際に豊臣秀吉が建てさせたものもあります
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旧天瑞寺寿塔覆堂
天正19年(1591)豊臣秀吉が母・大政所の長寿を願い大徳寺の天瑞寺に建てた寿塔を覆うための建物。

次ぎも伏見城ゆかりの伝承を持つ建造物。
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月華殿
徳川家康が再建させた伏見城に建てたと伝わり、伏見城取壊しの際に宇治の茶商・上林三入に与えられ更に三室戸寺金蔵院に寄贈されたとされています。但しこの説も裏付けがある訳ではないようです。

さてここから目的の茶室へ、最初は
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聴秋閣
元和9年(1623)将軍徳川家光が上洛に際し、佐久間将監に命じ二条城内に建てさせた「三笠閣」とされ、その後乳母の春日局に与えられ江戸の稲葉家下屋敷に移築、明治14年には二条公邸へ、更に大正11年に三溪園へと移され「聴秋閣」と名を改めた。
外観は二層の楼閣建築で左右非対称であり、内部の船着き場と思われる板場と併せて小型の飛雲閣といった印象。
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内部上の間は不整形で、船着き場を思わせる杢板四半敷きの板間が中央部へ半間入り込み、座敷を左右に二分。台目の点前座の右手に床と斜行した付書院がありその先に縁を廻らせた席が上座。左手二畳が下座となる。
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聴秋閣を建てた佐久間将監は徳川幕府で作事奉行を務めた旗本。茶人でもあり古田織部にの弟子とされ、よく似た経歴の小堀遠州とはライバル的な関係だったよう。
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聴秋閣を後にし
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待合を過ぎると次に目指す茶室があります
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春草廬
前述の月華殿と共に三室戸寺金蔵院より移築された茶室。当時は九つの窓を持つ事から「九窓亭」と呼ばれていた。織田有楽斎作とされているが確かな事は分からない。
現在の名称「春草廬」ですが、現在東博の庭園にある「春草廬」も原三溪が一時所有しており松永耳庵に後に譲っています。名称を気に入った三溪がこの茶室に名付けたのでしょう。
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刀掛の踏石「稲葉」
「織田」有楽斎からの連想でしょうか、岐阜城のある稲葉山から運ばせたと伝わるもの
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内部は三畳台目の席。多窓が目立ちます。

三溪園には内苑の他に外苑があります。こちらにも多くの建物が移築されています。
その中で園の象徴的な建造物が
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旧燈明寺三重塔
康正3年(1457)建造。元は京都加茂の燈明寺にあったものです

原三溪は古美術コレクターとして有名ですが、この三溪園の古建築もその流れに有るのでしょう。
残念ながら古美術品は散逸してしまいましたが、この三溪園は原三溪の美術館と呼んでも過言ではないと思いました。

1705 国立歴史民族博物館と佐倉城

2017-06-18 | 探訪
今回は千葉の佐倉
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国立歴史民族博物館
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デジタルで楽しむ歴史資料
期間:3月14日(火)~ 5月7日(日)

洛中洛外図屏風歴博甲本
1520年代~1530年代に製作されたとされる現存する最古の洛中洛外図屏風。
絵の内容から細川高国が狩野元信に発注したと考えられている。
宗祇像
法体姿で右手に扇子を持った宗祇の肖像画。晩年の寿像とされる。
賛は宗祇と親交の深かった三条西実隆筆。「実隆公記」明応4年4月9日に宗祇肖像に賛を書いた事が記されており、この肖像画がそれであるとされている。南部家旧蔵。

さて歴博がある場所は
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佐倉城址
江戸時代には堀田氏が治めていた。
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天守台
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土塁
近世城郭ですが石垣のない城。
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馬出し空濠
長辺121m短辺40mのコの字型、深さは元5.6m現在は3mと大規模なもの


1705 東京国立博物館 転合庵と本館展示

2017-06-14 | 探訪
ひき続き東博
この時期は庭園が開放されており、更に「茶の湯」展にあわせて特別公開されているのが
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転合庵
遠州が桂宮より茶入「於大名」を賜った際に京都伏見・六地蔵に建てた茶室。
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「転合庵」扁額
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内部は二畳台目の席

その他の茶室も外観だけですが拝見できます。

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六窓庵
金森宗和好み。内部は三畳台目の席です。

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春草廬
江戸時代に河村瑞賢が淀川改修工事の際に休息所として建てたもの。
原三渓が入手し三渓園に運ばれたが、組み立てられる事なく保存。その後三渓より松永耳庵に贈られた。
現在の三渓園には別に「春草廬」と名付けた茶室があります。三渓はよほどこの名前が気に入っていたのでしょうか。
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「春草廬」扁額
曼殊院良尚法親王筆。これも三渓より耳庵に贈られた。

ここからは本館展示より
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刀 粟田口国吉(号 鳴狐)
館林藩秋元家伝来
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小太刀 長船長光(名物 蜂屋長光)
享保名物帳所載。蜂屋なる「あふれ物」が所持していたことから蜂屋長光と名付けられた。
その後秀吉、京極高通、奥平忠昌と伝来。
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古今和歌集(本阿弥切)伝小野道風筆
本阿弥光悦愛蔵
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四季花鳥図屏風 伝雪舟等楊筆

東京国立博物館 茶の湯展 ①

2017-06-11 | 探訪
上野
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東京国立博物館
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特別展「茶の湯」
期間:4月11日(火)~ 6月4日(日)

二度拝見しました
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白天目
瀬戸で作られた天目茶碗。金の覆輪が付く。
白天目と呼ばれる茶碗は他に徳川将軍家、尾張徳川家、秀吉から細川三斎へ伝わった三碗があるが、将軍家のものは高麗物で、他はこの茶碗と同じ美濃製。
伝来は武野紹鴎・秀吉・施薬院全宗・長床坊・豊臣秀次・加賀前田家。
竹一重切花入 銘 小田原 千利休作
節をやや下にとり曲のある姿の一重切花入。
小田原征伐に同陣した利休は韮山竹で幾つかの花入を作っており「園城寺」「よなが」「尺八」そして「音曲」が知られるが、この「小田原」もそのひとつで利休より参禅の師である古渓宗陳に贈られた。
竹茶杓 タヽイヘ様参 千利休作
腰低く櫂先の撓めも緩やかで通常の利休形茶杓とは異なる形。
筒は贈筒で宇喜多秀家の父・宇喜多直家もしくはその弟の忠家に贈られたとされる。
耳付籠花入
利休が魚籠を花入に見立てた道具。他に「桂川」が有名であるが形は異なる。
利休所持でその後、細川三斎より四聖坊(英助法印)に贈られた。近代に入り井上世外が四聖坊にあった八窓席と共にこの花入も入手している。
伊賀花入 銘 生爪
書状 大晦日 宗个老宛(伊賀花入 銘生爪 添状)

箆使いや削りなど作意の強い作振り、濃緑色の自然釉が特徴的な花入。
織部筆の添状には、この花入を上田宗箇に贈るに際し「爪を剥がされる様だ」と記しており愛蔵の程が窺える。
赤楽茶碗 銘 毘沙門堂 本阿弥光悦作
一方は丸みを一方は稜をもって立ち上がる2つの姿を持つ茶碗。
光悦七種に数えられる名碗で、光悦が京都山科の毘沙門堂門跡に献じたとされる事から銘が付いた。

会場内には撮影可能なエリアがあり
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燕庵の再現展示がありました。大織部展以来の登場。
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本物を拝見している身としては、外観はハリボテ感がハンパないし内部も新しいしと言いたい事はありますが仕方ないですね。

さて展示ですが、これほど大規模な展覧会の楽しみは中々展示されない名品を拝見できる事ですが、その点はもうちょっとガンバって欲しかったところ。美術館で普通に拝見できるものが多すぎで、個人蔵や家元所蔵のレアものが少ない印象でした。
あとは茶人自作の道具が少ない!
焼物は同種の物が複数展示されているのに、竹茶杓などはちょっとだけ。
室町後期から江戸前期にかけて個性豊かな茶人が多く輩出されているのに、紹介されている人物が少ないのも気になった点です。



1705 サントリー美術館 絵巻マニア列伝

2017-06-07 | 探訪
東京ミッドタウン
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サントリー美術館
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六本木開館10周年記念展 絵巻マニア列伝
期間:3月29日(水)~5月14日(日)
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逍遥院実隆像
京都二尊院蔵。落飾し逍遥院と号した頃の肖像画。賛は後奈良天皇。
三条西実隆は、室町時代後期の公家で随一の博識を誇り天皇のみならず将軍・大名などからも頼りにされていた。絵巻の製作にもその博識を発揮した。
桑実寺縁起絵巻 詞 後奈良天皇・青蓮院尊鎮・三条西実隆筆 絵 土佐光茂画 
天文元年(1532)に製作された近江国桑実寺にまつわる縁起絵巻。
発願者は当時細川晴元により京を追われ近江の桑実寺に在った将軍足利義晴。実隆は義晴の命により縁起の起草、天皇・青蓮院への詞書の手配、土佐光茂との調整を行っている。
足利義晴は単なる絵巻マニアとしてこの絵巻を作成させた訳ではない。京への復帰そして自身の復権の祈願こそが義晴の狙いだったのでしょう。
当麻寺縁起絵巻 詞 後奈良天皇ら筆 絵 土佐光茂画
享禄四年(1531)に製作された大和国當麻寺にまつわる縁起絵巻。
この絵巻の制作に関わった三条西実隆は、日記「実隆公記」に土佐光茂の描いた絵を見て「見事」「珍重」であると賞賛している。また光茂が霊夢により画料を受け取らなかった事を褒めている。
酒伝童子絵巻 詞 近衛尚通ら筆 絵 狩野元信画
源頼光による大江山の酒呑童子(鬼)退治を描いた絵巻。小田原の北条氏綱の依頼により製作された。
近衛尚通の詞書は将軍家の同朋衆の相阿弥の斡旋であり、尚通は礼として千疋を得ている。
奥書を担当する三条西実隆のところには、外郎家の青侍が揮毫の為の料紙を届けている。
この絵巻はその後、北条氏直に嫁いでいた徳川家康の娘督姫が持ち出したようで、池田輝政に再度嫁いだ際に持参し以降池田家に伝来した。
玄奘三蔵絵
春日権現験記絵

「実隆公記」には奈良より後土御門天皇が取り寄せ、詞書を三条西実隆に読み上げさせたとある。
実隆は感想として「玄奘三蔵絵」には彩色が素晴らしく目を驚かせたとあり、「春日権現験記絵」には余りに素晴らしかったのか随喜の感涙を流したとある。

この他にも足利将軍家に関連した作品、足利義教奉納「誉田宗庿縁起絵巻」、奥書に源義高(足利義澄)とある「硯破草紙絵巻」、足利義晴が十三歳で製作させた「長谷寺縁起絵巻」がありました。
それにつけても三条西実隆の八面六臂に活躍が目立ちました。

1705 出光美術館 茶の湯のうつわ

2017-06-04 | 探訪
丸の内
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出光美術館
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茶の湯のうつわ ―和漢の世界
期間:4月15日(土)~ 6月4日(日)
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赤楽茶碗 銘 酒呑童子 道入作
腰が張り出したたっぷりとした形の茶碗。口部は山道をなす。
見事な赤色の発色で、そこから旧銘「大江山」そして現在の「酒呑童子」の名が付けられた。
呉州染付草花文茶碗 銘 橘
中興名物。胴に花文を染付けで描いている。「遠州蔵帳」「雲州蔵帳」さらに大給松平乗邑編著「茶器名物集(三冊名物記)」に記載される。
また姫路藩主・酒井宗雅の茶会記「逾好日記」によれば天明七年七月二十日にこの茶碗を用いて自ら茶を楽しんだ事が記されている。
伝来は小堀遠州、細川忠利、松平乗邑、酒井宗雅、松平不昧。
唐物文琳茶入 銘 奈良
八幡名物。丸みのある文琳の茶入。黄釉と黒釉が混じり合う景色が見所。
松花堂昭乗が八幡山の瀧本坊に入る際に兄・中沼左京が「明巌墨蹟」と共にこの茶入を持たせた。
餌袋茶碗
八幡名物。高麗茶碗の一種で、口を抱え、身が深く、胴から裾へ絞り込んだ形をしている。
灰褐色の地にやや青みがかった白化粧が施されており、火間が見られる。

この他にも、楽茶碗では長次郎の「僧正」「黒面翁」、常慶「寸戸」、ノンコウ「此花」が、香合ですが光悦の赤楽兎文香合も久々に拝見できました。