安土

安土城考古博物館

春季特別展「信長のプロフィール」
期間:4月29日(土)~6 月4日(日)

織田信包画像
竜安寺蔵。頭巾を被り袈裟を付けた姿の肖像。剃髪し老犬斎と号した頃のものとされる。
織田信包は織田信長の弟。信長と歳の近い兄弟は早くに亡くなっていく中、織田一門では信忠、信雄と信長の子息に次ぐ地位を与えられていた。また浅井家滅亡後に織田家に戻っていたお市の方と三姉妹の面倒もみており信長からの信頼の程が窺える。
津田信澄所用 鎖帷子
紺の麻地の上に鉄製の鎖を縫いつけた鎖帷子。信澄に仕え後に大溝で町年寄となった福井家に伝来した。
津田信澄は信長の弟信勝(信行として知られる)の子、父信勝は謀反の為に信長に討たれるが、信澄は許され信長に仕えた。しかし本能寺の変で信長が亡くなると、明智光秀の娘婿であった信澄は共謀を疑われ織田信孝・丹羽長秀によって討たれている。
ここからは常設展示より
全て安土の摠見寺蔵

織田信長所用 南蛮兜
鉄錆地六枚張兜鉢

織田信長所用 陣羽織
ビロード地に金糸で雨龍(表)と木瓜紋(裏)を施す

織田信長所用 革袴
鹿革製。同様の袴が上杉神社所蔵の上杉謙信・景勝の服飾類にあるそう。
箱書によれば元亀元年(1970)越前より撤退し京に戻る際に道案内をした朽木元綱の家臣・長谷川茂政が信長より拝領したと伝わる

織田信長像
甲冑姿で厳つい髭だらけの顔と他の肖像画とはかなり異なる。
また画像には「柴田勝家」の朱印が押されているが詳細は不明。
安土の摠見寺では天明二年(1782)信長二百回忌法要において、この画像が書院の床に掛けられた。

安土城考古博物館

春季特別展「信長のプロフィール」
期間:4月29日(土)~6 月4日(日)

織田信包画像
竜安寺蔵。頭巾を被り袈裟を付けた姿の肖像。剃髪し老犬斎と号した頃のものとされる。
織田信包は織田信長の弟。信長と歳の近い兄弟は早くに亡くなっていく中、織田一門では信忠、信雄と信長の子息に次ぐ地位を与えられていた。また浅井家滅亡後に織田家に戻っていたお市の方と三姉妹の面倒もみており信長からの信頼の程が窺える。
津田信澄所用 鎖帷子
紺の麻地の上に鉄製の鎖を縫いつけた鎖帷子。信澄に仕え後に大溝で町年寄となった福井家に伝来した。
津田信澄は信長の弟信勝(信行として知られる)の子、父信勝は謀反の為に信長に討たれるが、信澄は許され信長に仕えた。しかし本能寺の変で信長が亡くなると、明智光秀の娘婿であった信澄は共謀を疑われ織田信孝・丹羽長秀によって討たれている。
ここからは常設展示より
全て安土の摠見寺蔵

織田信長所用 南蛮兜
鉄錆地六枚張兜鉢

織田信長所用 陣羽織
ビロード地に金糸で雨龍(表)と木瓜紋(裏)を施す

織田信長所用 革袴
鹿革製。同様の袴が上杉神社所蔵の上杉謙信・景勝の服飾類にあるそう。
箱書によれば元亀元年(1970)越前より撤退し京に戻る際に道案内をした朽木元綱の家臣・長谷川茂政が信長より拝領したと伝わる

織田信長像
甲冑姿で厳つい髭だらけの顔と他の肖像画とはかなり異なる。
また画像には「柴田勝家」の朱印が押されているが詳細は不明。
安土の摠見寺では天明二年(1782)信長二百回忌法要において、この画像が書院の床に掛けられた。