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SENgoKU anD VISIon -乱世を追う-

戦国・江戸時代 武将 甲冑・刀剣・茶道具 博物館・美術館・城・茶室などを巡る拝見記。その他の雑記もあり。

1501 銀座松屋 古田織部展

2015-03-29 | 探訪
お次も東京・銀座
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銀座松屋 8階イベントスクエア
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没後400年 古田織部展
期間:2014年12月30日(火)~2015年1月19日(月)

前・後期拝見しました。
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豊臣秀吉朱印状
七月廿七日付。天正十八年(1590)奥州仕置を終えた秀吉の命により岩槻から小田原の道中に宿泊所を普請する役を織部や瀬田掃部が命じられている様子が文中に見られる。秀吉政権下での織部の役割の一端が分かる内容。
古田織部書状
(慶長十五年・1610)八月十五日付。小倉藩主・細川忠興の家老・松井康之宛
内容は1.古瀬戸肩衝茶入の鑑定2.皿(向付?)を焼いてもらったがあまりよく無いので、もう一度焼いて欲しい3.忠興より依頼の花入を伏見の細川屋敷に届ける旨が記されている。最後に病も癒えたので江戸に出発し、来春会いましょうと結んでいる。
2の焼物は忠興が焼かせていた上野焼の事とされる。内容を見る限り忠興が茶人・織部を信頼している様子が窺えます。 
竹茶杓 古田織部作
織部作の茶杓は3本の展示。1本は藪内燕庵伝来、次が加藤清正の家臣で八代城主であった加藤正方(風庵)より上田宗箇へ伝わったもの、最後は家康の遺品として紀州徳川家に伝来した茶杓。
藪内燕庵伝来のものは、蒲生氏郷の茶杓(東博)にどこか似た荒めの作品。上田家伝来は長くぐぃと上がった櫂先と蟻腰が特徴の基準的な作品。紀州徳川家伝来は節上途中から色の変化が見られる優美な作品。
古田織部・近衛信尹勘返状
織部の翌朝訪問の旨を記した書状に、三藐院が返事を書いている。この織部と三藐院の勘返状は数通伝わっており両者の親密な関係が知れる。晩年の2人は連歌を介し親交をもっていたが、どうやらそれだけではなく徳川と豊臣との関係を憂いていた様子。
憂いは現実となり慶長19年(1614)大坂冬に陣が始まり、ほどなく三藐院は亡くなる。そして大坂夏に陣の後織部も切腹となった。
竹茶杓 細川三斎作
白竹、節のあたりに虫喰がある。利休の茶杓に似ているが櫂先が急角度で曲がっている。
筒は三斎が杖に用いた松向寺村の竹だそう。
織部袂香合
小さな織部焼きの香合。白地に緑釉が掛かり間垣と梅鉢文が描かれている。
織部が袂に入れて持参した事から袂香合とよばれる。また箱書きには「古織より到来」と記されている。
藪内燕庵伝来。

昨年(2014年)の「大織部展」に続く古田織部の展覧会。2つを比べると、片や織部自身に焦点をあて片や織部の時代に焦点をあてている。
紹介されている焼物にも違いがあり、織部焼を中心に美濃焼が大半を占めているのは変りないが、他の日本の焼物では大織部展が萩焼が、古田織部展では唐津焼が多いといった違いがみられます。
この古田織部展は広島、滋賀と巡回するので織部に興味がある方は是非見ていただきたいと思います。

 

1501 1月のトーハク

2015-03-27 | 探訪
上野
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東京国立博物館
1月2日から12日は新春特別公開と題して様々な名品が拝見できました。
その他の展示と共に紹介します。
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松林図屏風 長谷川等伯筆
国宝。六曲一双
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七言絶句「峯松」 一休宗純筆
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和歌屏風 松花堂昭乗筆
「続古今和歌集」より25首を散らし書きした屏風
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詠草 正親町天皇筆
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詠草 近衛前久筆
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東行記 烏丸光広筆
江戸下向時の紀行文。画像では絵(スケッチ)を交えて富士山について記している。
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織田信長所用 陣羽織 黒鳥毛揚羽蝶模様
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豊臣秀吉所用 一の谷馬藺兜
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徳川家康所用 胴服 水浅葱練緯地蔦模様 三つ葉葵紋付
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明智光秀書状

1501 五島美術館 茶道具取合せ展

2015-03-20 | 探訪
東京 上野毛
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五島美術館
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茶道具取合せ展
期間:12月13日(土)~2015年2月15日(日)
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有馬茶会記 友阿弥筆
阿弥陀堂宛、十月四日付。天正十八(1590)年10月4日に有馬で行なわれる茶会の道具や客を知らせた手紙。
この年小田原にて北条氏を降した豊臣秀吉は有馬温泉にて疲れを癒していた。この茶会は滞在中に行なわれ、参加者は利休・小早川隆景・有馬法印(則頼)・瀬田掃部(利休七哲)・津田宗及等。
翌年(1591)2月には秀吉より利休は切腹を命じられている。非常に微妙な時期であった。
古田織部消息 癡絶道冲賛画添文
津田宗凡宛、五月十四日付。織部が宗凡に頼まれた掛物の鑑定を行なっている。人物の様子が悪いので茶会に出さない様にとアドバイスしている。
津田宗凡は津田宗及の子で江月宗玩の兄。
芝山監物消息
芝弥八郎宛、卯月廿八日付。小田原の役の最中に息子と思われる人物へ宛てた手紙。
石垣山(一夜城)の御殿も来月には完成する事などを知らせている。
芝山監物は利休七哲のひとり、彼の書状は非常に珍しいそうで貴重な一通と思われます。
竹茶杓 銘 姥筧虫喰 蒲生氏郷作
樋が深く丸撓で、節上が長く幅広。非常に武将的な茶杓である。銘は節にある虫喰からと思われる。
 

1501 佐野美術館 ひとの縁は、ものの縁

2015-03-15 | 探訪
静岡は三島
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佐野美術館
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ひとの縁は、ものの縁―初公開の矢部コレクション―
期間:1月9日(金)~2月15日(日)
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本多忠勝所用 大笹穂槍 銘 藤原正真作(号 蜻蛉切)
室町時代の作。説明不要の名槍。鹿角の兜とこの槍は本多忠勝の代名詞となっている。
織田信長所用 太刀 銘 一
国宝。鎌倉時代備前の福岡一文字派の作。長篠の戦いの恩賞として織田信長が奥平信昌に与えた。
伊達政宗所用 太刀 銘 景則
鎌倉時代備前の刀工・景則の作。衛府太刀拵・糸巻太刀拵・尻鞘と三種類の拵が附属する豪奢な太刀。
伊達家の台帳(写)によると初代・政宗公より四代・綱村公の指されたるものと記されている。
武田信玄所用 短刀 銘 信国
室町時代山城国の刀工・信国の作。龍・剣・三鈷杵の透かし彫りが施されている。黒石々塗小脇指拵は桃山期の作。
武田信玄が所持し後に徳川将軍家に伝来した。 

注目はなんと言っても蜻蛉切でしょう。まさか拝見できるとは思いませんでした。
なかなか展示をしない死蔵されている歴史的な刀剣や甲冑が多々ありますが、この様に時おりでも展示していただけると有りがたいです。 

1501 岩清水八幡宮と松花堂昭乗

2015-03-12 | 探訪
2015年も3月ですが、記事はやっと1月。
皆様あけましておめでとうございます

2015年最初は京都八幡
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まずはケーブルに乗って男山山頂をめざします
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岩清水八幡宮
正月期間だったので凄い人人人人人
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信長塀
織田信長が天正八年(1580)に寄進。土と瓦を幾重にも重ねて耐火・耐久性に優れているそうです。
信長はよく似た塀を尾張の熱田神宮にも寄進しています。
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御神木「楠」
建武元年(1334)楠木正成が必勝祈願の為に奉納したと伝わる楠。

さて私がこの岩清水八幡宮を来たのは、昨年(2014)松花堂庭園内にある草庵茶室「松花堂」を訪れた時、この茶室が元はこの男山にあったと知ったからです。
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史跡 松花堂およびその跡
茶室「松花堂」は元はここにあったそう。
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松花堂・中露地主要部
寛永14年(1637)昭乗は隠居し、この地に松花堂を建てます。写真は茶室の中露地の主要部だった所。
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瀧本坊跡
「男山四十八坊」のひとつ。慶長3年(1598)昭乗は、瀧本坊実乗のもと八幡宮の社僧となる。
寛永4年(1627)師の実乗が亡くなると、昭乗は瀧本坊住職となった。
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泉坊松花堂跡
現在松花堂庭園にある泉坊書院は元この地にあった。
泉坊書院は小早川秀秋寄進とされる。

さて、男山を降りて次ぎの場所へ
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泰勝寺
泰勝寺の寺号は熊本にあった細川家の菩提寺・泰勝寺より命名。
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泰勝寺特別拝観
このお寺の拝観は基本事前予約が必要ですが、正月三が日と昭乗忌には予約不要。
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南天(難転)招福の庭
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茶席 閑雲軒
昭乗が瀧本坊に作った茶席を復元。
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松花堂昭乗の墓
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貴芳殿
こちらには主に松花堂昭乗に関する宝物が展示されています。
昭乗愛用の茶碗、昭乗作茶杓「岩清水」、昭乗筆「修学寺八景」、小堀遠州書状「松花堂宛」、光悦の書、沢庵宗彭書状、江月宗玩一行書、木下長嘯子の和歌、黒織部茶碗、仁清作の茶入。

松花堂三昧の一日でした。
 

1412 嵐山史跡の博物館 道灌の時代

2015-03-09 | 探訪
やって来ました埼玉は嵐山
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菅谷館跡
鎌倉時代の御家人・畠山重忠の居館
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畠山重忠公像
重忠は源頼朝の家臣で戦では先鋒を務めるほど重用された。しかし3代将軍・源実朝の代に北条氏に討たれている。
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嵐山史跡の博物館
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企画展「道灌の時代~戦国時代は関東から始まった~」
期間:12月6日(土)~平成27年2月22日(日)

「15世紀後半から16世紀前半の関東は、室町幕府とその地方機関である鎌倉府という権力の二重構造が引き起こした争乱の時期であり、その争乱の終焉とともに始まる新たな支配体制へと向かう時期でもあります。」(公式より)
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太田道灌所用 漆皮軍配
枠は鉄製、そこに革を張り全体に漆を塗っている。表面に朱漆で梵字や月・干支を表す。
道灌が奥州に赴く際に常陸国総社宮に奉納したと伝わる。
大円寺古天明霰釜
室町時代に天明にて作成された釜。胴に26段の霰文を表す。
太田道灌が茶の湯の際に愛用したと伝わる。
宗祇堺流連歌伝授巻(長六文)
文正元年(1466)武蔵国五十子陣にて長尾孫六に与えた連歌論の書状。
当時の関東は享徳の乱の最中であり、五十子には山内上杉氏の陣所があった。
宗祇は関東に赴き地元の武士達と連歌を行い親交を持った。
河越千句
文明二年(1470)太田道真主催の連歌会のこちらは享和元年(1801)の写し。
この連歌会は正月10日から3日間行なわれ、参加者は道真の他に連歌師・宗祇、連歌七賢のひとり心敬、その弟子で後に宗祇に師事した興俊(猪苗代兼載)他10数人。この会には参加していないが太田道灌も父・道真同様に宗祇と知り合いであった。 

太田道灌の漆皮軍配は2007年にレプリカを見たのですが、今回モノホンを拝見できて良かったです。
本物の展示は年内(2014年)までで、来年(2015年)からレプリカ展示と知って慌てて行ったのは内緒ですw 

1412 掌美術館 九州に残った豊臣氏 ~ 圓徳院 織部の武家茶

2015-03-06 | 探訪
京都
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高台寺 掌美術館
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秋の特別展 九州に残った豊臣氏
期間:10月24日(金)~12月14日(日)
「木下延俊公は豊臣秀吉の妻・北政所の兄である木下家定公の三男で、豊臣氏の武将として生涯を送った人物です。(中略)また、北政所は出家して高台院となり京都で暮らしましたが、彼女の甥にあたる木下家定公の息子たちも京都で繰り返し交流を行なっています。(中略)京都は江戸時代初期の豊臣一族にとって、北政所や亡き秀吉公とのつながりを再確認する重要な地となっていた、といえます。今回の展覧会では、豊臣氏を支えた北政所ゆかりの高台寺において、江戸時代の日出藩主木下延俊公や豊臣氏の親族についてご紹介します。」(公式より)

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慶長十八年之日記
慶長十八(1613)年1年間の木下延俊の行動を側近2人が記録したもの。
この年の延俊は、正月に江戸にて将軍・徳川秀忠に年賀の挨拶を行い、幕府の重鎮・大久保忠隣、本多正信、土井利勝らのもとを訪れているし、他にも古田織部、福島正則とも会っていた。2月には駿府の大御所・徳川家康、次に京都に4ヶ月余り滞在し生母・雲照院や叔母の高台院といった親類や茶人・千少庵、小鼓の観世道叱等と交流を重ねている。その後、大坂で豊臣秀頼に挨拶し7月5日日出に到着している。
天竺菩提樹数珠
菩提樹の実一つ一つに五体の羅漢が彫刻されている数珠。
豊臣秀吉が正室・北政所の生母・朝日の方に贈った品。朝日の方が亡くなった後、木下延俊が菩提寺の松屋寺(大分県日出町)に納めた。

お次は掌美術館のほど近く
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圓徳院
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秀吉好み手水鉢
秀吉が世話になった西尾家に贈ったもの。後に西尾家から圓徳院に寄贈された。
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北庭
伏見城にあった北政所化粧御殿の前庭。後に小堀遠州が手を加えている

さて今回、 圓徳院を訪れたのは
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秋の特別拝観「織部の武家茶~秀吉公、ねね様に捧げる~」
期間:10月24日(金)~12月14日(日)
こちらでは織部と秀吉の逸話より生まれた武家点前でお茶がいただけました。
茶掛はもちろん織部消息。六月十三日付の安養寺宛で明朝お礼に伺うといった内容。
 

1412 正木美術館 茶の美

2015-03-03 | 探訪
お次も大阪
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正木美術館
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正木孝之コレクション特別展 第2部 茶の美
期間:10月25日(土)~12月21日(日)
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一休宗純墨蹟 滴凍軒号
康正二(1456)年一休が絶天紹禅人の住まいに「滴凍」の軒号を与え、それにまつわる偈を書き与えたもの。
正木孝之はこの「滴凍」を自らの雅号とし茶室の軒号としている。
大燈国師墨蹟 渓林偈・南嶽偈
国宝。大徳寺の開山・大燈国師が虚堂智愚の2つの偈を書写したもの。その書は堂々として力強い。
大燈国師は虚堂智愚の孫弟子にあたり自分こそが虚堂の法を継ぐ者であるとの自負がみられる。
虚堂智愚墨蹟 送僧偈
84歳の虚堂が別れに際し県の役人に与えた書。虚堂はこれを書した翌1269年に亡くなっている。
この墨蹟は紀州徳川家に伝来し、三代将軍徳川家光が紀州徳川家の屋敷に御成の際、数奇屋の床に飾られている。