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言無展事

徒然に禅語など。

2+2=5

2008年09月30日 21時41分32秒 | Weblog
NYCで一週間借りたアパートメントホテルのマガジンラックに、ジョージ・オーウェルの『1984』があった。
これといって特徴もないごく普通のアパートで、そのマガジンラックにはファッション雑誌やタウン誌がいくつかあり、小説は一冊だけだった。なんだか意味深なチョイスだった。読む時間はなかったが、絶えずその表紙が目に入るので、結局、オーウェルについて一週間もだらだらと想うはめになった。
オーウェルの未来をもう24年も過ぎたけれど、はたして私たちは今、どんな現実を生きているのだろうか。

"Two plus two makes five."

-1984 by George Orwell

何か大きな力にそう言わされる事態にはなっていないようにも見えるし、はなからそう言わされてなんとか生かされている社会のようにも思う。彼は全体主義と言ったが、"2+2=5"と言わされる為に全体主義なんて大仰なものは必要なく、ではその代わりにそこにあるのは一体なんなのだろうか。ネグリの「帝国」だろうか。それとも。。。云々。
誰か、『2080』を書く作家はいないものだろうか。
そこには何が描かれるのだろう。

NYC

2008年09月10日 05時44分12秒 | Weblog
さて、7年目の9月。
行けるうちは行こう、と思い、ずるずると7年。行けるものだ。
なんだか、自分に対して引っ込みがつかなくなっているだけのような気すらしてくる。

しかし依然として、私にとっては貴重な体験だ。
年に一度、マイルストーンを置いていくように、NYCに行くことが私の人生の時間をより可視的なものにしてくれる。
あの日から、私は一年一年を確かに数えてきた。

たった一編の詩が書ければ、それで決着がつく思いに違いない。
人間の悲惨について、歴史について、鎮魂の思いについて、愛惜について。
だがそのためにはまだ、私は未熟すぎる。

今年は何に出会うのだろうか。
NYCは、今年は何を、私に教えてくれるのだろう。

暗闇で饅頭

2008年08月31日 14時42分07秒 | Weblog
最近なんだか苦もなく笑いたく、漱石の『三四郎』を読み返した。

これといって大した事件は起こらない筋書きなのに、一々可笑しい。何でも書ける天才漱石が、こんなのどうよと書く、その鮮やかさだけで全ページが面白い。しまいには箸が転んでも笑える気分になって、完全に漱石の術中にはまって、そのことすら爽快に感じる。
例えば三四郎が夕方の大学の講義に出席したシーンの記述。

「筆記をするには暗過ぎる。電燈が点くには早過ぎる。細長い窓の外に見える大きな欅の枝の奥が、次第に暗くなる時分だから、室の中は講師の顔も聴講生の顔も等しくぼんやりしている。従って暗闇で饅頭を食う様に、何となく神秘的である。」

(夏目漱石『三四郎』)

「暗闇で饅頭を食う様に、何となく神秘的である」、これはほとんど放言だ。
『草枕』の羊羹は有名だが、要は甘党なのだ。
それを圧倒的な力量で包んで戦車の様に突き進むからたまらない。

文学作品、文豪と侮ることなかれ。
ただ単純に可笑しいという点ですら、大抵のものは彼らに敵いはしない。


ブログ通信簿。

2008年07月24日 04時31分31秒 | Weblog
最近さぼっていたので、ブログ通信簿をやってみた、という記事を。
まあ、間違っていないな、という結果。気楽度だけ評価が高い。
近々の10件を評価するらしいが、確かに温泉についてたくさん書いた気もする。

「ポジティブなことはいいことです。」

この無防備さは、なんともけなげである。

伊賀に行って、芭蕉についてここに一件書こうと思って、まだ果たせない。
今月中には。。。

ネオテニー

2008年05月14日 03時07分10秒 | Weblog
日本人の一般的精神的未成熟さの原因のひとつには、モンゴロイドが人類の中でも特にネオテニー(幼態成熟)の傾向が強い人種であることが挙げられる、という珍説を友人が持ち出して、最近ことに若く見られるようになった自分は、はた、ネオテニーの顕著な例かと冗談で思った。

ウィキでネオテニーの項目を見ると、ヒトのなかでも男性は精神的に、女性は肉体的により強くネオテニーの特徴がみられる、というデズモンド・モリスという人の主張の記述があって、これも冗談のようだが笑えない。
私は女だから、肉体的なネオテニー傾向というのは、学説的には間違っていないようだ。(もちろん、実際は間違っている)

しかし、初対面のコーカソイドやネグロイドの人達から「ティーンエイジャーかと思った」と心底驚かれ、同じモンゴロイドの人達からも「え、そんなに歳とってるの?」などと言われるようになると、ちょっとたじろぐ。さらには自分の写真を見て、なんだか小学生みたいな顔と身体だな、と思うのは奇妙な気分である。若い頃は「宇宙人キャラ」で通っていたが、最近は「少年キャラ」ということになっている。ネオテニーを通り越して性別まで違っている。

さて、この先この身体はどう老いていくのだろう。
私はなんだか、皺くちゃになったウーパールーパーが頭を過る。
私は、自分が皺くちゃのウーパールーパーみたいになって死んでいく気がして、そのとてもシュールな情景を想像しては、独りで笑っている。

塵から塵へ

2008年02月13日 03時23分55秒 | Weblog
遠方より友来る。

といって、ちっとも遠方ではない。隣の国からだ。
彼はまあまあ流暢な英語で話し、私は統語も何もあったものではない滅茶苦茶な英語で話す。
だがお互いをよく知っていると、なぜかお互いに思っている。

昨年ニューヨークで知り合ったリトアニア人の女性は、旦那さんが中国人で、夫婦の会話は日本語だという。2人が日本に留学している時に出会い、恋に落ちて結婚したので、出会った時からコミュニケーションは日本語だった。
出会った頃はお互いまだ日本語が流暢ではなく、デートには辞書を持って行ったらしい。
今では彼女の日本語は私より上手い。
しかし、その光景は不思議ではある。
どちらかの母国語を共通言語とする国際結婚の夫婦はどこにでもいるし、両方の母国語でなかったとしても、英語やスペイン語、もしくは2人の住む国の言語を話す夫婦も多くいるだろう。
だが、アメリカ合衆国に住み、日本語で話すリトアニア人と中国人の夫婦というのは、単純に表現して「レア」だ。

私は無粋にも彼女に尋ねた。
2人の愛を育むのに、そのツールが第三の(しかも割と特異な)言語であることは、障碍にはならなかったのか、と。
その時の彼女の答えを、私は一生忘れないだろうと思う。
要約するとこういうことだ。
「人間は、本当にシンプルな言葉で、自分自身の内面や深い思想を相手に伝えることができる」
そして、それが何語であるかはそう大した問題ではない、と。
彼女とその旦那さんのような夫婦の形態は、それほど珍しいものではないとも言っていた。
きっと私の知っている世界は狭いのだ。

さて、隣の国から来た友人は韓国人、私は日本人で、どちらも相手の母国語を使えないので英語で話す。
それはもちろん普通のことだ。そのために私達は義務教育から英語を勉強する。
だが出会ってから今まで、複雑な言葉など一度も使ったことがない(使えたことがない)。
ひどく稚拙な言葉の連なりで、私達は互いを深く信頼している。

久しぶりに会って、ここに一件の記事を書きたくなるようなことを彼が言った。
”ライフ”についての彼の感慨のほんの一部である。

“From dusts, to dusts."

塵から生まれ、塵へと還る。
だがそこに西洋的なニヒリズムはない。ライフの全肯定としての「塵から塵へ」である。
たった4つの単語で構成された、はたして英語表現として成立しているのかもわからないようなこの言葉を間において、彼と私はそれぞれにひとつの精神となる。
その時、2人は互いに韓国人と日本人である、というよりは、より東洋人同士であると言えるだろう。
そしてきっと、同じ東洋人であるという以上に、単に同じ「人間」なのだ。
言葉は不思議だ。人間はさらに不思議だ。


余談だが、これまた友人に、日本に住んでいる韓国人同士の夫婦がいる。彼らも学生時代に日本に来て日本語を勉強し、そのまま日本に住み着いて、なぜか今はこれまた私よりも日本語が上手い。
だが最近知って驚愕したのは、彼らは普段2人でいるときも、半分は日本語で喋るらしいのだ(私がいると2人はいつもほとんど日本語で喋っているが、それは私が韓国語を解さないことに気を使っているのだと思っていた)。
なぜかと聞くと、互いが日本語で経験したもの(その日仕事場であったことなど)を韓国語に翻訳して話すのが面倒だかららしい。
もし自分が同国人のパートナーと外国にいるとして、2人きりの時に自分たちの母国語でない、その国の言語で話すだろうか?
私は日本語以外に満足に使える言葉がないので、想像したこともなかったが、どうやら世界はそのようになっているらしい。

塵から塵へのライフである。
私達がどの国で生まれ、何語を話し、どんな他者と交わろうと。
その瞬間瞬間が、切実で、輝いたものであればいい。


自画像

2008年01月30日 02時36分43秒 | Weblog
最近、鶴岡八幡宮の国宝館、江戸東京博物館と続けて北斎を見た。
江戸東京博物館の北斎展の盛況ぶりはすごかった。
随分前にここで応挙を見たが、ちょっと比較にはならない。
この国の画家の中でも、北斎の人気は群を抜いている。

上手いだけなら確実に日本史上最も絵が上手い画家だ。
作品数も生涯に約3万点と、途方にくれる。だがその2つの点はもちろん無関係ではあるまい。
生まれてから死ぬまでに、93回引っ越ししたらしい。90歳の長寿ではあったが、
普通の人間が一生のうちに引っ越しし得る回数ではない。

残っている作品数が多いから、国内はもちろん、世界中どこにいっても北斎に出会う。
江戸東京博物館の展示は、オランダとフランスから招聘された作品が多く、その点は珍しかった。
なかでも会場の最後に飾られていた自画像が最高だった。
知り合いへの手紙についでのように描かれている、83歳の時の作品だ。
北斎が描いたのだから、そっくりに違いない。

そこにあるのは、愛嬌のある、しかしどこか韜晦しているような。
既に何かを完全に手に入れていて、それでもなお何かを求め。
情熱的でありながら、執着を持たない。そのような老人の笑い顔だった。

「人魂で 行く気散じや 夏野原」(葛飾北斎)

彼のとんでもなく素晴らしい辞世の句にぴったりだと思った。
一見どうしようもない感じの、そしてどこまでも完成された芸術家であったのだろうと想像した。



2008年01月17日 00時40分15秒 | Weblog
鎌倉の吉兆庵美術館で、改めて北大路魯山人の器を見る。
今まで古いものばかりに気を取られて、時代の近いものにはあまり気持ちが向かなかった。
しかし、生活の上で食への興味が高じてくると、次第に視界の端にちらつきはじめる。

見て間違いのないことなど知っている、と言うのは簡単だ。
だがやはり器は素人には難しい。
見て、見て、いいということがわかる、という経験を蓄積するしかない。

信楽、備前、九谷、どれもよかった。
めまぐるしく作品によって自分自身を更新していく、分裂症気質に属する芸術家の作品は、
時に少年の遊びを思わせ、時に老成した大家の顔も見せる。
特に志野には彼の思い入れを感じた。

魯山人の一番有名な言葉は

「自然美礼賛一辺倒」

だろうか。どの器をみても、確かにその思いだけは疑いようがない。

2008

2008年01月03日 17時36分29秒 | Weblog
謹んで新春のお慶びを申し上げます。

旧年に末の言葉を探すうち、新しい年を迎えてしまった。

昨年末に親友と話していて、2007年をまとめる漢字一字の私家版を考えようということになった。ちなみに例の清水の舞台で発表される、日本社会の2008年を表す漢字一字は周知のように「偽」であった。
友人は「緩」、私は「漂」ということにした。どっちもどっちである。
話の流れで、では2008年の抱負を漢字一字にしてみよう、ということになった。あまり大げさなことをいうと首を絞めることになるので悩んだが、友人は「応」、私は「満」とすることにした。どちらも突き詰めるとひと人生必要な感じもするが、とりあえず目先の道標とするもよし、で落ちついた。

さて、「満」とはどのような具合であればいいのか。
手前味噌ながら、昨年に自分が書いた四行詩集からひとつ引くことで、新年の言葉としたい。

「未開の微笑
 今や汝風を背負い
 讃えられてある旅路に
 表象の空が高い」

(四行詩集『帰来』より)

到達点であるような通過点、通過点であるような到達点。
そのような瞬間に満ち満ちていること。満たされること。
それはさてどのようなものであろうか、と、しかし考えてわかるものでもなさそうだ。
とりあえず生きてみれば、いつか僅かでも会得することがあるかもしれない。

広辞苑

2007年12月17日 05時21分34秒 | Weblog
早くも師走が半分過ぎた。

さて、わたくしの所有する本の中で最も分厚い本は広辞苑である。
今までの人生において、手に取り開く回数が最も多い本も、結局は広辞苑である。
手元にあるのは昭和44年岩波書店発行の広辞苑第二版、子供の頃に親から譲り受けた物を未だに使い続けている。
古い物だが、辞典というよりは辞書としての使用が多いため、さして不自由はなかった。
高名な編者の新村出氏はこの第二版の刊行前に亡くなり、序文は編集者の一人であり新村出氏の息子でもある新村猛氏が書いている。その末文はこう締められる。

「さきに名を記させて頂いた諸氏をはじめ、すべての協力を惜しまれなかった先学諸賢に対し、ここに故人に代わって深甚の謝意を表し、併せて読者諸兄の忌憚なき批判を乞い、以って将来の改訂に備えたいと思う。」
(『広辞苑』新村猛氏)

全編にわたってとてつもなく熱い本で、広辞苑に行間を求める変わり者も他にいなかろうから、わたくしは常に存分に楽しんでいる。
ちなみに今日ちょっと面白かったのは、この広辞苑の最後から数えて4語目、

「ん[感]→うん」

「ん」という感嘆詞で、意味は「うん」の項を見ろとある。

現在、この広辞苑は1998年に第五版が出版されている。
そして来年2008年の1月11日には、第六版が出版予定と聞いた。

http://www.iwanami.co.jp/kojien/

さて、如何なるものだろうかと想像する。
第五版から10年かけて新たに10万語を採取し、その中から1万語を加えたとある。追加した語として、
「いけ面/午後一/代引き/さくっと/スローフード/ラブラブ/言語論的転回」等が例にあがっていた。「ブログ」「検索エンジン」「MP3」も載るらしい。
「さくっと」はちょっと面白い。
第二版から40年近くたって、日本語もとてつもなく増えたことだし、購入すべきかもしれない。

さて、ここまでは前振りである。
この記事で引きたかったのは、この第六版のコピーに踊る文字。

「ことばには、意味がある。」

深遠だなあ。