竹橋にゴーギャンを見に行く。
数年前にわざわざボストンまで見に行った"Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?"が来日して、見ずに済ませるわけにもいかない。
気難しい男。暴力的な孤独とささくれ立った神経。
だから嫌いなんだよ、とひとりごちて思わず、それはどこか薄らと近親憎悪ではないかと疑った。
何を信じ、何が信じられなかったのか。少なくとも自分の絵は信じようとし、少なからず信じただろう。あとは?タヒチのむせ返るような濃密な空気、褐色の肌の少女、そこにある官能、だが本当に?
描かれたものは、確かに彼が「見た」ものだ。だが何を「見た」のか。
キュレーターがつけた日本人の感性にわかりやすい解説文に書かれていること程、この男が単純であるわけがない。ざっくりと表現して、歴史上の西洋人にはいつでも、東洋人から見て少々込み入った事情があり、その哲学的な精神生活は伝統的に複雑なのだ。
偶々、ゴーギャン展の会期中にやっていた所蔵作品展「近代日本の美術」の後期に東山魁夷の「残照」が出ていて、それに合わせて行った。先日記事に書いたように、偶然だが今年は東山魁夷をよく見たので、集中しようと思った。
ゴーギャンの"Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?"と東山魁夷の「残照」ではいかにも食い合わせが良くない。だが「残照」は良かった。山々を輝かせる残照が、彼の何を鎮めたのか。
ただ偶然、物理的に近くに存在しているというだけの、同時に見ていまいち収まりの悪い2枚の絵を前にして、西洋と東洋の比較など考え出すのはあまりに短略に過ぎるし、そんなことは出来得ようがないから、個別に2人の人間のことを想うしかない。人間の精神の問題は、結局最後は固体差に還元されてしまう。そして、わたくしの中のゴーギャンと、わたくしの中の東山魁夷に、同時に相対するしかない。
数年前にわざわざボストンまで見に行った"Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?"が来日して、見ずに済ませるわけにもいかない。
気難しい男。暴力的な孤独とささくれ立った神経。
だから嫌いなんだよ、とひとりごちて思わず、それはどこか薄らと近親憎悪ではないかと疑った。
何を信じ、何が信じられなかったのか。少なくとも自分の絵は信じようとし、少なからず信じただろう。あとは?タヒチのむせ返るような濃密な空気、褐色の肌の少女、そこにある官能、だが本当に?
描かれたものは、確かに彼が「見た」ものだ。だが何を「見た」のか。
キュレーターがつけた日本人の感性にわかりやすい解説文に書かれていること程、この男が単純であるわけがない。ざっくりと表現して、歴史上の西洋人にはいつでも、東洋人から見て少々込み入った事情があり、その哲学的な精神生活は伝統的に複雑なのだ。
偶々、ゴーギャン展の会期中にやっていた所蔵作品展「近代日本の美術」の後期に東山魁夷の「残照」が出ていて、それに合わせて行った。先日記事に書いたように、偶然だが今年は東山魁夷をよく見たので、集中しようと思った。
ゴーギャンの"Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?"と東山魁夷の「残照」ではいかにも食い合わせが良くない。だが「残照」は良かった。山々を輝かせる残照が、彼の何を鎮めたのか。
ただ偶然、物理的に近くに存在しているというだけの、同時に見ていまいち収まりの悪い2枚の絵を前にして、西洋と東洋の比較など考え出すのはあまりに短略に過ぎるし、そんなことは出来得ようがないから、個別に2人の人間のことを想うしかない。人間の精神の問題は、結局最後は固体差に還元されてしまう。そして、わたくしの中のゴーギャンと、わたくしの中の東山魁夷に、同時に相対するしかない。