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言無展事

徒然に禅語など。

竹橋

2009年09月09日 04時41分03秒 | Weblog
竹橋にゴーギャンを見に行く。
数年前にわざわざボストンまで見に行った"Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?"が来日して、見ずに済ませるわけにもいかない。

気難しい男。暴力的な孤独とささくれ立った神経。
だから嫌いなんだよ、とひとりごちて思わず、それはどこか薄らと近親憎悪ではないかと疑った。
何を信じ、何が信じられなかったのか。少なくとも自分の絵は信じようとし、少なからず信じただろう。あとは?タヒチのむせ返るような濃密な空気、褐色の肌の少女、そこにある官能、だが本当に?
描かれたものは、確かに彼が「見た」ものだ。だが何を「見た」のか。
キュレーターがつけた日本人の感性にわかりやすい解説文に書かれていること程、この男が単純であるわけがない。ざっくりと表現して、歴史上の西洋人にはいつでも、東洋人から見て少々込み入った事情があり、その哲学的な精神生活は伝統的に複雑なのだ。

偶々、ゴーギャン展の会期中にやっていた所蔵作品展「近代日本の美術」の後期に東山魁夷の「残照」が出ていて、それに合わせて行った。先日記事に書いたように、偶然だが今年は東山魁夷をよく見たので、集中しようと思った。
ゴーギャンの"Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?"と東山魁夷の「残照」ではいかにも食い合わせが良くない。だが「残照」は良かった。山々を輝かせる残照が、彼の何を鎮めたのか。

ただ偶然、物理的に近くに存在しているというだけの、同時に見ていまいち収まりの悪い2枚の絵を前にして、西洋と東洋の比較など考え出すのはあまりに短略に過ぎるし、そんなことは出来得ようがないから、個別に2人の人間のことを想うしかない。人間の精神の問題は、結局最後は固体差に還元されてしまう。そして、わたくしの中のゴーギャンと、わたくしの中の東山魁夷に、同時に相対するしかない。

まさかのアフィリ

2009年08月11日 01時41分05秒 | Weblog
先日、知人との会話でこのブログが話題になった。

知人「なんであのブログ(拙ブログ『言無展事』のこと*筆者注)、アフィリしないの?」
わたくし「え、あのブログでアフィリしてどうすんの」
知人「だって、記事に出てきた本、アマゾンで検索するの面倒じゃん」

え、そんなことする人いるの?と思ったが、そんな奇特な知人の為に一応リンクを貼ることにした。まさかの展開だが、このご時世だし、出典を明らかにするにもいいかと思った。過去の記事にも随時貼っていくので、興味を持った方はお読み頂ければ幸いだ。
でもねえ、岩波版『無門関』じゃあネ。。。

峻烈なもの

2009年06月27日 23時04分24秒 | Weblog
善光寺のついでに、信濃美術館の東山魁夷館に行った。
長野に行く時は時間があれば必ず立ち寄る。

東山魁夷については、わたしくしは彼の絵画そのものよりも、散文により多く心を惹かれてきた。彼の思想と絵画作品の多くを彼の散文を通して知り、それを補完するようにして絵を見ている。だから美術館に行っても、純粋な鑑賞者であるとはいえない。解答を知っている問いに似て、作品を前にしても、どうしても思考は彼の生き様そのものに向かう。

彼の散文は、並みの文筆家のそれよりも素晴らしい。戦前・戦中派に多く見られる、深い倫理性を内包した率直でリベラルな知性が、淡々と言葉を紡いでいく。画家としての豊かな観察眼が事物を明晰に描写し、抑制のきいた、しかし確かな叙情を展開する。
日本画家でありながらドイツに留学し、トーマス・マンを愛好し、東西の芸術と芸術史について極上の見識をもち、終生旅人だった。そしてなにより豊穣な資質、挫折、堅実な努力、自然の美への回帰、大成と、日本の芸術家としては完璧とさえ思える生涯を、この上なく真摯に生きた。

優しい雰囲気の作品が多いが、画家であるということについて、こんなことを書いている。

若い頃は、スケッチに出掛けた山でよく子供たちと遊んでいた。しかし、

「今では私は、子供が寄ってくると、こわい顔をしてにらみつけたくなる位です。写生の邪魔になりますから。」
「その時分は私の心臓が今よりも暖かく鼓動していて、純粋に画家であるよりも、もっと他のもの、いわば人間であったからです。画家であると云うことは、人間以外のものであることを必要とする峻烈なものです。」

(東山魁夷『わが遍歴の山河』)

「人間以外のものであることを必要とする峻烈なもの」
になること、それでありつづけること。それであることの痛みと救い。
なんであれ、それは無償の恵みではあるまい。

彼の描く森や湖に、その片鱗を探した。




泉に聴く (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
東山 魁夷
講談社

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2009年02月19日 17時02分42秒 | Weblog
今更のようだが、今年の抱負として選んだ座右の漢字一字は「澄」だ。
これは例年(といっても今年で2年目)、親友のMと年初めに、その一年をどのような心持ちで生きるかを考え、各々に選んでいる。昨年わたくしが選んだ漢字は「満」、Mが選んだ漢字は「応」だった。昨年末にはたしてその成果はどうだったかと反省すると、お互いに納得のいくものではなかった。なるほどなかなか難しいものだと思った。
今年の「澄」は、初詣で明治神宮でひいたおみくじにあった言葉から選んだ。明治神宮のおみくじは、ご存知の方も多いと思うが、「大御心」という明治天皇陛下のありがたい和歌になっている。ひいた番号によってさまざまな和歌を頂戴することができ、その「大御心」を身につけよという。私がひいた和歌は、

「あさみどり澄みわたりたる大空の広きをおのが心ともがな」

だった。
そこにはこんな注釈があった

「私達は心の持ち方によって、人生建設の成功、不成功がきまります。狭い心では大事は成功しません。常に広々と澄みわたった大空のような大きな心で進みましょう。」

まったくだ。わたくしにまったくもって必要なことでもある。
縁起ものでもあるし、よし、今年は「澄」だ、となった。
ちなみにMは同じく「大御心」にあった「正」の一字を選んだ。

さて今年も二月が過ぎて、はや「澄」とはなんぞやと日々思う。
「澄みわたった大空のような大きな心」とは。
それはもちろん、いいかげんな心ではあるまい。他者の過ちは許しながらも、自分の過ちに寛大になる心ではなかろう。現実の繊細な機微を見落とすことでもなく、情熱をおろそかにすることでもなく、わかったフリをすることでもない。中途半端な「大きな心」は油断するとすぐさまそれらに化ける。自分自身のそれはことさらに見分けがつきにくく、線引きやコントロールも難しい。
そもそも「澄みわたった大空のような大きな心」というものの正しいあり方を、わたくしはこれまでに自分自身において具現化したことがなく、よってその正体を知らない可能性が極めて高い(偶発的に無意識に経験したことがあるかもしれないという可能性は否定できないが)。「大きな心」とは、はたしてどのような心的状況である時にもっとも純度が高く、その条件とはいかなるものであり、その覚悟の内実とはどのようなものであるのか。明確な答えがあるような命題でもなさそうだが、とりあえずそこから慎重に試行錯誤するのがより確かであるように思われる。
もっとも、そんなことを言っている時点でいろんな意味で君に「大きな心」は到底無理だよ、といわれると反論のしようがないし、自分自身のいいかげんさや自分に対する甘さも全部甘受してこその「大きな心」らしい、と言われれば、そんなものかと思うべきなのかもしれない。

なんだか相変わらず面倒な人間のようだが、無論、聖人君子になるつもりはない。
畢竟、自分が如何に生きたいか、ということに過ぎないだろう。


ビューラー

2009年01月25日 05時56分51秒 | Weblog
皆さん、ビューラーというものをご存知だろうか。女性がメイクをする時に使う、まつげをクルッと上向かせる、あれだ。わたくしは今日、はじめてその存在を知った。わけではない、もちろん。

では世の男性は、女性の多くがそれを毎日、日常的に使っていることをご存知だろうか。おそらく多くの男性が知っているのだろう。わたくしは今日、はじめてその事実を知った。

今日、日頃お世話になっている女友達数人と会って美容関係の話になり、ビューラーが会話の中に出てきた。他人事と思って聞いていたが、話の中でふと疑問に思い、
「え、皆、ビューラーって毎日使ってるの?」
と尋ねると、一様に驚かれた。え、なにいってんの?とばかり。

ほんとうに知らなかったのか、といわれると知っていたような気がする。だが知っていた、というと嘘になるような気がする。確かに日常的に使うのでなければ、いつ使うんだ、ということにもなる。でもその瞬間は、本気で疑問に思った。ようするに、今までの人生において考えたこともなければ認識したこともなかったのだ。わたしくしは一応、性別は女だけれども、人生においてビューラーというものを購入したことも所持したこともない。そうすることをイメージしたこともない。このまま生きていったら、一生ない気がする。これはなんだか奇妙なことだ。

わたくしはこの歳になってもよっぽどのことがない限り化粧をしない。なぜしないのかと問われると、その度にいい加減な答えを返してきたが、端的にいって、日常において化粧をする必要を感じたことがないからだ。勤め人でもないし、異性にアピールする必要もないし、それについて誰かに文句を言われたことも、化粧をしろと言われたこともない。だからしない、というと、そういうことじゃないだろう、といわれるべきなのだろうが、他人はそこまで言ってくれるほど親切ではない。だからわたくしも自分自身を深追いしてこなかった。女性は必要だからメイクをするんじゃなくて、きれいになりたいからするんでしょ。なるほど、そうなんでしょうねえ。

これは単純にいって、わたくしのこれまでの発達段階における欠落のひとつだ。ないものにたいして、なぜないのかととわれても、いや、ないから、としか答えようがない、ということが、世の中にはあるものだ。こういう欠落ばかりの人生は、きっと正しくはない。きっと女性は多かれ少なかれ、思春期にそれなりに化粧品に興味を抱き、女友達とそういった情報交換をし、自分を魅力的に見せる技と工夫を培い、人生を豊かに過ごすのだろう。それを羨ましいとは思わないが(せめて思えといいたくもなるが)、それらすべてをまったくスルーして生きてきたというのは、今思うと問題にしてもいい。いや、ビューラーなどどうでもいいが、「ビューラーを毎日使う」「使わない」という選択肢があって後者を選んだのでもなく、その選択肢がないどころか設問すらなかった人生を生きて、冒頭近くの間抜けな質問を発語する。自分は極めて普通に生きてきたと自負しているのに、思わぬところで、あれれ、となる。そんなことばかりだ。

そんな欠落たちを代償に得てきたものがある。後悔はない。けれど、そんな自分の過去にささやかな復讐をすべく、明日はビューラーなんぞを買いに行こうかと思う。まず、取扱説明書を読まなくっちゃ。

サルトル

2009年01月11日 03時17分51秒 | Weblog
昨年末、親友のMとの会話の中で「初心にかえる」「原点回帰」ということが重要なトピックになった。
前提としてある問題は、自分の人生における過去のその時々の自分の想念に、はたして自分はきちんとおとしまえをつけてきたか、ということだ。かつて自分の精神を揺るがした諸々の事柄や命題について、その多くをなおざりにしてきたのではないか。やり遂げないままに過ごしてきたことが多いのではないか。
青年期を終え、日常を生き抜くため、食べるため、ここ何年かは必死だった。しかし壮年になって幾年か経ってみると、そのことが痛みになる。Mはそれを、過去の自分が現在の自分に「祟る」、という。だからそのひとつひとつを再び注視し、丁寧に成就させていかなくてはならない。

さて、わたくしにとって「初心にかえる」とは。
こういう時、わたくしの思考はいささか滑稽なものにならざるを得ない。
まず「”かえるべき”初心とはなにか」、となる。

というわけで、正月はずっと、今の自分が”かえるべき”初心について考えていた。
物心ついてから青春時代にかけて、自分が何に惹かれ、何を志し、何を見極めたいと思ったのか。
そろそろ一度整理しておいてもよい頃だろう。
思索上はもともと無駄に無意識に初心を貫く性格でもあるようで、かつてかかずらっていたことに、未だに拘泥していることも多い。自分の精神を揺るがす諸々の事柄や命題以外のことにあまり関心がないことや、他にたいしてやることもないという境遇などがそれを利している。だが何か、今このタイミングで”かえるべき”初心があるはずだ。

わたくしの原点は、今思うと老荘思想である。その時のわたくしが一体何をわかった気でいたのかまったく不明だが、直観と直覚の命じるままに漁っていた。それはわたくしにとって重要なテーマには違いないだろうが、しかし、そこに回帰するのはどうかと思う。ただでさえ仏教徒であることを主張すると、「きみのいう仏教はタオイズムだよ」と人からつっこまれる有様なのに、このご時世に、この歳でタオイストを極めてどうするのか。
次に古今、新古今、そして漢詩の世界。これは悪くないが、メインに据えるには渋過ぎる。
道元というのもある。しかしこれはもう少し歳をとってから本気でやりたい。
ふむ。かくして家中の本棚をひっくり返すことになった。
パスカルもヘーゲルもウィトゲンシュタインもちょっと違う。バシュラールもノヴァーリスも、読み直したいとは思ったが今の気分の上では核心ではない。アレント、ヴェイユ、ふむ。わたくしの人生、こんなもんだったっけ。
もちろん、本がそのまま初心なのではない。わたくしは自分の人生上のなんらかの命題や問題を、これらのテクストを横に置いて考えたというに過ぎず、それらの本はすなわちその命題や問題の象徴である。

そうこうしているうちに、しかし、先日突然ひらめいた。
サルトルである。これだ。

わたくしは10代の終わりの多くの時間を、存在論に費やした。
そう記述すると、それは笑えることでしかないけれど、実際、真に辛辣な意味でも笑うべきことである。
その行為は、個人の自由とすれば間違ってはいないが、必要十分であるわけがない。
なるほどそれは果たされていないわたくしの初心だ。
20代の終わりを、再び存在論に費やすのは面白いかもしれない。
少しは自分は利口になっただろうか。非才の成長なぞ測ってみるのも一興である。

というわけで、2009年のわたくしのテーマは「サルトル」と決まった。
存在、存在。
それについて凡夫が多少考えたところで一銭にもならぬ。
だが他に、やることとてないのだ。

やばい

2008年12月23日 04時26分00秒 | Weblog
仕事で沖縄に行った姉が、衝撃の事実を持ち帰った。
修学旅行で沖縄に遊ぶたくさんの中高校生が、何を見てもたった一語しか発語しないというのである。
その一語とは、「やばい」。

海を見れば「海、ちょーやばい」
ご飯を食べても「これやばいよ」
等々。

大変な話だ。
これは確実に、彼らの前世代であるわたしたちの咎である。
何にでも「超」をつけたり、おしなべて「かわいい」と言ったり、
日本語が貧相になる傾向をひたすら押し進めてきた。
ここにいたってすべては「やばい」で表現できるようになったらしい。
かくいうわたくしも、「これ、めっさやばくね?」ぐらいのことは、普段から言う。
反省すべきだ。

言葉が少なくなるということは、わたしたちの考え方や感じ方のバリエーションが減るということだ。
表現のバリエーションが、ではない。
最近、オーウェルの「1984」についての記事を書いたが、
そこに出てくるNewspeak(ニュースピーク)が頭をよぎる。
言語を簡素化することにより、人々から思想を奪うというアイデアである。
なんと恐ろしいことだろう。

「やばい」もバリエーションのひとつならいい。
俗語にはそれなりの意味も価値もあろう。
しかし、他の多くの言葉の代替語にするのは危険だ。
いつか気づいたら、わたしたちは自分たちの言語の多様さを失い、
同時に知性や感性の豊かさを失っているだろう。


骨董屋

2008年11月29日 04時27分39秒 | Weblog
実家に山ほどあった茶道具や掛け軸、陶器類を処分することになり、骨董屋を呼んだ。
祖父母の遺品が巨大なダンボールに10箱ほど、しかし大したものは残っておらず、二束三文とはこのことかとばかりだったが、面白かった。

骨董屋である。
若手といっていい男性だったが3代目というだけあり、わたくしなどからみて恐ろしく博識だった。
普段はかなりの額のものを扱っているようだったから、彼から見ればほとんどがらくた同然のものが溢れる我が実家に呼んだのは、失敬だったかもしれない。
ものの価値を見極めるのという、ただそれだけを仕事にする人間が、この世にはいるものだ。
(もちろん、見極めた後の売買が彼の仕事のほとんどではある。)
わたくしが得たところで雑学にしかならない知識を、収集させてもらった。
青山二郎は好きだが、自分自身はいいものなぞ一生縁がなさそうなのだ。
骨董というものは、似たようなものを博物館で眺めたところでわかりはしないから、やっかいである。

しかし、骨董と呼ぶには及ばず、ただ古いというだけの、倉庫に眠っていた多くのものを、彼は気前よく持ち帰ってくれた。
大して価値がないもの(と彼が言ったもの)について、
「これはもう捨てちゃった方がいいですかね」
と聞くと、
「いや、捨ててしまったらそれで終わりですから」
という。それを繰り返すうち、なんとなく現代における骨董屋の価値、素晴らしさがわかってきた。
ようはわたくしのように古いもののありがたみがわからず、いらないから捨てちゃえ、という浅薄な人間から、古いものをよく守っているのだ。
確かに、燃やしてしまえばそれまでである。
もし彼らのような人達がこの世の中にいなかったら、私達はすべてかたちあるものを失い続けるだけだろう。

そんな中で、唯一彼が引き取ることを拒否した品があった。
母方の祖父が遺した数振の刀だ。
倉庫の奥深くに眠っていて、わたくしはその存在すら知らなかった。
もちろん、無許可である。おかあさま、それは犯罪よ。。。

「よくお父さんがポンポンやってたわ。。」

打粉を打っていたのであろう。
彼女は信州の古い名家の出なのだが、こういうときの会話のおかしさはたまらない。
そんな言葉で思い出にひたるとは。
懐刀をみて「人が亡くなるとこれを抱かせて埋葬したのよ」という。
つい最近まで、土葬の文化が彼女の身近にあった。

その場で解体し、柄と鍔は持ち帰ってくれた。もちろん、無銘だった。
刀身があまりに錆び付いていたから、
「これ、燃えないゴミに捨てちゃだめですよね」
と聞くと、
「お願いですから警察に持っていって下さい」
とのこと。
なにより恐ろしいのは、わけのわからぬ現代人である。


フルスウィング

2008年11月04日 02時20分42秒 | Weblog
神保町のラドリオで、親友のMがまたしてもすてきな名言を聞かせてくれた。

「フルスウィングで、すべてを棒に振りたい」

本当に振りたいと望むなら、さっさと振ってしまえ、である。
だがこれは深遠な問題だ。私自身そういうことを時折考えないでもない。
しかし、その後に会った友人にこの話をしたら、「君ははじめから振ってるようなもんじゃん」とのこと。返す言葉もなかった。

最近、それに近い内容の小説を読んだ。話題が一辺倒だが、昨年出版されたねじめ正一著の『荒地の恋』で、これは荒地の詩人である北村太郎の晩年を綴った、かなり事実に近いと思われる恋愛小説だ。
北村太郎は53歳の時に、十代の頃からの友人である荒地の詩人、田村隆一の妻に恋をし、56歳で家庭と仕事を捨てて家を出る。それまで二十数年間新聞社に勤め、その間に出版した詩集は2冊。それを見た他の荒地の仲間に「たったこれだけかあ」と言われたことを気にしていた。幸福な家庭や安泰な老後といったもののすべてを棒に振り、彼は官能と詩を選ぶ。それから彼の旺盛な詩業がはじまる。

これは彼が40代の時の作品だが、代表作であり、私の好きな詩のひとつである「朝の鏡」の一節を引く。

「朝の水が一滴、ほそい剃刀の
 刃のうえに光って、落ちる――それが
 一生というものか。残酷だ。
 なぜ、ぼくは生きていられるのか。嵐の
 海を一日中、見つめているような
 眼をして、人生の半ばを過ぎた。」

(「朝の鏡」北村太郎)

彼は若い頃、海難事故で最初の妻と息子を一時に亡くしていた。
それは偶然のできごとだったけれど、波乱のある人生だった。
彼が知り得たことの諸々が、彼の詩句を支えている。

派手に動いてみないとわからないことがある。
守りに入る人間を悪く言う気は毛頭ない。それによってしか得られないものがいかに価値あるものか、心底共感する。それが必要なときもある。しかし、それしかしたことがない人間から、人生の秘密や生き死にの認識についてのお説を拝聴するのはまっぴらである。
恵みは(それを恵みと呼んでいいのなら)、常に有償なのだ。

Mはそのフルスウィングの仕方について、これから真剣に考えると言っていた。
どうやら振るに値するなにものも持っていないらしい私は、いつかそれを持てる日が来たら、そのときはフルスウィングですべてを棒に振るべく、そのタイミングを虎視眈々と狙い待つばかりである。


北村太郎詩集 (1975年) (現代詩文庫〈61〉)
北村 太郎
思潮社

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荒地の恋
ねじめ 正一
文藝春秋

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ハワイ?

2008年10月07日 21時41分25秒 | Weblog
ニューヨークの帰りに、ハワイに寄った。
帰ってきてから、まわりの反応はすこぶる悪い。

ニューヨークはまだいい、9.11のこともあるから、皆大目に見てくれる。
しかしハワイはどうも響きが良くないらしい。仕事先などで
「いやあ、ニューヨークの帰りに一週間ぐらいハワイに寄ってきたんですよ、家族サービスで」
というと、一様に

「ハワイ?」

となる。
なるほど、日本人にとってのハワイとは斯様なものであるかと思い知った。
そこにはどんな言い訳も通用しない。
いや、そんなに行きたかったわけじゃないんですけどね、父が行きたいと言うので、まあガイド代わりのお供というか。特に何をしたってわけでもないですよ。買い物をする趣味もないですしね。まあ、ビーチでぼーっとしてただけっていうか(これはちょっと失言)、え、日に焼けてます?そうかな。あ、お土産のマカデミアナッツチョコ、どうぞ。

だめだ。
どんなに言葉を尽くそうと、遊びまくっていたことにしかならない。。
実際は、ラップトップ持参で夜毎泊ったホテルで仕事に励んでいたとしても、そんなことは帳消しである。

この忙しい時に、おまえはハワイで遊んでたのか?という日本人の視線ほど、痛いものはない。