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言無展事

徒然に禅語など。

2014年9月11日

2014年09月21日 18時58分16秒 | Weblog
東京で迎える3年目の9月11日。今年は12日の朝陽を江ノ島で見た。
犬吠埼、高尾山ときて江ノ島ではなんとも先細り感が否めないが、その日は仕事が朝9時から新百合ヶ丘であって、他に選択肢はなかった。
片瀬江ノ島駅に11日の夜8時に着いて、食事をして旅館に泊まって、4時に起きて江ノ島に行き5時20分に日の出を迎え、少しばかり散歩をして7時半には小田急線に乗った。

あれからもう13年だ。
あっという間だったような、長い時間だったような、実感はともかく物理的に時間は経った。
ニューヨークに行かなくなって3年経って、わたくしもまた、実感はともかく物理的に変化した。

若い頃は、ただものを考えるためだけに、見知らぬ街を彷徨い、長距離バスに乗った。時間をかけてどっぷりとハマってものを思い、その思いがいかなるものであるかを突き詰めようとした。最近は日常に埋没してなかなかそんな時間もない。
9.11が少しばかり遠くなり、自分のそれについての考えも、輪郭が確かな像を結ばなくなっている。今、自分がどこにいるのか、それが何を意味するのか、わからなくなってくる。
わたくしは言葉を扱う人間であるので、なんとなく格好のつくことは書ける。でも詩人としてのわたくしは、それが実際に現実の自分であることを要求する。思ったふりは許してくれない。

だから今年は、今までと全く違う意味で苦しかった。年に一度のこの日ぐらいは、自分が自分であることを自分自身に証さなくてはならない。そのために、自分が失いかけているものを手放さないように手繰り寄せ、焦点の合わない目を凝らそうとした。

果たしてご来光は素晴らしかった。これは恩寵だ。異様なまでに大きく赤く、三島由紀夫の『豊穣の海』にある「赫奕として昇る日輪」という言葉を思い出した。
まだ大丈夫だと、恩寵を与えられ、それを掴み感得できると、ただその一点にしがみついた。

帰りに江ノ島大橋を渡りながら、わたくしにとって生きるとは、9.11を生きることだ。詩を生きることだ。それだけを繰り返し何度も念じた。
そうすることで、これからの一年を生きる自分を奮い立たせた。
そして、わたくしの9.11が、詩が、またここから新しくはじまることを自分自身に思い知らしめようとした。

「煉」

2014年01月31日 03時22分58秒 | Weblog
年が明けて半月も経って、ようやくMと初詣に行く。もう十年以上続く年中行事だ。

Mは根津千駄木あたりを庭にしているので、その辺りに行こうかと言ったら、今年は丸の内に行こうと言う。丸の内で初詣?と思ったら、平将門の首塚だった。奇抜過ぎる。

平将門といって、わたくしは全く詳しくない。幼少期に読んだ歴史上の偉人を扱う漫画で、やたらと格好良くて大好きだった、という認識程度。あとは学校で習った歴史の知識しかない。
でも道すがら聞いたMの講釈と、首塚の、丸の内のビル群の中でそこだけ取り残されたような異様な佇まいに、なるほどと思った。
とにかく、とんでもない人間だったのだ。結局、誰も鎮められなかった。死後1000年を越えてなお持続するような他者を圧倒する生命のエネルギーに、ひ弱な近代以降の人間がかなうわけがない。
朝廷に反旗を翻し、日本史上最初に関東を制圧した。要約すればそういうことだ。でも、彼が残した歴史上の偉業だけでは、彼を語ることはできないのだろう。そんな文言が持て余すほどの、荒ぶる熱。それは先天的な、ある意味では奇形とすらいっていいような、思いや努力ばかりのせいではない、彼自身にとってもなんとも御し難いものだったのではないか。もちろん、彼の後世における扱われ方、彼を受けとめる人間達が、その首塚を長くそこに存在させている。だが火のないところに煙は立たない。むしろ、現代のわたくし達にはわからない彼の本質的な何かを、かつては皆、知っていたのだ。
人間とは、もともとどんな生き物だったのだろう。

さて、今年の漢字はどうしようかと悩んだ。
昨年は「浮」だった。ふわりと空中に舞い上がるようにして次に行きたいと書いて、実際は足掻き身悶えるようにして進んだ一年だった。今年は。もう、武神にあやかって、闘いの年にしたい。
というわけで、「煉」にした。煉獄の「煉」だ。現世は天国でも地獄でもないが、煉獄ではあるかもしれない。「煉」を漢和辞書で引くと、「鉱物を熱して不純物を除き、良質のものにする。」とある。洗練、試練の「練」も、「煉」の代用だ。
もう、ある一定水準以下のものに付き合っている暇はない。人生の時は限られている。
Mは「太」とした。
お互いほんと、いい年になった。

高尾

2013年09月16日 01時41分10秒 | Weblog
9月11日深夜、中央線の最終電車に乗って、高尾に行った。
1時半過ぎに高尾駅に着いて、駅前のインターネットカフェで時間をつぶし、早すぎるかとも思ったが3時に歩き出した。日の出の時間は5時20分。
甲州街道沿いに徒歩30分(ルートタイムでは30分とあったが、そんなにかからない)、高尾山口へ。途中、空を仰ぐと満天の星だった。オリオンの中を大きな流れ星が駆け抜けた。今年も自分は大丈夫だ、祝福がある、そう思った。
一日仕事をした後だからそれなりに疲れている。リスクを最大限減らそうということで、ヘッドライトを頼りに舗装された1号路を登る。まあ、登山ではない。ちょっと急な坂道を延々歩くだけだ。薬王院を参詣して4時半過ぎに登頂。ルートタイムでは5時着予定だったから、やはり早過ぎた。

山頂に着いたら先客がいる。3人組の女子高生だ。話を聞くと終電で高尾山口に着いて、そのまま1時から登り始めて、もう2時間以上も御来光を待っているという。この登山ブームに高尾山頂を独り占めかと思ったが、酔狂な人間はどこにでもいるらしい。いい青春だな、と思った。


御来光は素晴らしかった。東京の向こうから昇る太陽は、大自然の中に昇るそれと同じくらい美しい。

東京で迎える2回目の9月11日。昨年の犬吠埼もよかったが、高尾山ではもはやネタでしかない。
どこでもよかった。ただ、美しい朝陽が見たかった。
9月11日はわたくしにとって、一年の中で正月よりも誕生日よりも大事な日だ。12日の朝に昇る太陽を見て、また一年が始まることを感じたかった。

記憶は薄れるのだろうか。思いは。わたくしが生きていくことの中に、何が埋没していくのだろう。
それでも人間の悲惨を精神に抱き続けるために、わたくしには未だ行為が必要だ。

「浮」

2013年01月11日 02時09分04秒 | Weblog
今年の漢字一字は「浮」にした。
昨年は「壮」で、十分とはいえないものの自分なりにはまあまあ頑張った、という感じだった。

2012年は個人的には変化の年だった。2010年の年末に「解体」という記事を書いたのだが、以来、なんだかよくわからないまま手探りで自分自身の解体作業をしてきて、ようやく昨年末にそれがある程度はできたような実感があった。
ちょうどその「解体」の記事を書いた頃、わたくしは20代後半の数年間を費やした何篇かの散文詩を書き終えて、次に行くために自分の持ち得る思考の構造やらシンタックスやらを一新しなくてはいけない必要に迫られていた。今その記事を読み返すと、随分自信ありげなことを書いているが、果たしてそんなことができるのか、当時はよくわからなかった。
実際には、やってできないことではなかった。
でもどうやってやったのかは、まだよくわからない。

昨年の9月11日、12年間通い続けたニューヨークに行かなかったというのは大きかった。日々を生きる表面的な動機の大きな部分が崩れて、途方にくれた。
あと、ここ一年半ほど、本を読むのをやめていた。ボキャブラリーを維持するために近代文学を目で追ったり、世間で話題になっている新書を読んで時間を潰したりはしたが、こんなに本を読まないことはかつてなかった。本を読まないとどうなるのか試しにやってみよう、程度のノリだったのだが、その結果、なんというか、単純に感覚からすると、阿呆になった。
もっと簡単な理由で、歳をとったというのもあるかもしれない。以前よりも、テキストに相対して直覚してぶっとぶ、みたいなことは少なくなった。やろうと思えばいつでもいけるぜ、みたいな気概はあるし、頭で理解する分にはずっと多くのことをわかるようになったとは思うけれど、でも若い頃の意味不明でがむしゃらな勢いはなくなった。そればかりを頼りに今まで生きてきたようなところがあるので、さてどうしたものかと思っている。
他にも、外的環境が変わったり、自分の内面にあった積年の家族問題が予想外の形で緩和したり、いろいろ憑き物が落ちたりと、とにかく変化の年だった。これから何を書いていこうか、何を感じてどう考えていこうか。そういう根本のところがある程度リセットできた。

そんなわけで、今はなんだか人生という階の踊り場にいるような気分だ。
ここからどこにでも行ける。さてどこへ?

というわけで、今年の漢字一字は「浮」にした。
なんとなく直感だが、どこに行くとしても、地に足をつけて歩むのでもなく、跳躍するでもなく、ふわっと浮かんで次に行く感じにしようと思った。昔見た北斎の「列子図」のイメージだ。と思い、ネット上にあったものを無断で借用してきた。いい絵だな。雪舟の「列子図」もいいけれど、わたくしは北斎のが好きだ。



Mは「転」にした。「転ぶ」ではない。「転じる」だ。

朝陽

2012年09月16日 02時43分35秒 | Weblog


犬吠埼で朝陽を見た。

9月11日、今年は白山あたりをひとりふらふらしようかと思っていたのだが、休みが取れなかった。
それでも何かをしようと思ったものの、11日の夕方まで仕事をして、12日は昼から予定が入っていた。できることは限られている。
そうだ、朝陽を見よう、と思った。
時間内で往復できて、とびきりの朝日が見られるところ。といえば、犬吠埼しかない。晴れるだろうか。

東京から片道3時間、20時過ぎに犬吠埼について、事件のあった時間は場末の民宿で黙祷し、翌朝に備えて早く寝た。潮騒が聞こえていた。
だが夜半、嵐の音で目が覚めた。驚くことに、もう、ものすごい嵐なのだ。さっきまで満天の星が見えていたのに。窓から外を見ると時折稲妻が走って、海が不気味に白く浮かび上がる。
これはもう、ダメかもしれない。わざわざ出かけてきて、天気予報は晴れだったのに。だが天気ばかりは人知の及ぶところではない。
嵐が過ぎ去ることを祈って朝を待った。
幸運にも雨風の音が虫の声に変わって、まだ暗いうちに宿を出た。雨は小降りになっている。
日の出の時間は5時15分。一時間かけて、御来光を見る場所を探す。白む空を窺いながら、灯台に近い、犬吠埼の突端と定めた。

それから見た光景を、うまい具合に記述するのは、わたくしの拙い文章力では難しい。
結論をいうと、御来光はよく見えなかった。まだ厚い雲が残っていて、水平線から顔を出す全き太陽というようなものは見えなかった。だが雲の切れ間に青空が広がり、雲の向こうで朝陽が上っていることがわかった。
上空ばかりに雨雲があるのか、空はところどころ晴れているのに、激しい雨が降ってきた。ふと、ああ、そうか、と思って振り返ると、予想に違わず、灯台には美しい二重の虹がかかっていた。

嵐の残りの雨に打たれて、遙か彼方、雲の向こうにそれでも日が昇り、振り返ると虹がかかっている。
これが人生のメタファーであるなら。

わたくしは朝陽を見た。







9月11日

2012年09月11日 00時32分47秒 | Weblog
9月11日を13年ぶりに東京で過ごそうとしている。
もう何年も前から決めていたことだ。

例年、夏は旅資金を稼ぐために頑張って働くのだが、今年はそれ以上に働いている。気を紛らわそうとしていたのかもしれない。
しかし、ふと、旅に行かないならそんなに稼ぐ意味がないことに気づいた。というか、そもそも生活している意味もないような気すらしてきた。そして今まで、どれほど自分が年に一度ニューヨークに行くために生きてきたかがわかって驚いた。

昨年の記事に、わたくしは「ほとんどそのために生きていたと言っても過言ではない10年間だった」と書いている。でも今から思えば、その意味についてはちっともわかっていなかった。「と言っても過言ではない」などというレトリックを弄んでいる程度では底がしれている。

9.11とは自分にとってなんだったのか。
その光景はきっと、当時20歳だったわたくしを打ち砕いた。
日本に生まれて平和ボケしていた(もちろん今もしている)、まだ思想も信念も十分ではない若かったわたくしは、きっとそれによって、多くのものを変化させられたと思う。
それでも根本のところで、結果的に自分がそれから10年間、ぶれずに生きてこれたのは、毎年9月11日をニューヨークで過すという儀式のような年中行事のような、他人から見れば理解しがたいかもしれない行為があったからだと思う。
9月11日をニューヨークで過すために、就職もしなかったし、家族も作らなかった。いろいろなことをして生活費と旅資金を稼いできたが、何者にもならなかった。自分の生き方に、他者の理解を求める必要も、他人が作った価値観を介入させる必要もなかった。
そのことばかりを毎日考えていたわけではないけれど、無意識にもその日その日を生きる動機を根本においては疑わなかった。何かを目標に生活するのに、一年に一度というサイクルは長過すぎることも短過ぎることもなく、ちょうどよかった。
多分、ぶれなかったから10年間ニューヨークに通ったのではない。10年間通ったから、ぶれなかったのだ。

二年前の記事に、「20代の全部をそれに費やすことになった」とも書いた。それも欺瞞だ。
わたくしはもともと、費やすような何ものも持っていなかった。
だからあの日から今日までのわたくしの11年間は、そのすべてが与えられたものだ。
それを思うと、信じられないような気がする。
人生は、この卑小なわたくしにとってさえ不思議だ。

両親は、娘の奇行を、深くは理解しなかったかもしれないがその愛情で許し、時に応援してくれた。
9月になると決まって長い休みを取ることを諦め、認めてくれた、クライアントや仕事仲間がいた。
わたくしを根本で支えてくれる親友と、見守ってくれる友人たちがいた。
ニューヨークには、一方的な恩恵を無条件に与えてくれる居候先があった。

⒐11はわたくしに人間の悲惨に対する目を開かせた。
それによって多くのことを本当には楽しめなくなったし、そこから立ち直ることはないだろうと思う。
この10年間、自分ひとりで身勝手なストーリを紡いで来ただけだということもよくわかっている。
ここに少しばかり長い文章でも書かなければ、それは世界には存在しないこととほとんど変わらない。

しかし、この11年間、わたくしは確かに幸福だったのだと思う。
多分きっと、そういうことなのだと思う。

快慶の弥勒

2012年06月08日 23時40分30秒 | Weblog
上野の国立博物館平成館にボストン美術館の展覧会を観に行った。
3月から始まっていたのだが、3ヶ月という長い会期で、そのうち行こうと思っていて、はたと気づいたらもう終わってしまいそうだった。
二十代の頃は結構真面目に展覧会を観漁ったが、最近はもうそんなこともない。それでも重い腰を上げたのは、快慶の弥勒が来日していたからだ。

行ってまず驚いたのは、会期の終わりかけの平日の昼前に行ったにも関わらず、入るのに30分並んだということだ。
上野の平成館は、場合によっては入館するのに並ばなくてはならない稀有な美術館ではあるが、それでも人気のある展示の、会期のはじめとか週末とか、そういう人出のある時ばかりと思っていた。北斎とか阿修羅像ならば、まあ仕方がないかなと思う。でもボストン美術館の日本美術でこれはすごいなと思った。
平成館は日本で最高の展覧会を見せてくれるハコのひとつだけれど、近年のビジネスとしての成功っぷりは凄まじいものがある。企画力もキュレーションも日本一だとは思うけれど、それだけで内容の知名度が際立って高いとは思えない展覧会が30分待ちになったりはしない。要するに、時間とお金のある、日本美術を見てそこそこ楽しいと思える60代以上のマーケットをものすごい勢いで動員しているわけだが、15年前は美術館の前に観光バスがずらりと並んだりはしなかった。煽り方もすごいし、戦略的に集客しているのだろう。
まあそのおかげで、次の展覧会がさらに充実したものになると思えば、並ぶのは大嫌いだが文句は言えない。


さて本題だが、ボストン美術館は何年か前にボストンまで観に行った。そういえばここに記事を書いたなと思って読み返してみると、2005年に行っている。
当時もほとんど日本美術にしか興味がなかったから、国外では最高のコレクションがあると聞いて、わざわざニューヨークから出かけて行ったのだ。それでも他の分野も収蔵品の層の厚い美術館だから、表に出ている作品数は少なくて、若干の物足りなさを感じた記憶がある。記事でも結局、ゴーギャンに感動したりしている。だから今回来日した選りすぐりの品々は、かえって面白かった。そういえばゴーギャンもその後来日して、観に行った。(ボストンまで行った意味あったんだろか。)


その2005年の記事にも、全体に修復のし過ぎだとかなんとか偉そうに書いていたが、今回も印象は変わらない。でも悪くない。日本にある同系列の美術品に慣れていると、あまりのきれいさにちょっとたじろぐけれども、しかしそれも考え方の違いから来る程度の問題だと思う。
快慶の弥勒も、どの段階でどのように修復されたのかわからないが、かつてそこにあったという興福寺の他の御尊仏と比べると、ひどく絢爛としている。慶派の仏像で金箔が貼ってあるということは、江戸時代とかに修復されたものをさらに修復しているのか。調べればわかるのかもしれないが、調べていない。
まあとにかく、ぱっと見たところ、日本にある他の御尊仏とは違うように見える。例えるなら、あまり適切ではないけれども、アメリカでグリーンカードを取得して長く生活している親戚・知人が、久しぶりに里帰りした感じかな、と思った。日本人だけど、どこかちょっと日本人っぽくないね、というような。
でもそれはそれで、そういうものとして、とてもいい。それが快慶の弥勒という固有の形ある「もの」の存在なのだ。


例えば7年前に遠い土地で見たものを、ああ日本に来てるんだ、と思って、観に出かけて行く。同じ「もの」が、時間と空間を越えて、わたくしの目の前に立ち現れる。
まあ実際は展覧会があるから飛行機で運ばれて来たというだけなのだけれども、なんだか面白い。ものを観るということの、とても現代的な醍醐味のひとつを味わっているのかもしれないと思う。そこには、その「もの」と、その「もの」を通したわたくし自身のストーリーがある。若い頃はわからなかった。ただがむしゃらに観ていただけだ。そういう体験はきっと、とっても長い時間がかかることが多いのだろう。その程度には、わたくしも長く生きてきたということかもしれない。そして、そういう「もの」たちが、わたくしの人生を彩り、わたくしをわたくしたらしめるのに一役買ってくれてゆくのだな、と実感した。
「もの」を観るとは如何なることか。人生の問いのひとつの、答えの小さな欠片を拾った気がした。


快慶の弥勒。生きているうちにもう一度出会うだろうか。
出会わないかもしれない。
でもこういうのは縁だから、ひょっとしたらもう一度ぐらい出会うかもしれない。

その時は心の中で「やあ」と短く言って、やっぱりただそれだけで、踵を返そうと思う。





「壮」

2012年01月10日 14時33分42秒 | Weblog
新年が明けてようやく落ちついて、Mと昨年の反省をしつつ今年の漢字一字を選ぶ。
今年は「壮」にした。

2011年は何しろ震災の年だったと思う。
それに比べたら、他のことがあまりに些細なことになってしまう。

そんな中で、昨年の「剛」はなかなか満足はできないけれど、個人的には11月末に人生初のフルマラソンを走ったのが特筆すべきことだった。5時間切りを目指したのに結果は5時間10分と、自慢できるようなタイムではなかったけれど、一応完走はした。
大して練習もせずに、本番のレースまでに走った最長距離は27km、残り15kmは未知の世界といういつもながらの強行で、でも思ったよりも走ることができた。フルマラソンは30kmを過ぎたころから肉体的にとんでもないことになると聞いていたので、それが果たしてどんなものなのか、かなり期待していた。だが、体感としてはよくわからなかった。辛さがだんだんと増していって、それがだらだらと続くだけだった。
でも走りながら、とっても重要なことに気付いた。それは、もっと無理をしなくちゃいけなかったんだ、ということだ。
15kmもの未知の世界はさすがに恐ろしくて、前半からペースは控えめだった。折り返しを過ぎてしばらくは残りの道のりの遠さにくらくらしてさらにペースダウンしたが、30kmを過ぎると開き直って、足は動かなくなったけれど気持ちは幾分持ち直した。沿道で地元の人達が配っているお菓子などをひたすら食べたりして、結構楽しんだ。最後の何キロかは目標の5時間切りが果たせないことは明らかな上、もう足も腕も身体は全部ダメになっていたけれど、ようやく終わりが見えて軽くスパートをかけたりした。それで、ふと気付いた。あ、マラソンって全然こういうスポーツじゃないんだろうな、と。
よくマラソンや駅伝で選手がゴールに駆け込んで倒れるようなシーンがあるけれども、まああそこまでやるのはちょっと市民ランナーの域を越えるけれども、それでも少なくとも最終的に余裕があってはいけないのだなと。余裕があるぐらいなら、もっと早く走れよ、と。15kmもの未知の世界にビビリ過ぎたとはいえ、もっと自分に無理を強いれば、少しはマシなタイムが出たかもしれない。
それでふと、走りながら、自分の人生もこんな感じだな、と思い、そのことが少しショックだった。人並みには努力もしているつもりだし、自分でも持て余すほどの精神的タフさだけを頼りにいろんなことをやってきた。でも、もっと無理ができるのではないか? というか、もっと無理をすべきではないか? ちょっと楽しみ過ぎだし、そんなんだから突き抜けたものが見れないんだよ。

というわけで、今年の漢字は「壮」にした。
無理をするというよりもむしろ無茶をしたい。

Mは「奇」を選んだ。
もう人の話なんか聞かない、全部オリジナルで行く。と言っていた。おっしゃるとおり。

晩夏

2011年10月28日 14時28分58秒 | Weblog
東京に帰って来て、あっという間に1ケ月がたった。
例年、忙しない日常のうちに季節が変わり寒くなって、そういえばもう10年以上も、日本の晩夏を知らないことに気付いた。
1ヶ月間、それでもまだ、9.11のことを考えていた。

9.11から10年。もう今年で最後と思い定めて、ニューヨークに行ってきた。覚悟は行く前からしているつもりだった。
でも今年、いつものようにニューヨークの街をさまよい歩いて気づいたのは、自分があの事件からちっとも立ち直れていないということだった。
「立ち直る」というのはどういうことかと掘り下げれば、いろいろ言葉をひっくり返すことも可能だが、それはともかくとして、実感としてはそんな感じだった。

見たものや聴いたことや感情の記憶は昨日のことのように想起できるのに、あの時の自分がどんな人間だったかよく思い出せない。
事件の前の自分がどんな人間だったかというのも、おぼろげになってきた。それほど変わっていないつもりもあるし、ほとんど変生したといってもいいような気もする。いや、そういうことを言いかねるほど、あの時わたくしは若かった。他の要因でだっていくらでも変化する年齢だったから、何がどう作用したかなんて区別できない。

わたくしは自分自身にどんなストーリーも付与することができる。わたくしにとってのわたくしが何者であるかは、わたくしが自分自身を何者であると考えるかによって決まる。

茫洋とした思考以前の海を歩きながら、それでも確かに思ったことがある。
あの年の9月にあの街に行ったことも、あの朝地下鉄に乗ったことも、チャンバースストリートの駅で降りたことも。結果目の前で起こった光景のために、10年あの地に通ったことも。それらはどんな言質も差し込む余地がないほど、自分の意志であり選択であり、決定だった。それらすべては、巡り合わせや人生の仕業なんかじゃない。わたくしが自分でやったことだ。

立ち直ることができないまま、それでもわたくしは日々新しい時を歩まねばならない。新しい自分を日々にはじめなくてはならない。生きるということは常に、持続でも反復でもなく、出発であり変化だ。

でもきっとわたくしは、あの日から失ったままの晩夏を、たとえどこにいようとも、これからも失い続けるだろう。


体験

2011年09月22日 19時16分55秒 | Weblog
去年、ベトナムに行った勢いで開高健のベトナムものを一通り読んだ。その中で一番印象に残ったのは、彼が最後に「ベトナムに来るのではなかった」と書いていたことだった。

なるほど「体験」とはそういうことかと思った。
何かをして自分のためになったとか、どこそこに行ってよかったとか、そんな体験の仕方はたかがしれている、と言い得る深みの次元があるのだろう。もちろん、ある固有の体験に良し悪しの判断などナンセンスだと言うこともできる。だがその上で、その体験をとことん突き詰めて、本当に辛苦して、たとえレトリックの上ででも「こんなことするんじゃなかった」と思えるところまでいかなかったら、きっとその体験はたいしたものではない。そういう意味での「体験」というものがあるということだろう。

それを読んで、なるほどわたくしはもっと頑張らなくてはならなかったのだな、と思った。
わたくしはそれでもまだ、個人の体験としては、911の1年後の2002年から10年間、ニューヨークに通ってよかったと思っている。ほとんどそのために生きていたと言っても過言ではない10年間だった。はじめの数年間は、自分が一体何をやっているのかよくわからなかった。愚鈍さゆえだ。やろうと思えば他のこともできただろうし、違うものにもなれただろう。でも人ひとりの人生の道行きに、きっと余剰はない。もう一度はじめからやり直せるとしても、わたくしはきっとまた同じことをするだろう。



「”あちら”でも”こちら”でもヒトは《絶対》なる根源的情熱に憑かれて冷血に、また熱血に、たがいに石器時代以来の殺しに没頭させられている。見れば見るだけ、聞けば聞くだけ、私は疲労してくる。ヒトのとめどなさに感動していいのか、絶望していいのか、わからなくなってくる。朦朧とした荒野がひろがるばかりである。私はこの国へくるのではなかった。この村へ来るのではなかった。」

(開高健『サイゴンの十字架』より)



体験するとはどういうことか。