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言無展事

徒然に禅語など。

外見上日本人でいられる限界

2011年03月09日 01時01分31秒 | 観光
時間があいたが、もうひとつネパールの話を。
いかにわたくしの外見が中国人に見えるかという笑い話だ。


首都カトマンズのタメルというツーリストエリアで、もしくはポカラのレイクサイドで、わたくしは常に客引きから「ニーハオ!」と声をかけられた。
はじめのうちは、ネパールも最近はよっぽどチャイニーズの観光客が多いんだなあと思っていた。実際に東アジア人の観光客の中で、チャイニーズはかなりの割合を占めている。上海や香港などからカトマンズまで直行便も飛んでいるし、外国の観光地で激減しているように見える日本人よりよっぽど多い。しかししばらく観察しているとどうも違う。彼ら客引きたちは、僅かに散見できる日本人ツーリストには、「コンニチワ!」と声をかけているのだ。

でもどうだろう。ネパールは多民族国家で50を越える様々な民族がいるが、日本人から見たらそれらを見分けるのは難しい。わたくしはゲルマンとアングロサクソンすら時々見分け間違うほど、民族の見分けは苦手だ。彼ら客引きたちにだって、東アジア人の見分けは難しいはず。と思い、ネパール人の観光業に携わっている知り合いに「ネパールの人は中国人と韓国人と日本人を見分けることができるか」と尋ねた。答えは「もちろんできる」とのこと。ほんとかよーとは内心思ったが、彼らも一応プロだ。それはわたくしの認識するよりも彼らにとっては幾分かシリアスな問題だろう。ふむ。
仕事のために仕方なく首からぶら下げている一眼レフがいけないのだと思った。中国系の富裕層観光客は、NikonやCanonのプロ仕様と見まごうほどの立派なデジタル一眼レフカメラをお約束のように持っている。コリアンも同じで、サランコットでわたくしのとなりで写真を撮っていた女性が持っていたカメラは、目を見張るような立派さだった。巨大な望遠レンズをなぜか二本も持っていた。(確信しているがほとんど驚くべきことに彼女はプロではない)しかし省みると、わたくしの首からぶら下がっているペンタはなんともショぼい。変な言い方をするといかにも日本人っぽいショぼさだ。「軽くて便利」などとのたまう感じの。チャイニーズの持つカメラに比べたらほとんどおもちゃに見える。これはぎりぎりアウトではないか? (ついでに言えば、伊達なカメラほど重いものはない、というのはわたくしが十数年の旅人生で知り得た真理のひとつである。)加えて日本人の国民服であるユニクロのダウンを着て、吉田カバンのデイパックを背負って、どう見たっていっぱしの日本人に見えるはずなのだ。

まあネパール人の客引きならまだいい。「ニーハオ」と声をかけられたら「ニーハオ」と答えて通り過ぎればすむ。
帰路、カトマンズから香港まで乗ったドラゴンエアーでのこと。夜中の出発だったから、飛行機に乗った時から意識は朦朧としていたが、しばらくしてフライトアテンダントの若い男性が、カートを押しながら来てはわたくしにもの凄い剣幕で中国語で話しかけて来た。なにごとかと思い、こちらは中国語がまったくダメだから、おそるおそる"Can you speak English, please."というと、彼はちょっと怪訝そうな顔をしてしかし"Fish or chicken?"と。なんだそんなことかと答えたまではよかったが、次に隣に座っていた中年の日本人男性に向かって「お食事は魚がよろしいですか?チキンがよろしいですか?」だって。なんだ、日本語しゃべれんじゃん。しかしそこで、「いや、私も日本人です」と言い出すには間が悪く、結局最後まで何人かよくわからない人でいるはめになった。その後、隣の男性はお手洗いに立つ時に、わたくしに「エクスキューズミー」と声を掛ける始末。いやいや先輩、同胞ですから。
あともうひと事例、ポカラからカトマンズに移動する長距離バスの中で、若い中国人夫婦に声をかけられた。彼らは旅行者の礼節として一応英語で話しかけてきたが、どこから来たのかと尋ねるから日本からだと答えたら、あっそうと言って表情には出さずしかし若干残念そうに、それ以降何か言って来ることもなかった。彼らの期待した「どこから来たの?」の答えが、「北京」とか「上海」だったのは明らかだ。気持ちはわかる。長い移動時間に、母国語で情報交換できる道連れがいたらラッキーなのだ。向こうも悪気はなかろうが、「紛らわしいなあ。。」ぐらいは思っただろう。どうしてあげることもできないが。


それでも百歩譲って、中国人に同国人に間違えられるのもまだよしとしよう。ニューヨークにいると中国人に中国語で声を掛けられるのは日常茶飯事である。(彼らは辺りを見渡して、わざわざわたくしに目をつけて話しかけてきたりする!)何を言っているか全くわからないが、おそらく道でも尋ねているのだろう。だがニューヨークにいると誰が何人かという問題は、シリアスだが間違えてもそれほど気にならない。なにしろ200カ国近くの国の人がいる。それに中国人と日本人の人口比率の差が大き過ぎる。東アジア人がいたら、圧倒的にそれは中国人である確率が高い。正直、慣れている。

さて、成田空港でのことだ。セキュリティゲートで日本人の係員に、なんたることか、「エクスキューズミー」と声をかけられた。その声がわたくしを呼んでいると、咄嗟にはわからなかった。しかしその声は確かにわたくしに向けられていた。。。同胞よ、勘弁してくれ。わたくしが憮然として「はい、何かご用でしょうか」と答えたことを誰が責めるだろう。はたして彼がわたくしのことを何人だと思ってそう声をかけたのか、問いただしたいぐらいだった。


いやはやどうも、見ず知らずの人間から見たわたくしが日本人でいられるのは、成田空港の入口までのようだ。

百尋の滝

2009年12月19日 04時14分53秒 | 観光
奥多摩に百尋の滝を見に行った。
この滝は数年前に一度見て、その美しさにもう一度見たいと思っていた。
最寄りのバス停から往復3時間半ほどのハイキングもちょうどいい。

昼から出掛けたので滝を見る頃には日が傾いていたが、それがよかった。
西に向かう滝に、なんたることか美しい虹がかかっていた。
今年は滝の当たり年だった。

冬枯れの森もよかった。
春も夏も秋もいいが、冬の色彩はまた格別に繊細だ。

しかし百尋の滝は素晴らしい。
神秘とはなるほどこういう時に使う言葉かと思う。
神は自然の中に在る。
どんな超越的存在も、人の心や観念の中には住むまい。
人間の思念はそれから隔絶されている。だからこその神ではないか?

チェ

2009年11月20日 01時32分22秒 | 観光
さて、9月にキューバに行ったわけだが、まだチェについて書いていない。

チェ・ゲバラ。
キューバに行ったらどこもかしこも、「世界で最も有名なポートレート」といわれる彼の顔が溢れている。
「世界で最も有名なポートレート」の顔になるためには様々な条件が必要なのだとしたら、確かにチェは世界で最もその条件を満たした人物であったのかもしれない。条件はパーソナリティーに限られない。歴史的条件とか、ある国家の政治的条件とか、受け取り手のニーズとか、様々あるだろう。

彼の生まれた国であるアルゼンチンに先に行っていたからか、キューバに行ってもチェは1人の人間として感じられた。イコンとしてのチェではなく、イコンとなった1人の人間としてのチェだ。だがイコンになるぐらいだから1人の人間であろうがただの人間ではない。
彼の書いたものを読み漁ったが、キャピタリズム側の人間はもっと彼の言っていることを読んでもいい。好きでこちら側に生まれたわけではないけれど、そこで育ってしまったから、その枠の中でしかものを考えられない。現時点でそれが世界を席巻しているように見えても、それがどんなにマジョリティであるように感じられても、所詮は世界の一部分に過ぎない。


「ゲームのルールを守るものには名誉が浴びせられるーー猿が曲芸をして得るような褒美である。目に見えない檻からは逃げることを思いつかないのと同じ状態である。」

(エルネスト・チェ・ゲバラ『キューバにおける社会主義と人間』)


もちろん革命もゲリラも、もう現実的な手段ではなくなった。
ではどう闘うのか?

チェがフィデルと出会い、キューバ革命をはじめたのは28歳の時だった。
はからずも同じ歳でキューバにはじめて行ったわたしくしは、なんだか途方に暮れている。
キャピタリズムは、そこに暮らす人間の教養と倫理を奪うというが、わたくしのそれははたしてどうだろう。
やはり奪われてあるのか。あなたのそれはどうか。
わたしたちはただの人間かもしれないが、チェと同じ1人の人間であることは間違いない。

コヒマル

2009年10月03日 23時47分33秒 | 観光
何年か前にテレビでキューバのヘミングウェイ・カップというマカジキ釣りの大会のドキュメンタリーを見て、以来その大会の行われるコヒマルという海辺の町に行きたいと思っていた。ヘミングウェイの『老人と海』の舞台になっているところだ。
『老人と海』は、読むと辛くなるから、何年も読まずにいた。でも今回、実際にコヒマルに行くことに決めて、『老人と海』を持っていかないわけにもいかない。ハバナからほど近いその漁村に着くまでの旅路の空き時間に、何度も繰り返し読んだ。

これは言うまでもなく偉大な小説だ。サンチャゴは、私たち人間ひとりひとりの写身だろう。人は大きなものと闘うために、どれほどの苦しみと痛みに耐えなければならないのか。それはごく自然なことで、生きることそのものだ。サンチャゴは確かに巨大なマカジキを釣り上げた。でもそれは失われてしまう。どうしようもない力によって。でもそのことの意味を、私たちはみんな知っている。

「けれど、人間は負けるようには造られてはいないんだ」
「そりゃ、人間は殺されるかもしれない、けれど負けはしないんだぞ」


コヒマルは、行ってみれば何の変哲もない田舎の漁師町だった。時折観光客を乗せたツアーバスが立ち寄るばかりだった。カリブ海は確かに美しかったけれど、異邦人に簡単に何かを語ったりはしない威厳があった。


自分が自分であるということが、どれほどシンプルな条件で成りたっているのか。それを貫くために必要なのは、ごく単純な意志だ。

「希望を捨てるなんて、馬鹿な話だ」

サンチャゴはそう言う。
なんとかなることは、どうにかしてなんとかして、なんともならないことは、最後の最後まで懸命になんとかしようとする。
最後まで耐えることと死力を尽くすこと。それが人間の本性だと、その描かれ方がなんとも哀しくて、
まわりを憚る必要がない旅の時を幸いと、何度も泣いた。

老人と海 (新潮文庫)
ヘミングウェイ
新潮社

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サンチャゴデクーバ

2009年09月30日 15時38分01秒 | 観光
NYCからマイアミ経由でジャマイカの首都キングストンに飛び、3日ほど観光して、キューバのハバナへ。着いたその足で深夜バスに乗り、12時間かけてキューバ第二の都市サンチャゴデクーバへ行った。
その街が今回の旅の1番遠い地点。一人旅には丁度良い距離だった。

サンチャゴデクーバは坂の多い港街で、ハバナよりずっと田舎だ。
でもキューバ音楽の発祥の地といわれ、偉大なミュージシャンを数多く輩出している。街中で聴ける音楽もおしなべてレベルが高い。
革命の発端となった1953年7月26日のモンカダ兵営襲撃事件があった場所だから、キューバの歴史を知るにもいい。
海に面した要塞、ホセ・マルティのお墓、革命についての諸々。見所は、駆け足なら一日で十分に見て回れた。

確かに行きたいと思ったから行った。
でもなぜ行ったのだろう?
昔聴いた曲の歌詞にこの街の名前があったから、とか、長距離バスに乗りたかったとか。

日本のパスポートとある程度の旅の技術があれば、世界中のかなり多くの場所を旅することができる。自分の属性と経験値を客観的に判断し、自分の身の安全と健康を確保できる場所を選べば、それはとっても簡単なことだ。

キューバからジャマイカに戻る入国審査で、久しぶりにえらく時間がかかった。
入国の目的はバケーションだというと、審査官の青年は「なんで1人で?家族とか友達とかは?」としつこく追求してくる。
確かに女性の一人旅はめずらしいし、ビーチリゾートが売りのカリブ海を周遊しているわけだから、言っていることはごもっとも。といえないこともない。
でもまあ、いいじゃないか、ひとりでいろいろ見て回るのが好きなんだよ、とかなんとか、なんでそんなところで自分の無害さをアピールせねばならないのか納得いかないままに釈明を並べたら、最後は笑って通してくれた。

「なんでそんなところに1人で行くの?」
とは、日本にいてもよく訊かれる。
でもその問いを発する人に、なぜ行くのかを説明するのはとっても難しい。

滝と虹

2009年09月04日 17時27分31秒 | 観光
華厳の滝にかかる虹を見る。
台風一過の晴間を狙って、オープン時間の朝八時丁度に行ったら、素晴らしい眺めだった。大雨の後だから水量も多く、空気が澄んで虹の色が濃い。景観の隅から隅まで架かったそれは、赤から紫までの光彩が明瞭に識別できる。手を伸ばしたら届きそうだった。
いつかヨセミテで、遠くに夕陽を浴びて虹色に輝く滝を見た。虹色の水が流れ落ちているようだった。
イグアスの滝にもそこかしこに虹が架かっていた。あれはあまりに大きくて、しかも三方に面して連なり流れ落ちているから、晴れていればいつでもどこかに虹が架かるのだ。

滝と虹!それは水と大気と光だ。
この現象の美を、わたくしはあと幾度見ることができるだろう。満天の星空や深い緑や、その他様々に美しい自然を。
いや、いずれは滝と満月の光によって生ずる虹をすら見たいものだが、それは叶わないかもしれない。

竜頭ノ滝、湯滝、裏見滝と日光の主要な滝を巡り、ヤマメを食べ、温泉寺で湯に浸かり、東照宮を覗いて帰りに宇都宮で餃子を食べれば、日帰り観光としては完璧だ。東照宮に寄ったからには、引く言葉は決まっている。

「人の一生は、重き荷を背負うて遠き道を往くが如し、急ぐべからず。」
(『東照公遺訓』)

馬籠

2009年07月17日 22時47分21秒 | 観光
念願叶って馬籠と妻籠に行った。
そう遠い地ではないけれど、ずっと行きたいと思って果たせずにいた。

『夜明け前』だ。木曽路はすべて山の中である、と。島崎藤村の父、『夜明け前』において主人公の青山半蔵として描かれた島崎正樹が、その地でまさしくあのように生きたことを見たかった。

初めてこの小説を読んだ時の、身体が割れそうになるほどの感動が忘れられない。
何ものでもない卑小な一人の人間が、いかに“歴史”を生きるのか。その本質が執拗に描かれている。
「いかに“歴史”を生きるか」など、今時、誰も教えてくれない。両親も学校の先生も、飽和するだけの情報も知識も。しかし、だからといって、私達が“歴史”を生きずにすむようになったわけではない。私達は“歴史”の直中に生まれ落ち、それへの参画は、可能性の問題ではなく絶対条件だ。盲いたフリは、ある程度まではできる。しかし人が真に“歴史”に相対せざるを得ない状況に追い込まれた時、その愚鈍な心持ちは徹底的に無力である。
誰も教えてくれないことを教えてくれるのが文学だ。『夜明け前』は、「いかに“歴史”を生きるか」ということについての豊穣なヒントがあるという点において、私にとっては日本文学史上の最高傑作といえる。

木曽路はかつて、とんでもなく山々の美しかったところだという。
現在でも都会者から見れば十分に美しく感じる。
ならば幕末の頃の美しさはさていかほどかと、匂い立つ深い緑を想った。

雨の庭

2008年07月05日 17時50分13秒 | 観光
伊賀に着く頃には大雨で、その日はもう何も見ないことにした。
素泊まりの旅館を探したら、いい宿が見つかった。

大正に作られた築百年程の家の、二階のたった5部屋を貸している昔ながらの旅館。
前もって電話をしたら、女1人の客は珍しかったのだろう、出た女将が何を心配したのかおかしな問答があった。

「こちらではお部屋をお貸ししているだけなので、お食事もつきませんがよろしいですか?」
「はい、大丈夫です」
「ふつうの家ですので、お部屋に鍵もございませんが。。」
「問題ないです」
「お部屋には、お手洗いやお風呂もついておりませんが、大丈夫ですか?」
「はい、もちろんです」
「今日は他のお客様が皆男性の方なのですが、それでもよろしいですか?」
「え、何か問題が?」
「いえ、今まで問題があったことはないですが。。」
云々。

途中で、実は先方は私を泊めたくないのではないか、とすら疑った。が、もちろんそんなことはない。
なんとか女将に、私は貴女の宿に泊りたいのだ、ということを納得してもらい、雨を凌ぐ先を確保した。行ってみると、今日は空いている部屋がここしかない、と、通された部屋は12畳の大部屋。私ひとりには広すぎるが、なんともならない。
廊下を挟んだ窓越しに、濡れる庭を見下ろしながら、ぼんやりと半日を過ごした。

この家の庭は先代が作ったものらしいが、ちょうど二階から見下ろして眺めるように構築されている。
若葉が濡れて緑が濃い。鯉の泳ぐ池もあり、動きがあって楽しい。
最近は庭師が高齢化して、高いところに登れる庭師が少なくなってきたので苦労していると女将が言っていた。
日が暮れてもまだ闇を眺め、本なぞ読みはしなかった。

たったそれだけの半日とは。人生の貴重な良き日である。

四十八滝

2008年06月16日 02時56分45秒 | 観光
三重県の赤目四十八滝に行った。
なんだか出掛けてばかりだが、まあいいことにしよう。
かねてから、滝が好きなら一度行ってみるといいよ、と人から言われ、近いうちに行こう行こうと思いながら今になった。

しかし直前に名古屋に住む父親に、赤目四十八滝に行ってきます、と言ったら、返事はつれないものだった。え、たいしたものは何もないよ、そんなところに行ってどうするの?
彼は実際にそこに行ったこともあるらしいけれど、私を説く論理が面白かった。そこにほんとにすごいものがあるならもっと全国的な名所になってるよ、そんなマイナーな観光スポットにすごいものがあるわけないじゃん。なるほど。彼は放送局に勤めるサラリーマンだが、仕事柄か、私よりもはるかにミーハーな面がある。しかしそうでなくとも、彼の論には一理あるかもしれない。まだ見ぬ華厳の滝程のものはそこにはなかろうことは、想像できる。もっとも三重県の隣県生まれで、人に滝好きと呼ばれる私は、それほど滝好きでないマジョリティーを含めて全国的に赤目四十八滝がどれだけ知られているのかを知らないので、判断は保留することにした。

行ってみてどうだろうか。
一口に説明すると、往復3時間程のハイキングコースに、名前のついた滝が20個ある。そのうちの4~5個の滝はそこそこ見応えがある。そんな感じだ。
現代人がハイキングと聞いてどれだけ心躍るかもわからないが、生憎私はハイキングも好きなのだ。だからまあ、個人的には大満足だった。

しかし、その本質は。俗っぽい表現をすれば、ここは所謂“パワースポット”だ。
役の小角が滝行を修めた時に、不動明王が赤い目の牛に乗って現れたから赤目という地名がついた、といういわれなど、かなり凄い。この近辺は伊賀者の修行の地だったということもある。
平日の朝ということもあり、はりきって始発のバスに乗って行った私はその日1人目の入山者だったから、他に人影もなく。山々は威容深く、水流は固く激しかった。
息づく自然の不思議な恐ろしさが、心地よかった。


火鉢

2008年05月28日 02時33分04秒 | 観光
深夜、静まりかえった温泉街にたどり着く。
路地裏に僅かに灯りのともった宿を見つけて戸を叩き、そこのおばあちゃんを起こしてなんとかその夜の寝床を確保した。
信州別所温泉である。

「お国はどちらですか」
「東京です」
「まあ、遠い所からわざわざ…」
とは、型通りの挨拶だ。
とりあえずはその旅館のかけ流しの熱い湯につかる。
温泉の善し悪しなどそれほどわかりはしないが、なるほど確かに素晴らしい。
今宵の客は私、一組きりのようだ。

翌朝、夜明けとともに起き出して再び湯を浴び、ぼんやりしているとおばあちゃんに朝茶に呼ばれた。
一時間あまりも昔語りを聞かせてもらった。

23歳でこの家に嫁いで早50年余り、昨年旦那さんが亡くなり、娘たちは都会で働いているらしい。
嫁いで来た時、この家は養蚕を営んでいて、その仕事はなかなか大変なものだった。何年か前に家屋を建て替えた時に、たくさんの火鉢が倉庫から出てきて、記念として縁戚に配ったらしい。「そこにもひとつあるのよ」と、指さした居間の隅には、なるほど古い火鉢があった。イメージしていた素焼きのものではなく、絵付けの瀬戸物だった。
養蚕といえば火鉢、とはしごく当然の話の流れではあるが、この感覚はもうすぐ失われてしまうのかもしれない。かつて多くの日本人が火鉢に炭を熾し、家を真っ黒にしながらお蚕を育てていた。
この家では火鉢に炭を組むのが嫁の仕事で、それを絶やすとお姑さんに怒られたものだとおばあちゃんは言っていた。
文明開化からこの国の発展を支え続け、そして私の生まれた頃にはそのほとんどが消えてしまった、歴史的産業の名残だ。

おばあちゃんの家はその後、養蚕を廃業してこの温泉宿をはじめたそうだ。
現在この宿に引かれている温泉の源泉は、近くの常楽寺の敷地にあり、昭和50年代初頭に掘削して使いはじめたものらしい。その時の話は面白かった。温泉が湧いたというので皆で急いで見に行ったら、お湯が空に向かってもの凄い勢いで噴出していたという。それを囲んで、皆で喜んだのだそうだ。
天に湧き上がる温泉を囲んで、村人達が歓び踊る(おばあちゃんは、踊った、とまでは言っていないが)というのは、想像するだけで楽しい。
ちなみにこの辺りで湧く温泉はちょうど50℃程、加熱も冷却もせずに湧くままにかけ流している。自然の恵みだ。
他にも源泉はいくつも見つかっているけれど、お金がかかるから掘らずにいるらしい。

素泊まり四千円の宿だったが、朝ご飯をごちそうになった。