そういえば先月、久しぶりに京都に行った。
春の特別公開に合わせて大徳寺を見漁る中で高桐院の庭を見て、自分の中での庭の暫定一位が入れ替わった。
とは言っても、大した数を見ていないから暫定一位などすぐ変わる。いや、100や200見たぐらいでは自分の趣向だって簡単に確立できるものではない。もちろん何がどういいのかなどわからない。竜安寺や南禅寺や宝泉院の庭がいいのは当然で、それはいいと言われるものを見てただなぞっていいと感じているだけだ。
高桐院の庭はどうだろう。眺めろと言われなければ、誰もそれが鑑賞物であることに気付かないのではないか。というのは言い過ぎかもしれないが、それに比べれば仰々しいとすら感じる枯山水をいくつも見た後だったから、それはあまりに自然だった。竹林を背負って、何本かの楓が生えているだけだ。だがそれはもちろん見かけであり、「そう見せる」という人為が働いている。これを作った人間は、自分が作りうるものの中で最高のものを作ろうと思ったに違いない。だがそれが何故これなのか。
それ程見るものがなかったであろう昔ならいざ知らず、見るものが山ほどあるこの時代に、なぜ庭なんぞをわざわざ見歩くのか。
庭といっても、それはやはりどんな意味においても庭で、それ以外の何ものでもないのに、なぜ見るのか。
庭がどれほどのものなのか。
春の特別公開に合わせて大徳寺を見漁る中で高桐院の庭を見て、自分の中での庭の暫定一位が入れ替わった。
とは言っても、大した数を見ていないから暫定一位などすぐ変わる。いや、100や200見たぐらいでは自分の趣向だって簡単に確立できるものではない。もちろん何がどういいのかなどわからない。竜安寺や南禅寺や宝泉院の庭がいいのは当然で、それはいいと言われるものを見てただなぞっていいと感じているだけだ。
高桐院の庭はどうだろう。眺めろと言われなければ、誰もそれが鑑賞物であることに気付かないのではないか。というのは言い過ぎかもしれないが、それに比べれば仰々しいとすら感じる枯山水をいくつも見た後だったから、それはあまりに自然だった。竹林を背負って、何本かの楓が生えているだけだ。だがそれはもちろん見かけであり、「そう見せる」という人為が働いている。これを作った人間は、自分が作りうるものの中で最高のものを作ろうと思ったに違いない。だがそれが何故これなのか。
それ程見るものがなかったであろう昔ならいざ知らず、見るものが山ほどあるこの時代に、なぜ庭なんぞをわざわざ見歩くのか。
庭といっても、それはやはりどんな意味においても庭で、それ以外の何ものでもないのに、なぜ見るのか。
庭がどれほどのものなのか。