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言無展事

徒然に禅語など。

9月11日

2010年09月20日 02時39分02秒 | Weblog
今年も9月11日をニューヨークで過ごした。
11年目、9.11から9周年。

随分前から、10周年の来年で終わりにしようと思っていた。いつかはやめなければと思い続けてここまで来たので、区切りがいいという、それだけの理由だ。今のところそれ以外に理由が見つからない。
9.11の一年後の2002年、9月11日を東京で過ごす気になれなくて、この街に戻って来た。わたくしの体験は東京ではほとんど伝達性がなかったし、ノイズのように感じられる他人の言葉に晒されるのが苦痛だった。それがはじまりで、それがずっと続いている。あれから9年、この街はわたくしを抱擁し、小さな存在を保証してくれた。

結局、20代の全部をそれに費やすことになった。
なぜこんなに苦労してまで毎年この街に来るのか。9.11は自分にとって何だったのか。もううんざりするほど考え続けて来た。
結局、わたくしの経験は全く必然性を欠き、ただ傍観者でしかなかったことによって、突き抜けることができない中途半端なものだったのだと思う。偶々滞在していた街で、目の前で信じられないようなかたちで3千人の命が失われるのを見たというだけだ。
そこに個人的な挫折などが重なって、これ以上はないというぐらい様々なことを学んだけれど、それがいかに自分にとって唯一無二の体験であろうと、あまりに個人的なストーリーだった。何もしないわけにはいかなかったとしても、年に一度ニューヨークに来て、犠牲になった方々のことを想う以上の行為をする大義名分もなかった。

もう数えきれない程繰り返し想起したあの朝の記憶は、まだ鮮やかで、昨日のことのような気がする。あの朝からわたくしの時間は止まったままだ。
でももう、自分を自由にしなくてはいけない。止まったままの時間を動かさなくてはならない。

2年後の9月11日のことを考えると、たまらない気分になる。もう泣ける場所がなくなる。その日が永遠に来なければいいのにと思う。その感情を超えることが、あと2年でできるだろうか。2年は短い、9年があっという間だったのだから。後悔のないように、やり尽くすしかない。これがわたくしの四千の日と夜ならば、他にやることはない。

だが長かった。長い、長い四千日の終わりがようやく見えかけた。

縦走

2010年09月08日 23時47分03秒 | Weblog
後立山連峰の五竜岳と唐松岳を縦走した。


経緯を説明するとおかしいのだが、偶然、日曜の早朝に新潟の糸魚川に行く知り合いと、月曜日に日帰りで白馬の八方池にトレッキングに行く知り合いがいたのだ。ならば、日曜の朝からどこかの山に登って山荘泊、月曜朝に下山すれば、行き帰りの足が確保できる!
いつもながらの貧乏性を発揮し、その条件を満たすことを最優先に、ネットで登山ルートを検索して山を決めた。

計画はこうだ。朝6:00に糸魚川駅に知り合いに送ってもらい、そこから大糸線に乗って8:00前に白馬の神城駅着、8:15始発のゴンドラとリフトを乗り継いで9:00登山開始。遠見尾根を登って15:30五竜岳登頂、その日は五竜山荘泊。次の日朝5:00山荘発、縦走して8:00唐松岳登頂、八方尾根を下って途中にある八方池で10:00に知り合いのグループと待ち合わせ、一緒に下山する。完璧だ。

結論を言うと、すべてが計画通りだった。ほとんど奇跡的に。

縦走登山は子供の頃からしてみたかった。というか、その頃のイメージでは大人になったら山に登りまくっている予定だった。でも今までやろうやろうと思いながら、せずにいた。そう、なんたることか、初の縦走登山だった。


だがいやはや、五竜岳は素人が登るには過酷な山だった。
山頂の手前に山荘があり、ルートマップを見るとそこまで4時間半の行程とある。4分の3ぐらいまでを2時間で行ったので、「あれ、私結構速いじゃん」と思ったら、とんでもない誤ち。残りの4分の1で岩場を標高300m登らねばならず(尾根で下りもあり、累高400m以上あるのかもしれない)、慣れない岩場にてこずったのもあって、2時間半かかった。快晴の炎天下、眺望は素晴らしいがとにかく暑い。山荘まで給水できないから2Lの水を担いで来たのが覿面に足にくる(それでもザックは約6キロで、重過ぎるとは言えないけれど、わたくしには十分重い)。山荘に辿り付くころには散々な状態だった。と思ったら、次は標高差300mの山頂まで往復2時間。。。どうしたものかと思ったが、翌日の八方池の待ち合わせに間に合う為にはどうしてもその日のうちに登らなければならない。後はもう気力だけだった。

翌朝、ご来光を褒めて即座に出発。唐松岳に続く稜線は最高だった。念願の縦走だ。快晴、左手は雲一つなく立山連峰が見え、剱岳が聳えている。右手はひたすらな雲海だ。最初の一時間ばかりは見渡す限り視界に人影もなく、その瞬間、わたくしはまさに実際に乾坤を独歩していた!

唐松岳までは鎖場や、幅30cm程の登山道で片側絶壁など、滑落したら即死だなと思える場所はいくつもあったが、ひたすらに楽しかった。
唐松岳山頂付近は五竜岳に比べたら平地のようなもの。八方尾根の下りは難所もなく、駆け下りた。待ち合わせ場所の八方池の第三ケルンには、15分前に着いた。


そんな山行だった。ふりかえると我ながら、ただ好運だったとしか言えない。送迎付きどころかチャンスを作ってくれた知り合いにまず感謝だ。そして雨が降らなかった。少しでも雨が降ったら、滑る岩場に自分の脚力で対応できたとはとても思えない(もし雨が降ったら、待ち合わせ場所に時間どおりに行く気は全くなかった。)。
途中で会った登山者に、登山歴を聞かれ、ほとんど初めてです、と答えると、一様に「こいつ大丈夫か?」という顔をされた。五竜岳がどの程度のものなのか未だによくわかっていないが、慣れた人でも運が悪ければ滑落するのが山だ。山岳保険は必須だと学んだ。

登山は全て自己責任、ということは、去年の嵐の冨士登山で体に叩き込まれたし、もちろん行けると思ったから行ったし、何かあったとしてもという覚悟もしていたし、いい加減な心積もりで行った訳ではない。

だが大した登山歴もなくひとりで2800m級の山を縦走してきました、と喜々として報告したら、父が言った。

「おまえはバカか?」




あれ、知りませんでした?しかも筋金入りですよ。

言乃葉

2010年08月16日 00時17分07秒 | Weblog
今年も8月15日、『英霊の言乃葉』を読む。

年経る毎に、遺書を遺した英霊達が、それを読むわたくしよりもどんどん若くなる。
特攻隊などみんな10代後半から20代前半で、永遠に若い彼らをただ生きているというだけで年だけは追いこしていく。



「(前略)

求道
 戦死する日も迫って、私の短い半生を振り返ると、やはり何か寂しさを禁じ得ない。死と云ふ事は日本人にとつてはさう大した問題ではない。その場に直面すると誰もがそこには不平もなしに飛び込んでゆけるものだ。然し私は、私の生の短さをやはり寂しむ。生きると云ふ事は、何の気なしに生きている事が多いが、やはり尊い。何時かは死ぬに決まつている人間が、常に生に執着を持つと云ふ事は所謂自然の妙理である。神の大きい御恵みが其処にあらはされている。子供の無邪気さ、それは知らない無邪気さである。哲人の無邪気さ、それは悟り切つた無邪気さである。そして道を求める者は悩んでいる。死ぬ為に指揮所から出て行く搭乗員、それは実際神の無邪気さである。

和歌
雲湧きて流るるはての青空のその青の上わが死に所
下着よりすべて換ゆれば新らしき我が命も生まれ出づるか
あと三時間のわが命なり只一人歌を作りて心を静む
ふるさとの母の便りに強き事云ひてはをれど老いし母はも


海軍少佐 古川正崇命 
神風特別攻撃隊振天隊
昭和二十年五月二十九日 沖縄にて戦死 二十四才」



死んでよい命などなかったし、生きたかっただろう、なのに死んでいった、それぞれのひとつの生と死があった。
僅かに遺された言葉と、残されなかった膨大な言葉。
その渦流の深さばかりが増していく。

殺しても死なない男たち

2010年07月27日 23時43分47秒 | Weblog
親友のMと表現者のあれこれについて話していて、「最後は体力だよね」という結論になった。

その流れで、例えば西行や芭蕉があれだけのものを書くことができたのは、要は彼らが屈強な男だったからだという話になった。西行は元武士だし、芭蕉は忍者説があるような人だ。ものすごい勢いで日本中を旅しまくったりしたわけだから、まあ体力はすごかっただろう。文学というのは、多少なりとも人間性の柔らかい部分やある意味での弱さを表出するものでもあるが、それはその人間がタフだから上手い具合に発露でき、成熟の過程で洗練させることができるのだと。もともと弱い人間は心情的にそれをするのは難しいと。太宰も大男だったらしいし、三島も晩年はマッチョになったし、時代が下れば村上春樹もそれについては真剣だ。変な例でいえば、鮎川信夫は健康保険証すら持っていなかったという説もある。ジャンルは多少異なるが、禅者などは言うに及ばずだ。
無論、屈強であれば万事解決とはいかないし、そうでない身体から生み出されたものが全部ダメだという話ではまったくもってない。
そんな会話の中で、Mがまたもや素敵な一文を発語してくれた。



「桜の下で死にたいなんて、殺しても死にそうにないヤツが言うからサマになるんだ」



何度でも愛誦したい台詞だ。桜の下で死にたいなんて、殺しても死にそうにないヤツが言うからサマになるんだ、桜の下で死にたいなんて、殺しても死にそうにな。。。。(以下略)


生憎とわたくしは女で、その気になれば誰でも素手でも殺せる貧相な身体しか持ち合わせがないが、それがいかに決定的なことであろうとなかろうと、桜の下で死にたいと言って様になるような、殺しても死にそうにない奴になりたいと思った。

マラソン

2010年07月20日 13時30分47秒 | Weblog
再び信州小布施で遊んだ。
酷暑の中でハーフマラソンを走るという酔狂なイベントに参加するためだ。
先日のベトナム以来体調はいまいちで、散々なタイムで21kmを走った。
しかし炎天下の中を走るのはなかなかに爽快で、クセになりそうでもあった。

岩松院の北斎の天井図「大鳳凰図」も再び見た。
拝観時間の終了間際に滑り込んだら、幸運にも御住職の奥様にお話を伺うことができた。

描かれてから160年以上経つが、ほとんど修復していない。一度、調査と金箔など一部の修繕を行なった時、天井から降ろそうかと思ったが、現代ではそれをもとに戻す技術がないため、そのままの状態で足場を組んで作業した、とか。金箔は驚く程剥落していなかった、とか。北斎が好んで使い、この絵にも多く使用されているベロ藍は、そこに塗られているだけの量で現在でいうところの億単位のお金がかかった推測される、とか。つい何十年か前まで、天井図がある本堂は年数回の檀家の法要で使われるだけで、ほとんど人目に触れていなかった、などなど。興味深かった。


山の中の禅寺にひっそりと存在し続けてきた、高度な技術で描かれた豪奢な絵画。北斎89歳の作品。
その絵が今もなお持つ若々しさ躍動感は驚異的だ。
人が老いて美しく枯れる素晴らしさもいかほどかと思うが、この絵を前にするとそんなの嘘だとも思えてくる。
もう現実的には侘びも寂びもなくなった今日に年老うならなおさら、いずれ手に入りそうもない静かな老成の様態を装ったって無駄だろう。中途半端に情熱を失って大人になったと言われるぐらいなら、人に笑われながら無邪気でいる方がましだ。

さて、わたくしはまだ老いるにはあまりに早過ぎるが、それが遠いことだと思い込む程若くもなくなった。
いつか肉体も精神も、何もしなければ光陰のうちにそそくさと老け込むだろう。そうならないためといっては間違うけれども、、、


次はいよいよフルマラソンかなと思う。
42kmはノリでは走れないだろうな。。


サイゴン

2010年07月12日 11時06分07秒 | Weblog
急に決まった仕事でベトナムに行った。暑い国だった。

去年のキューバに続いての社会主義国で、なんとなく呼ばれているのだろうと思った。
行ったのはホーチミン、かつてのサイゴン。
悪い癖で好奇心は高まったが、出発前の慌ただしさに紛れて何の準備もせず、とりあえず開高健の「ベトナム戦記」をバッグに詰め込んだ。

行ってみればもちろん仕事なので、これといって何を見る時間もなかった。
移動中に車窓から覗いた街並といくつかの史跡、仏教寺院。仕事で訪れたベンタイン市場。朝の散歩で眺めたサイゴン河に浮かぶ客船。悪くはないが、いつもの自分の旅における貪り方に慣れた身としては、何も見ていないような気分だった。
人のお金で来て何かを得ようなんて甘い、いつかプライベートでじっくり来ようとそれらの思考を停止させた後、滞在最終日に立ち寄った美術館の館内で警備員とした立ち話が、面白かった。小柄で純朴そうな青年だった。
世間話ついでに彼が「ベトナムはどうだい?」と聞くから、そのざっくりとした質問に答えるためには体験が過少と思われる滞在4日間を省みて、「いやあ、この国についてもっと勉強しなくちゃダメですね」とわたくしが答えたら、彼は穏やかに笑いながら、びっくりするようなことを言った。


「この国を理解するのは簡単なことだよ」


ベトナム語と、食べ物と、文化と、あとまあいろいろ。難しいことなんてなにもないさ。と。

ふむ。15年間にもわたる複雑な戦争を経験し、500万にのぼる人々がそこで死に、アメリカ軍もかなわなかったベトコンを生んだ国を理解するのが簡単なんてことがあるだろうか?それもたった35年前のことだ。
読み終えたばかりの「ベトナム戦記」は、わたくしにこの国の民族についての計り知れない奥深さばかりを印象づけたのに?

どの国に行っても事実そうであるように、彼にとってわたくしはお気楽な客人に過ぎない。彼らが如何程か重要で複雑なことをわたくしが理解することを期待しないのは、当然のことだ。
しかしベトナム戦争をテーマにした哀しい絵画に溢れた部屋で聞く言葉としては、それは不似合いなほど明るく透明だった。

もちろん彼らが何かしら特殊な民族だと思っているわけではない。
長い被支配の歴史、帝国主義に対する憎悪、同胞に対する深い情愛、それが転じての復讐心、不屈の精神、等々、諸々の条件が重なれば、どんな民族だって優秀なゲリラになる可能性があるだろう。人間を作る要因の大部分はその人の置かれた状況であり、あたりまえだが戦後35年を経た現在の彼らは、わたくしが出会った限りにおいては気の良い普通の人達ばかりだった。
社会主義国といっても市場経済が導入されて長いから、街を歩いても外観は資本主義国とそれほど変わらない。キューバとは違う。
なにより、どんな歴史を背負おうとも、人は人間の「生活」をするし、それはただあるがままを見ればいい。

過去と現在。
歴史におけるそれが、人々の中でどう生きられているのか。
ベトナムに限らない。わたしたちも最近まで侵略戦争をしたり特攻隊を生んだり被爆国になったりしていた。
過去に何も起こらなかった国なんてないのだ。
彼の "It's easy to understand" は、かえって大変な命題について考えることをわたくしに促した。


今ならもちろんわかっている。「ベトナムはどうだい?」と聞かれて、わたくしはこう答えればよかったのだ。
「いやあ、暑いっすね。道のバイクの量がすごいです、日本では見られないものです。市場が面白くて、フォーが美味しいかった、あとアボガドのジュースも。」
わたくしの、彼の国に対する、おそらく偏っていると言い得るだろう興味など、彼には関係なかったのだから。



おまじない

2010年03月10日 17時56分43秒 | Weblog
いつだったか、世界の宗教分布における人口比率的には割とニッチな宗教の敬虔な信仰者である友人が、他宗教の人や無宗教の人から見て若干特異に思われるであろう自分の宗教について、それは生きるための「おまじないみたいなものだ」と言っていた。
それはどんな宗教についても当然そうとしか言い様のない事実で(その文脈に沿って言えばということに限ってもいいが)、わたくしも「ハイ、もちろん私の信仰も、私にとっての生きるためのおまじないの一種デス。」と言う以外にない。
宗教に限らず、信仰に似たものはみんなそうだと言い得る。


先日、用があってウィトゲンシュタインをぱらぱらと読み返していたら、以下の文があった。

「われわれがこのような思考過程の中で解釈に次ぐ解釈を行なっているー(中略)あたかもそれぞれの解釈が、その背後にあるもう一つの解釈に思い至るようになるまで、われわれを少なくとも一瞬の間安心させてくれるかのように。」(『哲学探求』藤本隆志訳)



それはまたあたり前の事実をあたり前に言っているだけだ。
ある人の信仰とは、その人にとってのわりと持続的で安心させてくれるかのようにふるまってくれる度合いの強い(時に社会集団や他者に担保される)世界と生死の解釈であるわけで、いや、そもそも解釈ということが「おまじない」なのだ。

「わたくし」とはわたくしの認識であり、わたくしの世界とはわたくしの認識しうるところのこの世界であり、わたくしの認識というものがわたくしの世界の解釈であるとしたら、「わたくし」は「おまじない」なのかな。。というのも、もちろん、大して安心させてくれはしないがとりあえず解釈したという留保はくれる、ひとつの解釈に過ぎない。

解釈されうる対象としてある、しかしそれ自体は解釈されることを望んでそこにあるわけではない、「生きられてあること」がいつだって問題なのだが、「わたくし」がそれに触れようとすると、それは認識するということの他にありえず、それはたちまち解釈になってしまう。ならば「解釈をしながら生きている」というその「生きられてあること」が重要で、それは本質的には認識することや解釈することが不可能なわけだ。(その「生きられてあること」を認識したり解釈したとたんにそれはまた「解釈をしながら生きている」という「生きられてあること」になってしまう。。)

というようなことを、ウィトゲンシュタインはとてつもなく桁違いな頭脳ではるかに精緻な方法で解釈し続け、もはや何も発語し得ない地点まで行ったわけだが、それはやっぱりどういうことだったのだろうかと、懲りずに思う。
でも彼は、死に際して自分の人生を「素晴らしい人生だった」と言ったらしい。
彼自身の『「解釈をしながら生きている」というその「生きられてあること」』が、他の「生きられてあること」と同じように祝福されたものだったとは、いかにありふれた(そして完全に固有にして一回性の)素晴らしいことだろう、というのはわたくしの解釈だが、そうか、そんなきわどい種類のおまじないも効くんだね、というのはわたくしにとってのわりと効くおまじないのひとつで、それは哲学の効用だろうと思うが、その解釈を抱えて、なおその背後にあるであろうもうひとつの解釈に向かって、今日も歩き出すしかない。
「言葉」という有限にして最大の「おまじない」に抱かれて。


ウイトゲンシュタイン全集 8
ウィトゲンシュタイン
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つまるところ存在ってのは宗教だね

2010年02月26日 13時05分32秒 | Weblog
いろいろなことについてここに書こうと思い、途中まで書いてみたりするのだが、なんだか最後までいかずにダメになってしまう。ダメになる、とは、結局テキストとして人に見せられるほど面白くならないということだ。つまり、頭がよろしくない。知的訓練も教養もなければユーモアのセンスもない。ふうむ。
個性なんぞに興味はなし、何かに感動したってそればかりじゃ毒にも薬にもならないよ、幾つになっても自分がいるのかいないのかすらわからないのじゃあね。
最近、親友のMが「つまるところ存在ってのは宗教だね」とサラっと言った。

それは、自分がここにこうしてあるということ、つまり実存は、宗教的にしか把握しえない、ということのようだ。
ごもっともだ。もちろん、自分がここにこうしてあるということを宗教的にしか把握しえない存在とはなんぞや、ということが重要なわけだが、それはまあこの場合はいいとしよう。「宗教」「宗教的」という言葉はここではネガティブに使われているわけではない。自分というまっかな嘘を、どう肯定乃至は否定していくかということだ。
畢竟そのための方法論や形式に人生を費やすしかない、先人に習って。信じるに値しないものを、信じるもしくは信じないために、どれだけ多くの無を生み、これからも生み続けるのだろう、人間は。その精神の大河のまったく意味のないあぶくであることを受け入れるのは容易だけれど、それとは別にこの一回性の生をこの鈍い頭でなんとか終わりまで引っぱっていかなくてはならない。立ちはだかるのは自己のうちにある根本的な懐疑だが、認識が直覚を超えないのは東洋人の悪い癖だ。でもあやふやなままで何かが解ると思ったら大間違い、何事も具現化せねば自分にすら証せない。

ふうむ。せめてここにちょっとぐらい面白いことが書ければ、と思うのだが。

「密」

2010年01月13日 03時02分54秒 | Weblog
新年を迎えて早くも半月、今年の漢字は「密」とした。

昨年は「澄」だった。
いろいろな方法で挑んだが、わかったことは、つまるところ最後は明日死ぬ覚悟だろうと思った。
そんな大げさな。。とも思うが、「明日死んでもいい」ぐらい思わなくては、万事にあたって究極的に澄んだ心でいられはしない。究極的に澄んだ心などというものがあるかどうか、あったとしてそいつはどうよ、という問題は横に置くとして。
仏教は世界を知る為に己を捨てよと教えるが、自分が可愛ければどんなマインドも曇る。

ということで、今年は「密」とした。
密度、緻密、精密、そんな「密」だ。漢和を引くと、隙間もないほどにぎっしりと詰まっているさま、内容の充実しているさま、細かい点にまで行き届いているさま、などとある。
常に身辺の整理を怠らず、不義理をせず、今日やることを明日に持ち越さず、一日一日が充実したものであれば、いつか「澄」に近づくかもしれない。

8周年

2009年09月14日 07時49分54秒 | Weblog
 9.11から8周年。
 今年もまたNYCにやって来た。

 グランドゼロのツインタワーがあった区画は、地上にはまだ何も建っていない。基礎工事をしたり、地下に地下鉄の駅や事件の記念館を作ったりしているから、もちろんずっと何らかの工事をしてはいる。隣には2~3年前に巨大なWTC7ができたし(これももとのビルは事件の時に崩壊した)、その他のビルもいろいろ直したり作ったりしているようだ。
 でもツインタワーがあった場所は、地上から見る限り表面上は殆ど変化がない。毎年細かな変化はあるけれど、8年間、慨して同じ風景を見続けているような気がする。単純に簡略化して表現すれば、フェンスに囲われた工事現場だ。
 だがそれも今年で最後かもしれない。2011年には新しいタワーやその他の施設が完成するらしい。このペースでほんとにできるのか?とも思うが、いずれにせよそれは近いうちにできるだろう。2011年なら10周年だ。

 2011年にグランドゼロは何かしら今までとは違うものになるのだろうか。今までそこは、「何もない」ことによって、わたくしにとってグランドゼロだったような気がする。

 10年経てばどんなことでも「過去の出来事」になるのかもしれない。すべては変化する。だが3000人のいのちが一瞬にして失われたそこは、地表に人が何を作ろうとも、それであり続けるだろう。
 
 わたくしも変化する。変化は意図的に作り出すこともできるし、後から振り返らなければわからないような変化の仕方もある。
 確かなことは、9.11は、わたくしがわたくしであることの根本条件のひとつだということだ。人は時に、そのようにして何かを体験することもあるだろう。8年は短い時間ではなかった。でも持続したひとつの体験だった。それはこれからも何十年か、死ぬまで続くのだろう。事件がわたくしにとって全く受動的な事象であった様に、その後の体験も、変化することも変化しないことも、わたくしにとっては受容の仕方の問題でしかない。
そのようにしてわたくしは今も、「只中」にいる。

来年も再来年も、来れるといい。
いつ来れなくなっても、悔いは無いけれども。