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言無展事

徒然に禅語など。

9月11日

2011年09月17日 12時18分24秒 | Weblog
9月11日の朝、遺族が読み上げる犠牲者2753人の名前を聞くために、今年もグランドゼロに帰って来た。10年間、変わらないセレモニーだ。

10年前の9月11日、信じられないような仕方で、目の前で2753人の命が失われるのを見た。
それがどういうことなのか、わたくしはずっとわかりたいと思っていた。

でも10年間かけてわかったことは、あまり多くない。
わかったのは、それはきっとわからないのだろう、ということだ。

ある日突然、まるで嘘のように失われる命がある。
朝、「じゃあ、いってくるよ」と言っていつもどおり家を出た家族に、もう二度と会えなくなること。
何の前触れもなく、隣人の一部をもぎ取られるようにして失う共同体。
そこにはどんな解釈によっても慰められない痛みがある。

人間の悲惨をどう受けとめればよいのか。
遺された共同体は犠牲者をどう弔えばいいのか。

ツインタワーの跡地は、10年目にして記念碑になった。大きな四角い穴が2つ。それぞれの縁に犠牲者の名前が刻まれている。
10年かけて、でも、できたものがこれでよかった。

名を刻むこと、それを4時間以上もかけて読み上げること。それを皆で集まって聞くこと。死者を弔うということについて、それ以外にやることはないのかもしれない。

「貴方が恋しい」
「君を毎日思い出す」
「愛しているよ」

遺された家族達の死者への呼びかけもまた、10年間ほとんど変わらない。
まだ、涙が止まらない。

雨のマラソン

2011年05月31日 09時15分02秒 | Weblog
雨というか大雨だった。
山中湖でのハーフマラソンのレース、接近する台風と梅雨前線で、行く前からどう考えても大雨なのだ。
前日から諦めて出掛けるのをよそうかとも思った。でもまあせっかく休みも取ったし、行ってダメなら記念品のTシャツ貰って帰ろうよ、ちょっと小雨になったら走ればいいし。個人的にはそんな算段だった。
だが山中湖に着いたら既に大降りだった。大雨注意報ぐらいは出ていた。
普通はマラソンなんてしないよな、こんな土砂降りの中で。だがなんと、普通じゃない人が1万人以上もいたのだ!

さて、大雨の中で21kmを走れるか。
わたくしは自分の身体的なパフォーマンスについての認識には、常にそれなりの配慮を怠らないようにしているつもりだ。何が可能で何が不可能かをわかっていないと、面白くないことになる。だが、これについてはどうにもよくわからなかった。
21km走るぐらい朝飯前だぜ、というような基礎体力・走力は残念ながらまだない。そもそも条件が良くても2時間切りはまだ無理なので、ランナーとしてはダメな部類に入る。昨年は炎天下で21kmを走って、それなりに過酷だった。だが自分は寒さよりも暑さの方が強いと思っている。だからまあやってやれないことはないかなと思い、実際にやったわけだが、大雨はどうだろう。
いろいろな物理的な条件をかんがみて「この程度だったらまあいけるかな」とか「これは自分にはちょっと危険だからやめておこう」とか。誰しもそうやって生きているのだろうと思う。もちろん「余裕だと思ったのに結構危なかった」とか「厳しいかなとは思ったけれど結構いけた」とかいう場合も往々にしてあるので、そんなに当てになると思っているわけではない。でも、どうにも未知数だ、ということが時々ある。
ならばやらずんばなるまい。

というか、動機をそこにしか求められなかっただけなのだが、とりあえずまわりの空気(1万人がスタートの準備をしている!)に流されたのもあって、走った。
気温は14℃ぐらいはあったと思うが(まあそれだけあったのは幸運ともいえる)、温かいとはいえない雨は容赦なく体温を奪い、手がかじかむ。コースは所々で川のように水が溢れて足を取られ、あっというまに関節が痛くなる。晴れていればそれなりには楽しめるであろう山中湖の景観はほぼゼロ。スピードはまったく上がらず、走りながらも散々なタイムであろうことは目に見えているので、目指すのは完走だけ。ようするに辛いばっかりでちっとも楽しくなかった。

一応完走はした。だから結果は、「大雨の中で21kmを走るのは結構いける」だ。
でも、なんだかな。
なんといおうと所詮やっていることが趣味の範疇なので、どうでもいいといえばいくらでもいえるけれども、そんな中でも、自分は、走るのは嫌いではないが、走るのが好きで好きでたまらないランナーではないことがわかった。
周囲のキャリアのあるランナー達にとっても、こんな大雨のレースはあまりないらしい。大会本部のアナウンスは、「とっても珍しいシチュエーションです!楽しんで走って下さい!」と放送していた。
いやはやそれにはちょっと、ついていけない。人は時にお金を払ってまでいろいろな種類の辛苦を買っては楽しむ、ということについては、それなりにわかっているつもりだけれども。なんとも、残念なのか残念じゃないのかもよくわからない、自分のヘタレ具合がわかった。

いや、結論としては、もう二度と大雨のマラソンはやるまいと思った。

存在論

2011年04月26日 01時57分53秒 | Weblog
岩手県の陸前高田市と宮城県の仙台に行った。
このことを記事にするのは難しくて、1週間程考えてはみたもののやはり何をどう書こうか悩む。
多少なりとも意味のあることを書けないのなら(自分ひとりにとっても)、書かない方がいいとも思うが、いったい何をどう書けばいいのか。だが何か書かなければ次に行けない。

確実に言えることは、できることなら可能な限り1人でも多くの人が実際に現地に行った方がいいだろうということだ。もちろん交通や物資の問題はあるし、特に陸前高田市について言えば、素人がちょっと行って何か大したことができる感じは全くしなかった。それでも、できれば、特に若い人達には、自分の目で見て体験してほしいと思う。小さなことなら何かできるかもしれないし、宮城県内など泥かきのボランティアができるところもあるし(参加しようと思ったが生憎大雨だった)、友人知人をお見舞いに訪ねるのもいい。タイミングがむずかしいし、各人の倫理も様々あるだろうが、何か方法や考え方はあるはずだ。長期的に可能な限り多くの人が、この震災をより深く体験して内在化することが重要だと思う。個々人の人生にとっても、この国の未来にとっても。


行く前にMと会って話している時、彼が「情勢論と存在論」の話題を出した。佐藤優氏の本は不勉強でまだ読んでいないが(Mは震災前に新約聖書をひたすら読んでいたらしい)、言わんとしていることはよくわかる。今こそ重要なのは情勢論的思考ではなく存在論的な思想だと。被災地にいる方々や目前の緊急事態のために働いている方々に対してではない。その他大多数のこの国の人々にとってだ。

陸前高田市に行く途中に遠野市を通った。これはでき過ぎているぐらいにいいトピックだった。
我々はかつてどのような人間だったのか、どのような道を辿ってここまできたのか。
この先何になるのか。
今考えずにいつ考えるというのだろう。




被災地に行けたのは、仙台市内に住む友人が誘ってくれたからだ。
彼が同僚と避難所にコーヒーを振るまいに行くのをかたちばかり手伝わせて頂いた。だが実際彼にわたくしの手が必要だったわけではない。遠野を通ろうと言ったのも彼で、多少なりともわたくしを啓発しようという善意があっただろうことは疑いない(そんなことは彼は一言も口にしなかったが)。わたくしがしたことといえば、出発前にバックパックに岩波の遠野物語をねじ込んだだけという、あっけないものだった。だからこの体験はひとえに彼が与えてくれたものだ。心から尊敬し、感謝したい。
また、被災地の方々にもかえってお世話になった。好意的に迎え入れて下さり、貴重なお話を聞かせて下さりもした。何かご恩返しができればと思う。

仙台市内からのメール

2011年03月17日 00時21分56秒 | Weblog
仙台市内で飲食店を営む友人からのメール。1人で読むのはもったいないので、無断で転載したいと思う。
落ちついてからの事後承諾で、彼は許してくれると思う。以下。


「昨日は、取引のある肉屋や仙台朝市などで食材を買い集め、郊外でガソリンが無くて買い物にもいけない友人知人宅に売りにいきました。もうけはないけど、食材も手に入るんだという安心感を感じてもらえただけで、僕はやってよかったと感じてる。
そんな安心感の連鎖が拡がっていってくれればと思う。

家族のことを第一とし、友人知人がその次、そしていよいよ明日から世の中のために頑張ります。朝から食材業者の倉庫に行き、在庫と入荷状況を確認し、食材の調達もしてきます。ただこの業者も表向きには営業しておらず、どうなるかは未定。しかも場所は海の近く。
そして昼からは、できる範囲で営業します。店の在庫のパスタや、ここ数日で仕込んだ料理を売り、営業再開というかたちで『復興』の手助けができればと考えてる。

結局、身の回りのことから少しづつやっていくしかなく、復興への近道はないんだと思う。自分の生業を通してなにかしらの援助を模索し、本当の被災者に少しでも寄り添うことができればと思ってる。

原発の状況が悪くなっても、地元の『安心』のために仙台にいます。

東京も頑張ってください。それが僕らの励みになります!」




車海老

2011年02月27日 01時23分54秒 | Weblog
今日、車海老を21尾、殺した。
いや正確に言うと、彼らがおがくずの中で冬眠したまま我が家にクール宅急便で届いた時、既にその中の5尾は息絶えていたから、この指で命を断ったのは16尾だ。

人類は雑食動物だから、植物連鎖の観点から考えると自分が車海老を殺すのは致し方ないことだと思う。
国産の養殖ものだから、まあいろいろな面でも罪は軽い方だと思う(悲惨な産地から搾取した輸入ものの海老ではないし、乱獲された天然物でもない)。
わたくしはベジタリアンではないので、他人が殺した生きものならほぼ毎日のように口にしている。

知人が「活きた車海老をいっぱい貰うからお裾分けするよ」と言った時、ちょっと迷惑だなと思った。そりゃ美味しいに決まっている。そもそも車海老なんてそう食べられるものじゃない。でも料理が面倒だし、2人暮らしじゃそんなには食べられないし、活きた海老なんて大昔に母親が料理していたのを手伝った以来でうまくやれるかわからない。どちらかというと厄介ごとに分類してしまいたい。断ろうかとも思ったが、それでもやっぱりまあ、何事も経験ということで、ありがたく頂戴することにした。

漁港や市場で働くとか、漁村で暮らすとか、新鮮な魚に触れる機会が日常的にあれば、車海老16尾ぐらいでこんな記事を書く必要はまったくないだろう。
しかし都市で暮らしていて、普段生きて動くものを調理するのはせいぜいアサリぐらいで、それも鍋の中で手を触れずに殺すだけ。釣りが特に趣味というわけでもないから、多分今までの人生で、自分で釣って殺し食した魚の数は10に満たない。屠畜の経験はまだなく、食用に限らなければ日常で積極的に意図的に殺すものは蚊ぐらい(蚊アレルギーのわたくしにとっては割と深刻な問題で、食べられないように自己防衛のために闘う)という人間には、冬眠から目覚めて跳ね回る車海老を調理するという行為は、十分に印象的だった。

頭を落としても、殻を剥いでも動き続ける命。

死んでいる海老の殻を剥くのは簡単だが、生きている海老の殻を剥くのは案外大変だと知った。
生きているうちは殻が身にひっついているのだ。そのうえ動く。頭を落としても、腹にある神経が筋肉を動かすらしい。落とした頭もかなりの時間を動き続けていた。
透明な筋肉に、透明なカルシウム質の殻と足、背わた、腹にある神経、複雑な頭部と尾。あるのはそれだけだ。でも生きているか死んでいるかで、それらは本当にまったく圧倒的に違うものだ。存在の在り方が違うばかりではない、物質として違う。血すら違う。生きた海老から流した血は、いつまでも爪の間にこびり付いて取れなかった。

痛覚もきっとある。この烈しさは、単純な反射ではないと感じる。しかしわたくしにそれを問うことはできない。海老の眼に肉に、不可侵の闇がぽっかりと口を開けている。

わたくしの指がひとつの命を生から死へと移行させるまさにその時、この指はどれだけ命に向き合う命たりえているのだろう。
わたくしの指が少しでも多く命の感触を思い出すように、わたくしは台所でゆっくりと16尾の海老を殺した。

サランコットの丘

2011年01月24日 08時27分43秒 | Weblog
6年ぶりにネパールのポカラという街に行った。
首都のカトマンズからバスで7時間、ヒマラヤのアンナプルナ山域の玄関口で、マチャプチャレという、アルプスでいうところのマッターホルンのような、美しい三角形の山が見える観光地だ。
それらのヒマラヤの山々が見渡せるサランコットの丘に、今回も登った。
まだ暗いうちに標高1600mほどの丘に登り(途中までタクシーで行けるので、歩くのは30分程)、ご来光を待つ。


6年前、このサランコットの丘で同じように山を眺めて、四行詩をひとつ書いた。



「夜明け前
 稜線の厳かな影が屹立する
 君が見ているのではない
 悠久の風景が世界を俯瞰している」



マチャプチャレは7000m級、アンナプルナ山群は8000m級だから、3000m級の山しかない国の出身の人間としては、その縮尺というか、距離感がいまいちわからないぐらい高い山々だ。
なんの作為もなくただ見たままを書いたら、その時の自分のテーマだった詩的想念の半分ぐらいを言えてしまった気になったので、この四行詩を『往路』という詩集の巻頭に置いた。
我ながら面白くもなんともない四行詩だけれども、再びこの丘の上で山々を目の前にして、この詩のことを思わずにはいられない。

あの時も今も、「見る」という行為がわたくしにとってとてつもなく重要だということは、変わりがない。その技術は、歳をとって多少は洗練されたかもしれないが、かつての形而上味は失いつつあるのかもしれない。「見る」ということがどういうことなのか、何を見ているのか、わからなくなったりもするし、うまい具合に直覚できるときもある。しかしその根底にある思想は、あの詩に書いた確信には、変わりはない。


わたくしは見る。
だがその時、わたくしは見られているものの一部である。
わたくしが見ているそのものが見ているものの一部である。


はて、「見る」ということにまつわる哲学的見解としては随分陳腐だな。まあいいか。
確認してどうということもないが、せっかくポカラに行ったので、再び噛み締めることにした。


それにしても、どうしてこんな遠い街に2度も仕事の用事があるのだろう?
人生はわたくしをいろいろな場所に連れて行ってくれる。



停電

2011年01月23日 09時54分32秒 | Weblog
年明け早々仕事でネパールに行った。
6年前に一度やはり仕事で行ったことがあり、2度目だった。

さてそのネパール、6年前と一番変わったのは、1日の半分が停電するようになったことだ。これは日本で暮らしている人達にはニュアンスがわかりにくいと思う。わたくしも話には聞いていたが、実際に体験してなるほどと思った。
システムの概略を説明すると、街のエリアごとに何時から何時までと電気がある時間が決められていて、そのスケジュールが2週間ごとに発表される。ジェネレーターがあればいいわけだが、それがあるところは限られているし、それすらもあまり使わない夜間等は止めてしまうので、停電中は全く電気がないところが多い。カフェやホテルで、

「あと一時間は電気あるからインターネット通じるよ」

とか

「20時まで電気があるから、それまでにシャワー浴びよう」

とか、そんな会話が普通に飛び交っている。
夜にホテルに帰ったら真っ暗で、ロウソクを一本貰って、その灯りを頼りに寝支度をしたりする。強制的キャンドルナイトだ。

なぜそんなことになったのかというと、電力のほとんどを依存している水力発電のダムが壊れたまま復旧するお金がないからだという。どう考えてもこんなに電気がなければ国の生産性は落ちるだろうからそんなことでどうするんだと思うが、だが待てよ、石油がなくなった後の世界ってこんな感じかなとも思う。日本の電力はその7割が火力発電だ。石油の割合は下がっているらしいが、石炭や天然ガスといっても有限の資源であることにかわりはない。原子力発電は地震や事故で頭打ちだし、早くもピークオイルを過ぎ、かなりの確率で2010年代中に今まで通りの石油依存社会が営めなくなるという言説すらある。その時が来たら、わたくしたちの生活の様態はどのようなものになるのか。ひょっとしたらわたくしは今、未来を先取りして体験しているのかも?

ネパールに着いて2日もするとはやくも石油文明が恋しくはなった。
気温は夜には5度ぐらいまで下がり、盆地であるカトマンズはどうにも底冷えするが、暖房はない。この状況でぬるいシャワーを浴びたら風邪引くだろうな、、と都会育ちの日本人の脆弱さを恨めしくも思った。
だが、一日の半分ぐらい電気がないからといって、死んだりはしないということは、わかった。
築何百年かのネワール建築をそのまま使ったホテルで、夜に差し入れられた湯たんぽは感動するほど温かかったし、街灯のない街は月明かりの明るさを思い知らせてくれた。
まあ、そんなことを言っていられるのはたった10日間の滞在だからかもしれないが。

2011年01月09日 01時11分41秒 | Weblog
毎年恒例の今年の漢字一字は、質実剛健から取って「剛」にすることにした。
「満」「澄」「密」ときたので並びはいいように思う。
昨年の「密」を振り返ると、思いがけず外的状況がなかなかに密で、それに巻き込まれる形でそれなりに密な一年だった。だがその外的状況を活かすためのこちらのタフさが足りず、もうちょっと面白くできたのになという反省がある。まわりで様々なことが起き、また自分でも起こしている時に、その中でどうふるまうのか。それをどう精神の飛躍につなげるか、面白いものにするか。実感としては、いかに質実剛健であるかにかかっていると思った。飾らず中身がぐっと詰まっていて、強く健やかであれば、多くのものが可能になると思った。
今年も外的環境は益々密になりそうなので、それに向き合い対応する心身のタフさを意識したいと思い、「剛」とする。
Mは「素」とした。色々なものをかなぐり捨てて、余計なことをせず、己の道に邁進する気らしい。

そんなこんなで、Mが今年の標語を考えた。
なかなかにナイスな文字列だったので、わたくしも便乗してそれでいくことにした。



「もう休まない」



なんだかんだ言って結構怠惰だったふたりの、心機一転の標語にはふさわしかろうと思う。

解体

2010年12月25日 01時20分03秒 | Weblog
今年もMと一年の反省会をする。
もう10年来の年末の年中行事で、これがないと一年が終われない。
反省会といって、一緒に何かをしているわけでもなし、共通の趣味もこれといってないので、反省するのは単にそれぞれの自分の生き方だ。この一年をどう生きたか、どんな気づきがあり何を学んだか、改善すべきところはどこか。など、毎年互いに整理し、確認する。

今年の話をまとめると、そろそろお互い解体の時期だね、となった。
生まれてからこのかた、この自分でやってきた。築き上げてきた精神構造、性格、対自・対他的な自分の価値。でもそろそろもういいよ、と。人生のあと半分をどうやって生きるか、このままいくか、変えるか。いや、いっそ一回全部解体してしまえばいい。精神構造、性格、自分の価値など全部だ。このストーリーのままではいかないよ、と。変化はいつだってしているけれど、その変化の様式を根本から解体するのだ。
Mの言葉を引くならこれがいい。


「馬鹿には解体はできない」


馬鹿はどこまでいっても馬鹿で、解体のしようがないから。
ならば自分が馬鹿かそうでないのかを確認するためにも解体してみよう。
それは随分楽しい作業に違いない。
どうやって解体するか、その先に何があるのかはまだまったく未知だけれども。
とにかく今までと違うことをし、違う考え方をし、今までの自分では知りようのなかったことを知るんだ。


なんだか頭の奥でもやもやとしている重要なこと、世界に表出しなければそのままになってしまうかもしれない思考をえいやと明るみに引きずり出すために、そしてそれを互いに独りで実行するモチベーションを確実なものにするために、Mとわたくしは会う。
Mはわたくしたちは互いの鏡だと言ったけれど、確かにそうだ。わたくしに似ていないMの頭の中に、わたくしの思考が透けて見える。決して覗くことができない、しかしわたくしのそれよりも優れたひとつの精神。
ここまで互いの存在を互いに醸成してこれたのは、ひとえにMがうまくやってきたからだと思う。わたくしの今までの人生における最も恵まれた成果のひとつは、Mの手で作られた。それはわたくしにとって、残酷な世界が気まぐれに見せる無償の優しさだ。
そのお返しを、誰かに、あるいは何かにしなければと思うのだが。

ケベック

2010年09月27日 23時45分41秒 | Weblog
ニューヨークで時間があったので、気散じにカナダのモントリオールとケベックシティーに行った。
今年はパナマかガイアナかどこかに行こうかとも思ったが、出掛ける前はなんとなく億劫で、ニューヨークで沈没する予定だった。でもまあせっかくだからと思い立って、グレイハウンドの夜行のチケットを買った。

カナダ(殊にオフシーズンの)が面白いかと問われると、まあ微妙という感じだけれども、行ったことのない場所に行くのは嫌いではない。たまには刺激を求めない旅もいいかと思った。

モントリオールとケベックシティーはカナダのケベック州にあるが、この州は公用語がフランス語で、かつ特にモントリオールはバイリンガル都市で、それは面白かった。諸々の標示や固有名詞はフランス語だったけれど、滞在するだけならほとんど英語でも生活できる。こちらが観光客として振舞っていたからかもしれないが、話しをした人全員がバイリンガルだった。
例えばお店に入ると“Bonjour, hi.”と挨拶される。こちらが“Hi.”と答えると英語で会話が進み、“Bonjour.”と答えるとフランス語の会話になるらしい。英語圏以外の観光地にいる「英語も多少話せる他言語を母国語とする人」ではまったくもってなく、わりと本当にバイリンガルらしかった。(酷いフランス語なまりの英語もいっぱい聴いたけれども)
街中で耳を澄ましていると、隣の2人組がフランス語で喋っていると思っていたら、途中でなぜか英語の会話になっていたりした。あれはなぜなのだろう。。
一応帰ってからWikipediaで事実関係を確認したが、ケベック州では


「2006年の国勢調査では、フランス語を母国語とする州民は5,877,660人で、そのうち3,770,910人はフランス語しか話さないが、残り2,105,815人は英語も話すバイリンガル」


とある。また、全人口の8%は第一言語は英語だ。モントリオールは移民の街なので、フランス語と英語以外を母国語とする人もいて、その場合はトリリンガルになるらしい。

フランス語は全くダメな上におぼつかない英語で旅する身としては、だからどうということもないけれども、見ていて面白かった。
ケベック州はカナダからの独立運動があったり、言語間の問題もいろいろあったりして、そう簡単な話ではないのだろうが、「基本的にフランス語だけど、英語もOK」というような言語環境というのは、それだけで豊かに見えた。



ケベックといえば紅葉、ということでローレシャン高原に行ってみたかったが、観光案内所で「シーズンには2週間早い」と言われあえなく断念。気散じにも程がある、というほどに街をそぞろ歩いて帰った。