想風亭日記

人里離れた「想風亭」にて、旧事(ふるごと)を読み、黒犬を友とする日々

最良の友

2008-03-27 07:54:27 | 晴耕雨読

「あなた、犬、飼ってる?」
「いや、飼ってないけど」

「飼いなさいな。犬は人間の最良の友よ。
 なまじの人間より、よほど分別があるわよ」



カナダの作家 アリステア・マクラウドの長編小説、
『彼方なる歌に耳を澄ませよ』の最終章の一節である。
そうだな、としみじみ思う。

飼っている人間が分別がない場合にだって、
犬は犬の本分を失ったりしない。

同じ作者の『冬の犬』は、読んでずいぶん経っているけれど
ときおりシーンが思い浮かぶ。
氷に阻まれた少年と犬の姿‥‥、島の高い丘に現れる犬の影。

これらの小説に登場する犬たちは、どれも寡黙だ。
いや犬だから吠えるけれど、イメージとして『高倉健」的なのだ。
孤高の人と、犬と、人があらがうことのできない自然と、
三つ揃えば、まそういうことなんだな。



ハイランダー(スコットランド高地人)を先祖にもつ一家族の物語。
このごろの毎日流れるテレビニュースにうんざりして空しくなったら、
現実から遠くへだたった場所へ、
すくなくともここよりまだ「よりよい人間」のいる物語の中へ。

読み終わって、なんかすこし、こころがしゃんとなる感じが
するかもしれません。
新潮クレストブックスの中でも、アリステア・マクラウドは
ピカ一! 都会のど真ん中で生きづらいと思う時、手にとる一冊、
森の中でひとり、どうしてここにいるんだろうと思う時の一冊
でもあります。

追記:
犬は、分別があって、矛盾がなくて、筋ってもんが命ですぜ
姐さん(とは言わないが)そういう感じである。
もし問題があるとすれば、人間の都合が原因である。



犬の訓練士は犬より飼い主に、コマンドの一貫性を求める。
それが犬本来の性質に合わせた訓練法だからだ。
うちのベイビーは生後五ヶ月の時、ある訓練士に預けた。
二ヶ月の予定だったが、あまりの厳しさにめげてしまって
(犬ではなくわたしが)、そんなふうに扱わないで!と
見ていられなくなって、残り二週を待たずに連れ戻した。
後悔しますよ、困ったらまたどうぞと、訓練士はわたしに言った。

もちろん家に戻ると吠えまくる、走り回る、大騒ぎの毎日。
ベイビーの目と鼻先とじっくりと向きあって、
思い知った事は、ただ単に人である自分の勝手な都合を
彼に押し付けているのだということだった。
それがわかってからというものの、即日、ベイビーはつきあいのいい
優等生、ママ思いの子になった。それから今日までずーっとそうだ。
つまり、わたしが調教、訓練してもらったわけである。
コマンド(命令)なんていうより、「話せばわかる」だった。

人はゴーマン、犬も猫もそのことをよく知っている。
見張り番である。


ちょうちょむすび

2008-03-23 01:46:21 | 晴耕雨読


ベイビーベイビーと節をつけて歌うとしっぽを
ぱたぱたと小さく振って、そして眠ります。

抱っこしてた二ヶ月の頃も
37キロになった10歳の今も
ベイビーベイビーの歌が好き

うす目をあけて、しっぽパタパタで
おっかあがそばにいれば、また目を閉じて



ちょうちょむすびのヒョウ
おっかあといつも一緒の君
よく似ているよ

よく寝て長生きしてくれろ ベイビー

(顔に似合わずこんなやさしい物語を作る今江氏、
 児童文学の大家ですのん!)


モディリアーニ

2008-03-20 16:49:48 | 晴耕雨読
六本木、国立新美術館にてモディリアーニ展開催

パリのモンマルトルにあった芸術家たちのアトリエ、
ル・バトゥ・ラヴォワールを訪ねる旅をしたのは、二十代初めの頃だった。
雑誌でエコール・ド・パリの取材をしたのがきっかけだった。
それから私的な旅であらためてでかけた。

坂道の途中にはアートの気配もないコンクリート造りアパルトマンがあり
Le Bateau Lavoir のプレートが。
モンマルトルそのものが観光名所になっているのだから、あたりまえのこと
ではあったけれども、興ざめした。
ソレナラバときびすを返し、チュイルリー公園へと駆け足で向かう。
オランジュリー美術館があるはずだから。

そこで見たのは、ほのかな光に照らしだされた
やさしくはかなげなマリー・ローランサンの絵。
モディリアーニは、海外への巡回展覧会で貸し出し中と張り紙があるではないか。

モネの睡蓮の屏風(屏風じゃないんだけれど、あれはほとんど屏風画)の前で、
歩きつかれた足を休めながら、モジは何処へ行った?と沈んでしまった。
当時、美術館は老朽化で修理中らしく半分ほどしか公開スペースが
なかった。(現在はすでに新装オープンしてるよう)

画集、複製のポスター、絵はがきを買い込んで重くなった手提げ袋を
下げて外へ出て、なんだか空しい。
まだお昼をちょっと過ぎたくらいの時間だったけれど、
ショッピングやグルメに興味のないわたしのすることは、
あとは公園の散歩くらいだった(これは今も変わらないなあ)
セーヌ河畔を歩いて、古本屋をひやかしながらぶらぶら。

ボリス・ヴィアンの顔が表紙になったペーパーバックス、
JAZZ MEN の写真集が収穫。これも手提げを重くしたけれど、
モジに会えないわけだから、二番手三番手でも買って慰めるしか
ないわけだった。
お昼をちょっと過ぎたくらいの時間、まだ明るいのに
安ホテルへ戻り、辞書を引きつつ写真のキャプションを読み、
モノクロの渋い彼らを眺め、これはここで見るものか? と
やや己に懐疑的でもありました。
でもわたしはたいていそんな感じであーる。

外国人が、京都をそぞろ歩いて日本の美を見出そうと憧れて
いざ、やってくる。バス・ツアーで南禅寺とか行くけれども
湯豆腐をみんなで並んで食べ、借景式庭園を見て長い廊下をみんなで歩く。
なんか想像してたのと違うね、と内心寂しがる。
桜、立ち止まっていたいけどもう先へ行くの?となって、
バスへ戻るとなんか胸の奥に空洞ができていてふさがらない。
というのとたぶん同じです。

東京へ戻って、数週間後に都内百貨店でユトリロ、モディリアーニ展が
開かれていました。
行きました。
パリではなく、東京で、じっくりとモディリアーニ。

わたしの仕事場の入口には、額装したユトリロの複製がかかっています。
訪ねてきた友人が、オオっと言い、見入った後、
「なんだ、コピーか」と言うと、スタスタと中へ入ってきました。
コピー(複製って言えよ)か本物か、それはわたしにとって大事なことでは
ないのです。
寝室のモジも複製、わたしには宝物です。
なぜ自分がその絵に惹かれるのか、白い絵の具で塗られたユトリロや
黒と緑、暗い眼をしたモジを見ると心が休まるのか。
ずっと、今でも考えているのですから。

ps.ふるごと更新、またまた狐のはなしです。今度は熊も出ます。




ノラや

2008-03-18 15:12:59 | 晴耕雨読
  月が昇って ↑

シマコさんは、かれこれ3週間ほど顔をみせません。
夜になっても現れず…

猫に囚われている人を近くに見ていると、
内田百「ノラや」を思い出してしまう。

「風の音がしても雨垂れが落ちてもお前が帰ったかと思い、
今日は帰るか、今帰るかと待ったが、ノラやノラや、
お前はもう帰って来ないのか。」
という悲嘆の言葉で結ばれている。

大の男が猫の話をする。猫の心配をする。
猫は勝手気ままであるので、はたから見れば、性悪女に
振り回される男のようでもある(私見です…あくまで)。
 そういうときの男の人は無性にやさしいのではないか。

それを見聞きするこっちは、男の人が気の毒でもあり猫が
うらやましくもある。
そのうらやましさは、人間同士の嫉妬心にあるような
ドロドロしたものではなく、ちょっと切ない感じ。

そのまなざしは、人が人に向けるやさしさと違う種類のもの
で博愛とでもいおうか、無条件の慈愛。そばにいると
見ている者まで空気感染しそうだ。

力のある者が小さくて非力な者を守っているという関係に
たいていは心動かされる。決して上から目線ではなく。
この際、猫のしたたかさは霞んで小さく(太っちょ猫も)
か弱い生き物にみえてしまう。
「大の男と、猫」というのは、なんだかほだされる図で好きである。



仕事場へ通じる路地に行きつけの花屋があって、ご主人は
自宅では猫を飼っている。以前はテリア系の犬がいたが、
行方知れずになって、それきり猫しか飼っていないという。

世田谷の保護センターに幾度も通って探したとき、
「似たような子がたくさんでさ、どれがうちの子かわからないほど
たくさんさね」
そこにはいないとわかって、ようやく諦めて、やってきた猫である。

主人はこちらの好みを覚えていて、好きでない色を除いて
花束を揃えてくれる。野性味のある和花をよく選ぶ。
そして揃えた花束を目の前にかざして「おお芸術だあ」と
自分で言う。ね、そうだろ?とこっちへむかって言う。
そこいらの華道家よりおいらの方が上だね、なんてことも言う。
そうそう、いいねえと相槌を打ち、ちょっと世間話になる。

たいていは、お宅のボウズは元気にしてる?と主人が聞く。
まあまあ、このごろは留守番してるよ。と応える。
オイラんとこの猫ね、ずいぶん前に数ヶ月行方知れずになって、
さんざん探して諦めかけたころに戻ってきたんだよという話になる。

これ何度聞いたっけ、わからないくらい繰り返し。
乞食みたいにぼろぼろになって戻ってきたんだよ、
でも帰ってきたからよかったよ。
ほんとに安堵した顔で話す。
生きた心地しなかったよと。

 親父さんのココロの中にある猫の比重、わたしの中の
ボウズの比重。同じだなあと思うので、何度聞いても一緒に
安堵感を味わっている。

ところが先月の初めに立ち寄ると、また戻ってこないのだと言う。
そのうちまたふらりと帰ってくるよ、と慰めると、
いや今度こそはわからない。もう諦め半分さね、と言った。
その日、主人は花の色を間違え、あろうことかオレンジ色の
なんだか知らない洋花を混ぜ、いつものようにかざして吟味し、
黙ったまま、そのまま包んでしまった。
何も言わずに受け取って、何か言いたいが出てこない。
大丈夫だよ、帰ってくるよと言ったが心もとなさに気が沈む
ことこのうえなし。

 それからしばらくして通りですれ違った時に、オハヨー
ゴザイマースと挨拶をしたついでに、猫どうした?と尋ねると、
おうおう戻ったよ!、でも大変だった、また傷だらけでさ。
主人の声はすれ違う人が振り返るくらいでかかったが、
「それが大怪我しててさ」というのが猫の事だとは人は思わ
ないだろうなとおかしかった。

 花屋の主人、野坂昭如氏、それからねずみ師も。
猫優先の人のビミョウな意外性、見ていると明るい陽が
射してくる感じがします。

 ちなみに、百の愛猫ノラは雄、花屋の猫はオカマちゃん。
イプセン「人形の家」のノラではなく、野良のノラと
わざわざ書いたところが文学者の猫らしいなあ、
イプセンを今ではほとんど読まないだろうから
ノラは野良としか考えないけどね。
どっかのばあちゃんも、道端の猫に「ノラちゃん」と
呼びかけていましたし。

ps:昨日の狐いろいろの話。元はミケモチヒメノカミ。
  食保姫神と書きます。
 


太宰の娘

2008-03-07 00:07:17 | 晴耕雨読
太田治子さんと津島祐子さん、ふたりとも太宰治の娘。
お二人ともおおよその紹介記事でそう書かれます。
これはすごいことだな、と思います。
日本人は血筋第一主義だな、ということでアホらしく
すごい。
最近テレビを見てうんざりした、すごい血筋は
竹下元首相の孫っていう、アレ。カナシ~、テレビ。

前置きが長くなりました(↑前置きでした)
「心映えの記」
太田治子さんの作品、とても好きな本。
こころがしっとりと、ちょうどいい湿度を取り戻す
そんな内容でした。
ちなみにうちの破滅派姪っ子にたまには読めと手渡すと
「ひさしぶりに本よんだ気ぃしたよ~」。
竹下孫によく似た言い方でお墨付きくれました。
きっちり返却を要求し、背表紙が目にふれるところに
置いてあります。

※ふるごとじゅく更新しました、よろしく。



ふきのとうを待って

2008-03-06 07:51:13 | 晴耕雨読
小川のそばにあるのは木製ベンチ。雷で打たれた赤松を
倒して二つに割って拵えたものです。あ、ねずみ師とその一派が、です。
私はな~んも、カレー皿とかをそこへ運ぶのみです。
今はすべてが雪にうもれていますが。

うららかな春は
きびしい冬の
  あとから来る
可愛い蕗のとうは
  霜の下で用意された
         作:宮本百合子

団子坂近くの仕事先へ所用で寄った折、来た方向へ
戻らず、坂道をぶらぶらと散歩。
途中で目に止まったのがこれ、行き過ぎたけど戻って
やっぱり撮りました。
文京区駒込、浄土宗榮松院の入口に掲げられて
いました。



『宮本百合子』
二十歳の頃、初めて自分で買った文学全集です。
湯浅芳子、野上弥生子なども、ここから知りました。
その後、貧乏生活の若き日、同じアパートにいた
某航空会社勤務の女友だちに借金の形に預けたまま
そのまま返ってこなかったような記憶が…
それはつまり、そう、そんなわけで、
よって私の本棚から消えて久しい。
情熱の人宮本(中条)百合子は、無知な青二才の視界を
照らし、行動する歓びを教えてくれた気がします。

思いがけない遭遇に、ちょっと嬉しかったのでパチリ。


草衣の心は・・・

2008-03-01 00:05:43 | 晴耕雨読

京都は栂尾にある高山寺は、今では世界遺産に登録されてしまいましたね。
大好きな明恵上人が住まわれた石水院があります。(以前からここだけ公開)

昔昔の高僧を大好きなとは、いかがなものか、なんて普段はツッコミ入れる側ですが
明恵お上人様は明恵さんと呼ぶ人も多いように、崇敬の気持ちがそのまま温もりに
なって「大好きな感じ」を感じさせてくれる希有な存在なのです。

石水院へ上がっていく石段は、濃い緑の苔に被われています。
しっとりとしてビロードのような深い色合いの緑に吸い込まれるような
気持ちでだんだんと登っていくと、質素な木造の石水院があります。
初めて訪れた時は、お寺の印象がまったくなく、伸びやかで
簡素な造りが意外でした。そして、明恵さんの空気を感じました。

幅広の縁側に座って、前に広がる山の木々や空を眺めます。
庭はいかにも手入れしたというふうでなく、様々な野草や低木が
植わっていて、そこにリスが遊びにきていても不思議でない感じです。
樹上座禅図にあるような、あの小さくて愛くるしいリスです。

明恵さんの周辺にはかわいい生きものがいろいろと居ますね。
あまりにも有名な、鳥獣戯画は高山寺に伝わって今に至るのですが、
それがごく自然な気がします。

草衣の心、草衣とは禅の言葉です。草で編んだ質素な衣を着るとは
世俗の欲から離れて生きる姿を喩えたもの。
それが月に似ている、静寂と輝きを備えた境地だというのです。

写真の石は、師が山道からエッセエッセと運んで置かれたもので、
黒犬くんがときどき失礼してションするので、苔が生えてきて。
その苔から、石水院を連想し、縁側から見えた空の雲など
思い出しているのです。
'07秋の撮影。