六本木、国立新美術館にてモディリアーニ展開催
パリのモンマルトルにあった芸術家たちのアトリエ、
ル・バトゥ・ラヴォワールを訪ねる旅をしたのは、二十代初めの頃だった。
雑誌でエコール・ド・パリの取材をしたのがきっかけだった。
それから私的な旅であらためてでかけた。
坂道の途中にはアートの気配もないコンクリート造りアパルトマンがあり
Le Bateau Lavoir のプレートが。
モンマルトルそのものが観光名所になっているのだから、あたりまえのこと
ではあったけれども、興ざめした。
ソレナラバときびすを返し、チュイルリー公園へと駆け足で向かう。
オランジュリー美術館があるはずだから。
そこで見たのは、ほのかな光に照らしだされた
やさしくはかなげなマリー・ローランサンの絵。
モディリアーニは、海外への巡回展覧会で貸し出し中と張り紙があるではないか。
モネの睡蓮の屏風(屏風じゃないんだけれど、あれはほとんど屏風画)の前で、
歩きつかれた足を休めながら、モジは何処へ行った?と沈んでしまった。
当時、美術館は老朽化で修理中らしく半分ほどしか公開スペースが
なかった。(現在はすでに新装オープンしてるよう)
画集、複製のポスター、絵はがきを買い込んで重くなった手提げ袋を
下げて外へ出て、なんだか空しい。
まだお昼をちょっと過ぎたくらいの時間だったけれど、
ショッピングやグルメに興味のないわたしのすることは、
あとは公園の散歩くらいだった(これは今も変わらないなあ)
セーヌ河畔を歩いて、古本屋をひやかしながらぶらぶら。
ボリス・ヴィアンの顔が表紙になったペーパーバックス、
JAZZ MEN の写真集が収穫。これも手提げを重くしたけれど、
モジに会えないわけだから、二番手三番手でも買って慰めるしか
ないわけだった。
お昼をちょっと過ぎたくらいの時間、まだ明るいのに
安ホテルへ戻り、辞書を引きつつ写真のキャプションを読み、
モノクロの渋い彼らを眺め、これはここで見るものか? と
やや己に懐疑的でもありました。
でもわたしはたいていそんな感じであーる。
外国人が、京都をそぞろ歩いて日本の美を見出そうと憧れて
いざ、やってくる。バス・ツアーで南禅寺とか行くけれども
湯豆腐をみんなで並んで食べ、借景式庭園を見て長い廊下をみんなで歩く。
なんか想像してたのと違うね、と内心寂しがる。
桜、立ち止まっていたいけどもう先へ行くの?となって、
バスへ戻るとなんか胸の奥に空洞ができていてふさがらない。
というのとたぶん同じです。
東京へ戻って、数週間後に都内百貨店でユトリロ、モディリアーニ展が
開かれていました。
行きました。
パリではなく、東京で、じっくりとモディリアーニ。
わたしの仕事場の入口には、額装したユトリロの複製がかかっています。
訪ねてきた友人が、オオっと言い、見入った後、
「なんだ、コピーか」と言うと、スタスタと中へ入ってきました。
コピー(複製って言えよ)か本物か、それはわたしにとって大事なことでは
ないのです。
寝室のモジも複製、わたしには宝物です。
なぜ自分がその絵に惹かれるのか、白い絵の具で塗られたユトリロや
黒と緑、暗い眼をしたモジを見ると心が休まるのか。
ずっと、今でも考えているのですから。
ps.ふるごと更新、またまた狐のはなしです。今度は熊も出ます。
パリのモンマルトルにあった芸術家たちのアトリエ、
ル・バトゥ・ラヴォワールを訪ねる旅をしたのは、二十代初めの頃だった。
雑誌でエコール・ド・パリの取材をしたのがきっかけだった。
それから私的な旅であらためてでかけた。
坂道の途中にはアートの気配もないコンクリート造りアパルトマンがあり
Le Bateau Lavoir のプレートが。
モンマルトルそのものが観光名所になっているのだから、あたりまえのこと
ではあったけれども、興ざめした。
ソレナラバときびすを返し、チュイルリー公園へと駆け足で向かう。
オランジュリー美術館があるはずだから。
そこで見たのは、ほのかな光に照らしだされた
やさしくはかなげなマリー・ローランサンの絵。
モディリアーニは、海外への巡回展覧会で貸し出し中と張り紙があるではないか。
モネの睡蓮の屏風(屏風じゃないんだけれど、あれはほとんど屏風画)の前で、
歩きつかれた足を休めながら、モジは何処へ行った?と沈んでしまった。
当時、美術館は老朽化で修理中らしく半分ほどしか公開スペースが
なかった。(現在はすでに新装オープンしてるよう)
画集、複製のポスター、絵はがきを買い込んで重くなった手提げ袋を
下げて外へ出て、なんだか空しい。
まだお昼をちょっと過ぎたくらいの時間だったけれど、
ショッピングやグルメに興味のないわたしのすることは、
あとは公園の散歩くらいだった(これは今も変わらないなあ)
セーヌ河畔を歩いて、古本屋をひやかしながらぶらぶら。
ボリス・ヴィアンの顔が表紙になったペーパーバックス、
JAZZ MEN の写真集が収穫。これも手提げを重くしたけれど、
モジに会えないわけだから、二番手三番手でも買って慰めるしか
ないわけだった。
お昼をちょっと過ぎたくらいの時間、まだ明るいのに
安ホテルへ戻り、辞書を引きつつ写真のキャプションを読み、
モノクロの渋い彼らを眺め、これはここで見るものか? と
やや己に懐疑的でもありました。
でもわたしはたいていそんな感じであーる。
外国人が、京都をそぞろ歩いて日本の美を見出そうと憧れて
いざ、やってくる。バス・ツアーで南禅寺とか行くけれども
湯豆腐をみんなで並んで食べ、借景式庭園を見て長い廊下をみんなで歩く。
なんか想像してたのと違うね、と内心寂しがる。
桜、立ち止まっていたいけどもう先へ行くの?となって、
バスへ戻るとなんか胸の奥に空洞ができていてふさがらない。
というのとたぶん同じです。
東京へ戻って、数週間後に都内百貨店でユトリロ、モディリアーニ展が
開かれていました。
行きました。
パリではなく、東京で、じっくりとモディリアーニ。
わたしの仕事場の入口には、額装したユトリロの複製がかかっています。
訪ねてきた友人が、オオっと言い、見入った後、
「なんだ、コピーか」と言うと、スタスタと中へ入ってきました。
コピー(複製って言えよ)か本物か、それはわたしにとって大事なことでは
ないのです。
寝室のモジも複製、わたしには宝物です。
なぜ自分がその絵に惹かれるのか、白い絵の具で塗られたユトリロや
黒と緑、暗い眼をしたモジを見ると心が休まるのか。
ずっと、今でも考えているのですから。
ps.ふるごと更新、またまた狐のはなしです。今度は熊も出ます。