goo blog サービス終了のお知らせ 

日々好日

思いつくままの日記です。主に、経営、人生、ロータリークラブなどを話題とします。

弟の死

2006-08-06 23:19:12 | Weblog
7月25日突然弟が事故で亡くなりました。ちょうど、金沢に出張中でした。夜9時ころ帰りの車を運転中、事故の知らせを聞いた。
その電話の報告ではまだ意識があるとの事で安心をしていたが、帰宅後、すぐに病院へ駆けつけた時はもう意識がない状態であった。
かなり多くの箇所を複雑な骨折をしていたようで、出血がなかなか止まらないとの事だった。そこで、緊急輸血をし、何とか出血を止めるべく、医師団は努力をして頂いた。
しかし、その努力も空しく、その夜の午後11時50分息を引き取った。
昨日まで元気だった弟が、こんなに早く、しかもいとも簡単に死んでしまうとは、未だに信じられない気持ちで一杯である。
ついつい、昔の小さい時の思い出が、蘇ってくる。
二人で近所の川で一緒に遊んだ思い出、後ろからいつも『兄ちゃん』と言って着いてきた姿を思い出を、、、、。
なぜ、そんなに早く死んだのか。どうしてなのか。何度も心で叫んでいた。
身の回りの起こるすべてのことは意味があると言われている。
神様は私にこのような試練を与えて、何をさせたいのであろうか。
今、弟の冥福を祈りながら、今私に与えられた使命を静に想っている。
ただ、老いた母親のためにも弟の分まで、頑張らなければならないと心に誓っている。

ガバナー公式訪問

2006-07-07 01:19:51 | Weblog
いよいよロータリーの新しい年度が始まった。その第一回例会が公式訪問例会となった。さすがの小牧会長も緊張気味であったが、会長幹事会・例会・クラブ協議会と無事終了し、ヤレヤレと言う感じで一日が終った。今回、いろいろ事情があって小牧会長の幹事をお引き受けさせて戴いた。5年前にクラブ会長を経験させて戴いたが、会長と幹事とではこんなに気持ちが違うのかと言うことを肌で感じた。やはり会長と言う職は気が張るお役目だ。何もなければ、これで後はゆっくりと言いたいところだが、今年はそうはいかない。クラブ創立50周年を迎えて、記念事業、式典など行事が目白押しだ。小牧会長は商工会議所の副会頭をはじめ、多くの役職を抱え、今年は本当にお忙しい年になりそうだ。幹事として、小牧会長のために、そしてクラブのために少しでもお役に立てるように、努力をしたいと、改めて気を引き締めた公式訪問であった。

報徳運動とロータリー

2006-07-07 01:03:03 | Weblog
報徳運動の創始者である、二宮尊徳(幼名は金治郎)は少年期に両親と死別し、その後貧しい暮らしの中で勤労に励み、倹約を重ね、しかしかたわらで独学で勉学に勤しんだ結果、幅広い見識を持つようになり、全国各地の困窮した農村救済にその手腕を発揮するようになったと言う。
その救済のための行動や智恵を体系的な思想としてまとめたものが、『報徳思想』である。
報徳思想は単なる説法や空虚な理論ではなく、江戸末期の日本の農村の現実に即した実践的なもので、様々な生活様式として人々の生活に定着していったようだ。
その報徳の教えには、3つの柱がある。
1つは勤労。これは、『積小為大』と言う言葉に代表される考え方だ。大きな目標に向かって行動を起こすとしても、小さなことから怠らず、つつましく勤めなければならないということ。「今蒔く木の実、後の大木ぞ」という尊徳の有名な言葉が残されている。
2つめは分度。これは適量・適度のこと。分度をしっかり定めないままだから、困窮してしまうし、暮らし向きも楽にならない。家計でも仕事でも、現状の自分にとってどう生き、どう行うべきかを知るということが大切だという考え方だ。
3つめは推譲。推譲とは肉親、知己、郷土、国のため、あらゆる方面において、譲る心を持つべきだと言う考えだ。
分度をわきまえ、少しでも他者に譲れば、周囲も自分も豊かになるものだと言う教えである。
尊徳門下の岡田良一郎の指導による報徳活動の盛んであった掛川には、「大日本報徳社」がある。
そしてその正門には、片方に道徳門ともう片方に経済門と書かれている。
人間の欲を認めながら、しかし周りとたくみに調和させる。心も金も同時に豊に育もうというこの報徳の思想は、農村救済という枠を超えて、渋沢栄一、安田善次郎、松下幸之助、土光敏夫など多くの実業家に大きな影響を与えたと言われている。
ロータリーも、職業倫理道徳の高揚、顧客第1主義の実践が求められている。
そして、この報徳思想とシェルドンが説くロータリー哲学、職業奉仕哲学は根底にある考え方が実は大変近いものではないかと思う。
ロータリーが出来てちょうど101年経つのであるが、それよりもはるか昔に日本において素晴しい実践哲学があったことは大変誇りに思う。と同時に、このような哲学こそ、現在の経済ばかりが強調される世の中に対して、今最も求められる考え方ではないのだろうかと思う。

ノーブレス・オブリッジ(Noblesse Oblige)

2006-05-25 22:55:56 | Weblog
ノーブレス・オブリッジ(優者の責任)と言う言葉がある。辞書を調べると、高い身分に伴う道義上の義務とある。力や富、地位をもつ者は、それを持たない弱者を救う責任を果たしてこそ『選ばれた者』として賞賛され、矜持(きょうじ)(自分の力を信じていだく誇り、つまり自信とプライド)をもてるという意味だそうだ。
尊敬する西村二郎PDGは『ロータリアンはエリートでなければならない、そして誇りを持って行動しなければならない』と言われた。
まさに、ノーブレス・オブリッジということを言われているのではないだろうか。
戦後、日本の教育は極端な結果平等主義に陥り、『みんなとおなじ』、『普通並』という生き方が最上の人間の美徳として教え込まれてきた。そしてこの偏った教育のために、社会の指導者たる人間においてさえも、『選ばれた者』としての自覚を持ち、そしてその責任を果たそうとする考えが欠落してしまったようである。
昨今、バブルが崩壊し、勝ち組・負け組み、上流社会・下流社会などと言う言葉が流行語となっているが、このような格差社会を生み出す背景になったのも、戦後の平等教育の結果かもしれない。みんな平等なのだから、弱者は誰かが救ってくれると考え、期待し続けているのだが、選ばれた者の意識のない社会では、弱者はいつもでも取り残されていくのではないだろうか。
しかし、日本も昔の『おしん』の時代には、確かに貧富の差はあったが、格差などと言う言葉はなかったと言うより、実感しなかった。
たとえ、その時は貧しくても、懸命に努力し、真面目に働けば、いつもその先に希望の光が見えることを信じられる時代であったのだ。
現在の日本は、人々の将来への不安と絶望感で満ち溢れているように思う。
ロータリアンは今こそ、日本人の希望と夢を呼び起こすエリートとして、ノーブレス・オブリッジを果たさなければならないと思われる。そして、ロータリアンは自覚を持って、誇りを持って社会に模範を示すことが必要ではないだろうか。


新しいクラブの創立

2006-05-21 18:09:15 | Weblog
本日、福井市に新しいクラブが創立され、その認証状伝達式が盛大に行なわれた。祝辞の中で、新しいクラブの門出に向けての言葉があったが、その中から心に残った一言を紹介したい。

「縁尋機妙(えんじんきみょう)」――。安岡正篤師がよく口にされた言葉である。「よい縁がさらによい縁を尋ねていく仕方が実に機妙である」という意味である。

 また安岡師はこれと対句のように、
「多逢勝因(たほうしょういん)」――という言葉もよく説かれた。「よい人に交わっていると、気づかないうちに、よい結果に恵まれる」ということである。

確かに良い人と付き合っていると、どんどん運が良くなっていくように思える。
ロータリークラブに入会することによって、どんどん新しい出会いが生まれ、その結果自分が益々成長する機会になれば、ロータリークラブの存在価値がひとつそこになるのかもしれない。
新しいクラブのますますの発展を祈らずにはいられない。