前回より、気になった事柄を調べて巡る「探求散歩」始めました。
4月末より暇を見て、写真を撮りに歩き回っています。
記事を作るのに、花写真の5倍くらい手間なのに人気は全く出ません。
ローカルネタなので覚悟の上ですが、調べたことをまとめるのは楽しいですね。
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今回も埼玉県川越市の伊佐沼について書きます。
前回は、昭和初期の伊佐沼が、現在よりも広かったお話をしました。
今からおよそ85年前、昭和9年に干拓されてしまって田圃になり、2/3の大きさになってしまいました。
「今昔マップ on the web」より加工 今昔マップ on the web
「地理院タイル」より加工 https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html
伊佐沼の干拓により面積は、42haから28haになったらしいです。
でももっと昔、江戸時代はもっと大きかったらしいんです。
北伊佐沼橋のそばの植え込みに、昭和57年3月に建てられた市の看板があります。
看板の文字は退色してしまって、ほとんど見えないのですが・・・(画像は字が見えるよう加工してあります)。
伊佐沼について書かれており「南北1.3㎞、東西300m、面積0.35㎦」と現代の大きさが分かります。
気になるのが「新編武蔵風土紀行(1830年)」で江戸時代は「長さ17町(1.9km)、幅3町(330m)」あったとの記載。
干拓前の伊佐沼の長さを推測してみると、大体1.4kmくらいです。さらに500mも南北に伸びていたそうですよ。
文献では北田島東方からはるか南に至ると推定されています。
北は県道51号川越上尾線より先、南は国道16号(東京環状道路)を越えていくような感じですかね。
現在の沼のカタチからは想像も出来ません。
© OpenStreetMap contributors OpenStreetMap
幕末には広大だった伊佐沼ですが、明治維新になると交通網の整備により縮小していくようです。
まず、明治10年(1877年)に大宮県道が出来、南側が分断されて田圃になります。
余談ですが、大宮県道は旧道路法制定により、浦和までの道と一緒に県道1号川越浦和線(大正9年、1920年)となりました。
その後、現行の道路法により二級国道129号東京環状線(昭和28年、1953年)へ格上げ、法改正で現在は国道16号線(昭和40年、1965年)です。
面白いことに16号バイパスの工事が進むにつれて、上江橋より東の旧16号は順次県道へ格下げされ、現在は県道2号線です。
次いで、明治18年(1885年)に上尾県道開通により、北側が分断して干拓されてしまいます。
一体、伊佐沼はどんな形をしていたのでしょうか?
地図上で昔、川だったところなんかは、境界線に出ていたり地名が違ってたりするんですよね。
航空写真などで見てみると、田圃の方向やカタチが微妙に異なることがあります。
こんなところから、昔の伊佐沼を想像してみたいです。
まずは地名に何か手掛かりはないか?現在の地図を苦労して地区別に色分けしました。
広い面積の大字の中に小さな「東明寺」、飛び地「寺井」「川越」なんかがあります。
こうした土地の由来を調べても面白いのでしょうね。
「地理院タイル」より加工 https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html
前回の記事で、昭和9年まで大字伊佐沼の北端部は沼であったことを紹介済み。
19世紀前半「新編武蔵風土紀行」の頃は、伊佐沼北端は北田島の東に接していたそうです。
そうとなると、大字「東明寺」「寺井」「川越」あたりに沼の名残かあるかも知れないですね。
伊佐沼南端は大字古谷上の地内なので、道や水路、集落から見当を付ける他なさそう。
さらに明治初期の迅速測図から、水路部分をトレースしたものを作ってみました。
一見して分かるのは、上尾県道の北側、現在の大字寺井の辺りに水路が多いことです。
どう見ても農業用水ではなさそうですね。
この辺りは地下水位が低く、当時は半湿田のような状況で稲、作物の生育が芳しくなかったようです。
沼を埋め立てたところは、さらに田の状態が悪いと思いますので、排水路でないでしょうか?
集落も無く、水路が密集している辺りが、干拓地だったとしても不思議ではなさそうです。
南側は地図上では判別がつきにくいですが、集落の無い道や水路で囲まれた範囲なのでしょうか?
今度は航空写真を見てみます。土地改良法施工前の写真です。
上尾県道をはさんで北側の部分です。昭和21年3月の写真。
地名は現代の呼称です。寺井の辺りは水路?が入り組んでいます。
「地理院(単写真)」より加工 https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html
次は南側です。大宮県道を境に田圃の方向が変わっています。
「地理院(単写真)」より加工 https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html
以上、大字の位置関係、隣接、県道で分断されること、水路や道路に沿って沼のカタチを想像してみました。
北部は民家を避けながら、大字寺井まで伸ばして、水路みたいなのが沼に収まるようにしました。
南部はかなりいい加減な想像ですが、水路や道路沿いに大宮県道の先まで広げてみました。
条件を満たすようにしましたが、長さを図ってみたら2500mくらいになってしまい都合が悪いです。
「地理院(単写真)」より加工 https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html
「新編武蔵風土紀行」では長さ17町(1900m)ということなので、修正してみます。
南側は伊佐沼と大宮県道の距離が長いので、どの辺が埋め立てられたかはっきりしません。
干拓するにしても、仕切る場所は県道ではなさそうです。
逆に北側は湿地みたいなところが多くて、昔の沼に含めたい場所が多いです。
南側(大宮県道)の干拓が無ければ、長さはいい線なんですが・・・。
「地理院(単写真)」より加工 https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html
「芳野村郷土史考」では、往古は古谷村の八ツ島まで沼沢地とあるので、
もっと広い範囲が沼であったと考えられます。
勝手に想像してみましたが、元々は入間川だったのかもしれませんね。
写真を加工して検討するのは、えらく大変ですが、やってみると面白いものです。
でも、根拠の乏しい想像上のお遊びなので、学術的価値は全くありませんよ。
こんないい加減な図を偉い先生に見せたって、笑われるのがオチですね。
結局、第2回目もダラダラ図ばかり作ってしまいました。
伊佐沼の画像については、また次回といたします。
記事作成、特に画像加工の労力が大きいため、散歩シリーズ昨日はお休みしました。
久しぶりに花の画像、それも家で撮った雑草でしたがいかがでした?
日曜日を使って記事を作りましたが、次の更新も時間がかかるかも知れません。
労力の割に人気は全くないですが、楽しみながら頑張ってまいります。
次回もどうぞよろしくお願いいたします。