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小さな花の輝く世界

小さな植物や花の知られざる輝きをご紹介いたします。くわゐ(匙太sagittaria)です。お間違えなきよう

伊佐沼散歩❷さらに昔はもっと広かった?

2020-06-29 07:55:55 | 探求散歩

前回より、気になった事柄を調べて巡る「探求散歩」始めました。

4月末より暇を見て、写真を撮りに歩き回っています。

記事を作るのに、花写真の5倍くらい手間なのに人気は全く出ません。

ローカルネタなので覚悟の上ですが、調べたことをまとめるのは楽しいですね。

 

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今回も埼玉県川越市の伊佐沼について書きます。

 

前回は、昭和初期の伊佐沼が、現在よりも広かったお話をしました。

今からおよそ85年前、昭和9年に干拓されてしまって田圃になり、2/3の大きさになってしまいました。

「今昔マップ on the web」より加工 今昔マップ on the web

「地理院タイル」より加工 https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

 

伊佐沼の干拓により面積は、42haから28haになったらしいです。

でももっと昔、江戸時代はもっと大きかったらしいんです。

北伊佐沼橋のそばの植え込みに、昭和57年3月に建てられた市の看板があります。

看板の文字は退色してしまって、ほとんど見えないのですが・・・(画像は字が見えるよう加工してあります)。

伊佐沼について書かれており「南北1.3㎞、東西300m、面積0.35㎦」と現代の大きさが分かります。

気になるのが「新編武蔵風土紀行(1830年)」で江戸時代は「長さ17町(1.9km)、幅3町(330m)」あったとの記載。

干拓前の伊佐沼の長さを推測してみると、大体1.4kmくらいです。さらに500mも南北に伸びていたそうですよ。

文献では北田島東方からはるか南に至ると推定されています。

北は県道51号川越上尾線より先、南は国道16号(東京環状道路)を越えていくような感じですかね。

現在の沼のカタチからは想像も出来ません。

© OpenStreetMap contributors OpenStreetMap

幕末には広大だった伊佐沼ですが、明治維新になると交通網の整備により縮小していくようです。

 

まず、明治10年(1877年)に大宮県道が出来、南側が分断されて田圃になります。

余談ですが、大宮県道は旧道路法制定により、浦和までの道と一緒に県道1号川越浦和線(大正9年、1920年)となりました。

その後、現行の道路法により二級国道129号東京環状線(昭和28年、1953年)へ格上げ、法改正で現在は国道16号線(昭和40年、1965年)です。

面白いことに16号バイパスの工事が進むにつれて、上江橋より東の旧16号は順次県道へ格下げされ、現在は県道2号線です。

 

次いで、明治18年(1885年)に上尾県道開通により、北側が分断して干拓されてしまいます。

 

一体、伊佐沼はどんな形をしていたのでしょうか?

地図上で昔、川だったところなんかは、境界線に出ていたり地名が違ってたりするんですよね。

航空写真などで見てみると、田圃の方向やカタチが微妙に異なることがあります。

こんなところから、昔の伊佐沼を想像してみたいです。

 

まずは地名に何か手掛かりはないか?現在の地図を苦労して地区別に色分けしました。

広い面積の大字の中に小さな「東明寺」、飛び地「寺井」「川越」なんかがあります。

こうした土地の由来を調べても面白いのでしょうね。

「地理院タイル」より加工 https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

前回の記事で、昭和9年まで大字伊佐沼の北端部は沼であったことを紹介済み。

19世紀前半「新編武蔵風土紀行」の頃は、伊佐沼北端は北田島の東に接していたそうです。

そうとなると、大字「東明寺」「寺井」「川越」あたりに沼の名残かあるかも知れないですね。

伊佐沼南端は大字古谷上の地内なので、道や水路、集落から見当を付ける他なさそう。

 

さらに明治初期の迅速測図から、水路部分をトレースしたものを作ってみました。

一見して分かるのは、上尾県道の北側、現在の大字寺井の辺りに水路が多いことです。

どう見ても農業用水ではなさそうですね。

この辺りは地下水位が低く、当時は半湿田のような状況で稲、作物の生育が芳しくなかったようです。

沼を埋め立てたところは、さらに田の状態が悪いと思いますので、排水路でないでしょうか?

集落も無く、水路が密集している辺りが、干拓地だったとしても不思議ではなさそうです。

南側は地図上では判別がつきにくいですが、集落の無い道や水路で囲まれた範囲なのでしょうか?

 

今度は航空写真を見てみます。土地改良法施工前の写真です。

上尾県道をはさんで北側の部分です。昭和21年3月の写真。

地名は現代の呼称です。寺井の辺りは水路?が入り組んでいます。

「地理院(単写真)」より加工 https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

次は南側です。大宮県道を境に田圃の方向が変わっています。

「地理院(単写真)」より加工 https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

以上、大字の位置関係、隣接、県道で分断されること、水路や道路に沿って沼のカタチを想像してみました。

北部は民家を避けながら、大字寺井まで伸ばして、水路みたいなのが沼に収まるようにしました。

南部はかなりいい加減な想像ですが、水路や道路沿いに大宮県道の先まで広げてみました。

条件を満たすようにしましたが、長さを図ってみたら2500mくらいになってしまい都合が悪いです。

「地理院(単写真)」より加工 https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

「新編武蔵風土紀行」では長さ17町(1900m)ということなので、修正してみます。

南側は伊佐沼と大宮県道の距離が長いので、どの辺が埋め立てられたかはっきりしません。

干拓するにしても、仕切る場所は県道ではなさそうです。

逆に北側は湿地みたいなところが多くて、昔の沼に含めたい場所が多いです。

南側(大宮県道)の干拓が無ければ、長さはいい線なんですが・・・。

「地理院(単写真)」より加工 https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

「芳野村郷土史考」では、往古は古谷村の八ツ島まで沼沢地とあるので、

もっと広い範囲が沼であったと考えられます。

勝手に想像してみましたが、元々は入間川だったのかもしれませんね。

 

写真を加工して検討するのは、えらく大変ですが、やってみると面白いものです。

でも、根拠の乏しい想像上のお遊びなので、学術的価値は全くありませんよ。

こんないい加減な図を偉い先生に見せたって、笑われるのがオチですね。

 

結局、第2回目もダラダラ図ばかり作ってしまいました。

伊佐沼の画像については、また次回といたします。

記事作成、特に画像加工の労力が大きいため、散歩シリーズ昨日はお休みしました。

久しぶりに花の画像、それも家で撮った雑草でしたがいかがでした?

日曜日を使って記事を作りましたが、次の更新も時間がかかるかも知れません。

労力の割に人気は全くないですが、楽しみながら頑張ってまいります。

次回もどうぞよろしくお願いいたします。


伊佐沼散歩❶昔は広かった?

2020-06-28 07:55:55 | 探求散歩

冬の迷走散歩もひと段落着きました。

ただ歩きながら撮った、花と違って枯草ばかりの河原の画像ばかりで恐縮です。

 

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人気ないです。更新ブランクもあるせいか、圧倒的に閲覧が無く、仕方ないと思っています。

でも今回から「探求散歩」と称して、少しひねった内容を作っていきたいですね。

ローカルな記事ですが、お付き合いいただければ幸いです。

後記:荒川右岸用排水土地改良区誌(昭和57年)を読むことが出来たので、若干の補足をしました。

   あらためて、まとめたことを詳しくご紹介できればと思っております。

 

埼玉県川越市の伊佐沼、自然沼としては、印旛沼に次いで関東で2番目に大きいそうです。

伊佐沼の歴史は古く、14世紀中頃に自然沼を清浄化し、溜池利用したと言われています。

名前の由来は、沼を整備した伊佐氏に因むとか「漁(いさり)沼」から等の説があります。

 

伊佐沼の近所に住んでいるのですが、2月に風が強すぎて花撮影を諦め、伊佐沼代用水路を歩いて来ました。

迷走散歩❶伊佐沼の水はどこから - 小さな花の輝く世界

迷走散歩❷水路を見失って・・・ - 小さな花の輝く世界

 

目指した伊佐沼の水源を見つけられず、帰ってから伊佐沼の水路について調べていると

偶然みた昔の地図では、沼のカタチが違うことに気付きました。

「今昔マップ on the web」より加工 今昔マップ on the web

「地理院タイル」より加工 https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

昔は「薬師神社」から「伊佐沼農産物直売所」間の道路が無かったみたい。

何で形が変わってしまったのか?早速、ネットで検索しました(ウィキペディア)。

戦前までは現在の倍の広さがあったが、食糧増産のため干拓が行われ、面積が減少したとのこと。

 

古い伊佐沼はどんな感じだったのだろう?

写真が見たくて「伊佐沼、干拓、昔etc」のワードで検索しましたが、最近の画像ばかり。

地図上で何か手掛かりはないかと「国土地理院HP」を見ると航空写真がありました。

少々不鮮明ですが、対米戦前の昭和16年4月11日、陸軍撮影の写真です。

戦前は「太平洋戦争」前の事を指すと思うので、きっと広い伊佐沼が・・・って、もう埋め立ててあるよ。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

伊佐沼に関する解説ページやブログ等では、伊佐沼干拓の時期を戦後、第2次大戦、太平洋戦争としています。

さらに地図上では、国土地理院1/50000地形図において、伊佐沼は昭和27年発行分まで干拓前の姿でした。

こんなところから、戦中、もしくは戦後、埋め立てられたと勘違いしたのでしょうか?

でも、航空写真を見る限りでは、2次大戦(昭和14年~)、大東亜戦役(昭和12年~)かもっと前。

では、いつ頃干拓されたのでしょうか?

 

大正後半から昭和初期にかけて、伊佐沼を取り巻く環境はかなり変わっております。

・荒川上流部改修工事(大正9年工事開始~):含入間川、大正7年から用地買収・測量、完成昭和29年。

・新河岸川河川改修工事(大正9年~昭和5年)

・新河岸川通船停止の県令(昭和6年)

・伊佐沼代用水路新設(昭和9年)

・仙波河岸跡から新河岸川開削。赤間川と合流(昭和9年?)

 

赤間川と新河岸川が繋がった年を記載している公的な文献は、記事作成までに探しきれませんでした。

個人ブログでは、昭和6年と9年と13年と説が分かれておりました。

❶昭和6年だと伊佐沼代用水路が出来ていない。水源はどうなるのか?通船禁止令が11月なので無理そう。

❷昭和9年だと辻褄が合うような気がする。ただ、旧赤間川へ水を流す田谷堰はない。

❸昭和13年だと4年前に伊佐沼代用水路が完成しています。赤間川が増水すると伊佐沼が溢水したと記録あり、繋ぎ変えの一因となっており、水源が2つあるのは不自然。

(後記:川越市の資料では、昭和12年着工、昭和13年完成とありました。伊佐沼代用水路も着工が昭和9年で、完成はずっと後のようです)

嶋田勝郎氏の「赤間川物語」でも昭和13年新水路開削とあります。この時期が正しいようですね。

※赤間川については別途、たどってみたいと思います。

(旧赤間川は全22回のシリーズ記事になりました。初回と最終回のリンクを載せておきます。)

赤間川散歩❶いきなり頓挫 - 小さな花の輝く世界

赤間川散歩🈡エピローグ - 小さな花の輝く世界

 

話は逸れましたが、伊佐沼を干拓するには最初に水源を無くし、沼を干す必要があると思います。

元々の水源の赤間川を新河岸川に繋げて、伊佐沼と縁切すると都合良いですね。

また、干拓地に水路を引かねばならないので、伊佐沼代用水路も干拓と並行して工事した方が、理にかなっている。

広い面積を埋め立てるには多くの土砂が必要。近くで工事があれば残土の捨て場になり一石二鳥。

昭和9年頃は、伊佐沼代用水路新設のほかに荒川河川改修工事もあるので、融通が利くのでは?

でも、稲作に影響が出ないよう、昭和9~10年の冬の農閑期に一気に工事するのが妥当と思います。

以上は、土木について知識のない自分が、素人考えに推測したことです。事実ではありません。

 

これを踏まえて、何か手掛かりはないか探していたら、古い広報川越に記載がありました。

荒川右岸用排水土地改良区の元事務局長さんのインタビュー記事です。

伊佐沼の干拓は昭和9年に始まったとのこと。自分の推測はおおむね正しいようです。

(後記:上記の局長さんが編者の「荒川右岸土地改良区誌」においては、11年には完成とありました。

詳細な資料が火事で焼失したということで、不明な点の多い工事のようです。)

昭和13年干拓完成という説もありますが、「荒川右岸土地改良区誌」では、昭和13~15年の耕地整理事業の予算決算書があるので、辻褄が合わないです。

伊佐沼は埋め立てられて、42ヘクタールの沼が28ヘクタールに減ったとのこと。

 

伊佐沼を干拓したのは、食糧増産以外にも理由があるようです。

明治14年の迅速測図に描かれている伊佐沼です。

これに昭和初期の地形図の伊佐沼のシルエットを重ねてみます。

多少の測量誤差はあるでしょうが、40年位の間に小さくなっているようです。

だんだんと沼の底に泥が堆積しているみたいです。

そのため農業用水に使用不可とのことで「伊佐沼不要論」が挙がってきました。

県の計画では、沼すべてが干拓される可能性もあったということです。

「荒川右岸土地改良区誌」では、最初に半分埋め立てて、様子を見て全廃と書いてあります。

(後記:伊佐沼代用水路とは、赤間川の代わりの水源ではなく、伊佐沼の代わりの水路という意味のようです)

 

実際のところは、薬師神社から北の部分が田圃になり、現在の伊佐沼の原型となっています。

赤間川から水と一緒に泥が流れ込む、入口の北側部は、浅くなって埋めてしまったのでしょうね。

でも、沼として残った部分も泥で浅くなり、昭和43年に大規模な浚渫工事を実施しています。

 

結局、ネット検索では、干拓される前の伊佐沼の画像がありませんでした。

唯一、40年近く前の広報の片隅に、一葉だけ小さな画像を見つけたのみです。

博物館や図書館に行けば、もしかしたら見られるかもしれないです。

でも、ブログに掲載して皆さまに見ていただくことはできないでしょう。

 

そこで一計を案じました。ここから先が記事の主題です。

地元の方、ご覧になっていたら、こちらの場所お分かりになります?

文章を延々と書き連ねて長くなってしまいましたので、ここで一区切りします。

次回に続きを載せたいと思います。

表題として「もっと広かったかもしれない伊佐沼」「まぼろしの眺め」なんかを検討しています。

何分にも付け焼刃程度の知識しかないので、誤認の多い記事になるのはお許しください。

次回もどうぞよろしくお願いいたします。

 

よろしければ、この続編もご覧いただければ幸いです。

伊佐沼散歩❷さらに昔はもっと広かった? - 小さな花の輝く世界

伊佐沼散歩❸まぼろしの風景 - 小さな花の輝く世界

伊佐沼散歩🈡令和に甦る景色 - 小さな花の輝く世界


迷走散歩❻越辺川土手(最終回)

2020-06-26 12:55:55 | 探求散歩

花画像のブログとして続けてきたのですが、散歩編はいかがでしょうか?

ただ歩きながら写真を撮っただけなので、面白くないかもしれません。

冬の散歩編は今回で終わりにしたいと思います。

 

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今回は令和2年2月11日に撮影した土手の画像を特集します。

台風から約4ヶ月が過ぎましたが、土手はすぐに補修されたようです。

(後記)決壊から一年後の状態を撮影してきました。以下のリンク参照。

迷走散歩➐復興の土手 - 小さな花の輝く世界

台風の時の画像はGoogleで「越辺川決壊」と検索するとたくさん見つかります。

「国土交通省関東地方整備局ホームページ」からは災害時の動画を視聴できます。

https://www.ktr.mlit.go.jp/bousai/bousai00000218.html

https://www.ktr.mlit.go.jp/bousai/bousai00000214.html

 

落合橋から越辺川の右岸に入った時、石碑が立っているのを見かけました。

「原次郎先生治水彰功碑」と刻まれております。

武州ガスの創業者でもある原次郎氏が尽力し、河川改修工事が成し遂げられたそうです。

「国土交通省関東地方整備局ホームページ」に原次郎氏についての記載があります。

https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000670318.pdf

 

もともと、ここは入間、小畔、越辺の3河川が合流する場所で、洪水の常習地だそうです。

昭和29年に河川改修工事が完成するまでは、落合橋あたりで川が合流していたみたい。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

カラーは最近(2019年8月)のもの。モノクロは河川改修完成前(1946年3月)。

蛇行していた河川のカタチが、ストレートに変えられ、合流位置も変わりました。

いかに大工事か良く分かると思います。

 

河川改修により洪水の危険が少なくなりましたが、自然の力は恐ろしいもの。

昭和57年(1982年)と平成11年(1999年)にまたも水害が起きました。

こちらは「国土交通省関東地方整備局荒川上流河川事務所ホームページ」で画像が見られます。

https://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo00038.html

https://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo00039.html

大きな河川の支川は増水時に本川に水を流せず、逆流するという現象が起こったそうです。

そのため、大きな洪水被害を出した支川の大谷川に雨水ポンプ場が建設されました。

大雨時に水門を閉めて、越辺川からの逆流を防ぎ、大谷川の水はポンプで越辺川へ排出する仕組みです。

土手を削って水門を作った部分は、素人目に弱点のような気がして、決壊と聞いてここが崩れたと思いました。

でも、写真の通り決壊した部分(A-B)は、雨水ポンプ場より下流になりますね。

 

自然の力は侮りがたく、今回の令和元年10月12日の台風で、またも水害が発生してしまいました。

でも、越辺川の堤防は、台風通過から10日あまり経った令和元年10月24日に復旧しています。

「国土交通省関東地方整備局荒川上流河川事務所ホームページ」に記事があります。

https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000770539.pdf

 

以下、復旧した堤防の画像は、令和2年2月11日に撮影したものです。

新しい土手はコンクリートブロックで覆われ、土の部分が見えないです。

内側から撮影。消波ブロックが並べられています。

上流側から撮影。上面もコンクリートブロックで覆われているので、自転車は通れなさそう。

アスファルトの部分が残っています。決壊部分は70mですが、施工は110mに渡るそうです。

外側にもコンクリートブロックが敷き詰められています。

大きな消波ブロックですが、いちばん手前のモノ(左下隅)だけ隣のブロックに掛かっています。何故?

台風が来る前の堤防付近の状況です。

土手のそばの水たまりは、洪水の水を貯めてそのままなのでしょうか?

奥のヘリポートのフェンスが、水流で押し倒されたままの姿で残っていました。

土手の表面をシートとブロックで覆っているようです。他の部分もこの工法が採用されていくのでしょうか?

先の台風では、想像を超える被害が出ました。こんな災害が再び来ないことを祈ります。

おしまいに2月に撮ったシロバナタンポポです。

これで2月の迷走散歩は終わりです。

カメラを持ち歩くようになってから、散歩の主目的は花撮影でした。

でも、この散歩は花をほとんど撮らない初めてのパターンです。

何分にも川越に40年近く住んでいて、知らないことばかりなのが分かりました。

 

このあと暖かくなってから、水路の画像を撮りに出かけています。

次回から「探求散歩」として伊佐沼を特集の予定です。

歴史などネットで検索して調べていますが、不明な点も多いです。

これまでのブログに書かれていない情報を織り込めたらと思いますが、

花の記事に交えて、散歩の記事もどうぞよろしくお願いいたします。


迷走散歩❺落合橋周辺を再訪

2020-06-25 12:55:55 | 探求散歩

これまで花の画像をメインに3年ほど続けてまいりました。

武漢ウイルスが蔓延するようになってからは、花探しへ行く機会が減りました。

代わりに自粛による運動不足解消のため、10km以上を早足で歩くことをしています。

汗びっしょりになってしまうので、カメラは小さなコンパクトデジカメを持ち歩きます。

歩きながら撮った画像が「散歩シリーズ」のネタになるのですが、地元民でも興味を持つか否か・・・。

 

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風が強い2月の日曜、埼玉県川越市の伊佐沼を出発点に十数キロ歩きました。

目的は①伊佐沼の水源まで行くこと②越辺川の復旧状況を見ることでした。

結局、伊佐沼水源は見つからず、間違って入間川を歩きました。

目的を達成できなかったため、次の休みに越辺川に向かいました。

 

出発点は前回と同じ、落合橋の南詰め(❶)。

実は自宅からここまで、8.5kmあるんです。

自転車が無いので、徒歩で来るしかないのですが、もうかなりくたびれています。

 

落合橋は入間川、小畔川、越辺川を越えていきます。

前回は一番近い土手を歩いてしまいましたが、今回は慎重に川を確認しながら進みます。

今日は間違いなく越辺川の土手にたどり着きました(❷)。

今回の撮影地点は以下の通りです。地図は自由に拡大できます。

 

それでは上流へ向かいます(❷)。

今回は帰りも徒歩の予定。ざっと見て回って終わりにしたいところです。

徒歩距離20km前後に抑えたいところです。

 

さらに歩いていきます。白いところが復旧箇所でしょうか?(❸)

川はかなり向こうだけれど、ここは堤防スレスレまで水が上がったのですね。

木が倒れています。グランドも水没したと思いますが、復旧して練習しています。

 

さらに近づくとこんな感じです(❹)。多分ここが決壊した場所でしょう。

かなり広い範囲がコンクリートで固めてありました。通行はできないみたい。

堤防が壊れる前の画像になります。

 

ちょうど、決壊があった場所付近で、越辺川と小畔川の土手が分岐します。

グランドの砂ぼこりがひどいので、小畔川の方向に遡っていくことにしました。

小畔川の左岸土手から決壊場所方向を望む(❺)。

地図上の撮影地点は下の通りです。

 

この辺に福祉施設があるようですが、みんな水没したのでしょうね。

ここは寮のようです。結構あたらしい建物みたいに見えます(❻)。

復旧作業中なのか無人のようです。タンクのところに増水時に出来た線が見えます(赤矢印)。

 

小畔川土手を進むと冠水橋を確認(❼)。

昔はこんな風に、河川敷に下りてから渡る橋が多かったようです。

 

木で出来た橋ですね。看板には「鎌取橋」と書いてあります(❽)。

ちょっと増水すると、水に浸かって渡れなくなるので、冠水橋です。

地図上の撮影市は以下の通りです。地図は拡大・ドラッグ自由にできます。

 

小畔川の右岸を横切って、入間川の左岸へ。

途中こんな看板が(❾)。このあたりはヒガンバナの群生地みたいです。

家から遠くなければ、秋にまた来たいところですが・・・。

 

入間川の左岸土手に来ました。ここから落合橋へ戻ります。

ここから見た越辺川右岸の決壊地点(❿)。

かなり広い範囲で堤防が切れたみたいですね。本当に自然の力は恐ろしい。

たくさんの人が大変な思いをするので、こんな台風が来ないことを祈るばかりです。

 

落合橋が見えてきました(⓫)。今回はこれで帰ります。

1時間ばかりの散歩でしたが、さらに2時間歩いて帰ります。

 

とても寒くて、風の強い日でしたが、小畔川の土手には、菜の花が咲いていました。

でもこちらは、アブラナのほうではなくてカラシナ。カラシナは花が少し小ぶりです。茎の周りを葉っぱが巻いていたらアブラナ。

春は遠からじ。でも、このあと武漢ウィルス騒ぎが起こるなんて・・・。

自宅を出てから約5時間、21kmあまりの行程でした。

車を止められる場所があれば、ときどき来たいと思います。

今回も長くなってしまったので、ここで一区切り。

堤防の復旧場所画像が幾らかありますので、次回にまとめて載せます。

冬場の迷走散歩もあと1回で終わりです。

どうぞよろしくお願いいたします。


迷走散歩❹疲れて電車で帰宅

2020-06-24 12:55:55 | 探求散歩

花探しへ出かけていないため、しばらく「散歩」シリーズです。

やっと冬場の散歩について、半分まで紹介できました。

全くのローカルネタですが、どうかお付き合いください。

 

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今年2月のことですが、ふとした思い付きで水路を辿ってみました。

まずは近所の伊佐沼の水がどこから来ているか?を調べたのですが目的を果たせずじまい。

気がつけば、歩いて出かけることのないような場所まで来てしまいました。

折角なので、川の土手に上がって台風の復旧状況(堤防決壊)を見に行こう!と歩き出したのですが・・・。

前回の記事もご参照ください。

迷走散歩❸入間川土手に迷い込む - 小さな花の輝く世界

 

川越市のはずれ「落合橋」のところから出発して、前回は「雁見橋」を越えたあたりで終わりました。

今回は、地図マーカー❾から再開します。地図は自由に拡大、ドラッグできます。

何の事前調査もしていないので、橋の名前すら分かりませんが、ここは看板がありました(❾)。

川越橋だそうです。平成2年に出来た橋だそうです。その前は昭和31年完成の冠水橋みたい。

もし、冠水橋で増水したらどんな感じになるのでしょうね?川越橋の河川敷はキレイに片付いていました。

自宅を出て10km以上は歩いています。かなりくたびれました。

川越橋の上流には、電車の鉄橋が見えてきます(❿)。

なんか、行きたかった方向と全く違うような気がする・・・。

落合橋から歩いて来たのは、昨年の台風19号の復旧状況を見たかったからです。

特に堤防が決壊したところがどうなったか?知りたかったのですが・・・。

確か坂戸市との境目のはずですが・・・。東上線鉄橋とは・・・全く方向が。

それもそのはず、歩いてきた川の名前を知りました(⓫)。

自分は落合橋から「入間川」に沿って5km歩いて来たのです。

自分が歩いているはずだと思ったのは「越辺川」。方向音痴も極まれり。

鉄橋のところは行き止まりになっていました(同じく⓫)。

どっと疲れが出てしまいました。先に進むか?戻るか?

引き返したら往復30kmコース。よく歩いていた10年前でも30km超えはくたびれました。

あまり体が丈夫でないので、1回のウォーキングは20km以内に抑えたいところ。

トラスにも入間川ってしっかり書いてありますね(同じく⓫)。

もう歩きたくないので、電車かバス、最悪タクシーで帰ることにしました。

高校生の時、電車に乗って毎日ここを通りました。いちばん近い駅は「霞が関」か「川越市」か?

とりあえず道路に出たいので、鉄橋の下へ(⓬)。川の水はそこそこ透明でした。

地図見るとこんな感じです。埼玉県道15号川越日高線が近いと思っていました。

自宅の最寄り駅は「南古谷」なので、けっこう遠くへ来ましたね。

東上線の鉄橋の上流にはJR川越線の橋梁もあります(⓭)。

JRなら向こう岸に渡らなくても、近くに「西川越」の駅があったはず。

昔は電車では無く、気動車でした。橋脚の架線柱も後付けって感じがします。

この辺りも台風で流れて来たガレキが、キレイに片付いていますね。

橋が近づいてきました。おそらく「初雁橋」でしょう(⓮)。

埼玉県道15号川越日高線に出れば「西川越」の駅が近いはず。

今までここは車でしか通ったことが無かったです。

右下に水位を示すゲージがありますが、根元のところに枯草が。

このスケールのどこまで水が上がったのでしょうか?

初雁橋を越えると川越水上公園に入ります。

木の何本かが倒れていますね。ここでも台風の影響が残っていました(⓯)。

このあと、川越水上公園で少し休憩してから、西川越の駅に行きました。

電車に乗って帰りましたが、歩いた距離は17.8km、歩数は23450歩でした。

徒歩で帰ったらもう十キロ、2時間半は要したと思います。

散歩に出かけてみたけれど、この日は目的を達せぬまま帰りました。

このまま終わるのも悔しいので、次の休日2月11日(紀元節)に再度、散歩に行くことに決めました。

次回はこの時撮った画像をご紹介します。どうぞよろしくお願いいたします。