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小さな花の輝く世界

小さな植物や花の知られざる輝きをご紹介いたします。くわゐ(匙太sagittaria)です。お間違えなきよう

赤間川散歩🈡エピローグ

2020-09-30 00:05:55 | 探求散歩

「旧赤間川」を下流から遡ってきましたが、やっとゴールの田谷堰に到着しました。

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「探求散歩」ということで、従来ネット検索でヒットしない事柄を中心に記載してきました。

この先、「旧赤間川」に興味を持った方、更に探求されたい方の道標になれば幸いです。

最終回ということで、新たに判明したこと、これまでの記事のまとめを記載いたします。

 

(1)「旧赤間川」の流れについて

「旧赤間川」の流れは以下の通りです。青が現在まで残っている川すじ、赤がむかし川だったところです。

ネット上の「旧赤間川」流路は錯誤が多いです。今回、航空写真に基づいた正確なものを初出します。

なお、「御成都市下水路」に沿って流れる側溝も「旧赤間川」に含めました。

カッコ内は、古い明治頃の耕地字名です。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

次に「旧赤間川」の流れの変化についてです。

❶昭和初期以前 

「新河岸川」と繋がるまで、「赤間川」は伊佐沼の水源でした。

後の「田谷堰」の辺りで、「二丁町用水」「宮下用水」へ分岐していました。

 

 

❷昭和13年(1938年)以降

「新河岸川」と繋げられ、「伊佐沼代用水路」の掘削により、「赤間川」は伊佐沼と縁が切れます。

「旧赤間川」は、現「四ツ谷橋」のたもとで、「鴨田排水支川」に合流して、最後は「九十川」へ注ぎます。

「鴨田排水支川」が「御成都市下水路」となってからは、伊佐沼の手前で合流しています(平成3年、1991年)。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

「新河岸川」との接続による、農業用水の減少対策のため、「田谷堰」が作られました。

これまで「圦」「堰」により水を引いてきた各用水は、「田谷堰」を締切って「樋管」から導水します。

昭和30年前半の田谷堰の様子です。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

これを境に、「田谷堰」から「伊佐沼」までを「旧赤間川」、新しい川すじは「新赤間川」と呼ばれるようになりました。

「田谷堰」あたりが「新河岸川」と呼ばれるようになるのは、一級河川になってからです(1978年)。

 

❸戦後、農地整理以降

現在の川越バイパス(国道254号線)辺りから北田島南端にかけて、「旧赤間川」は田園の中を流れています。

今は1kmにわたり、直線の用水路が続いていますが、昔は所々屈曲した川すじでした。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

昭和28、29年(1953,4年)、川越北部土地改良区の耕地整理が行われています。

この時、東耕地の「旧赤間川」も埋め立てられ、直線の用水路になってしまいました。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

❹田谷堰周辺の「旧赤間川」の流れ

「田谷用水樋管」から蛇行して、現在の「宮元町公園」「食品流通センター」へ流れて来ます。

農業用水の転換とともに、水路は埋め立てられ、現在は住宅地になっている場所もあります。

河川法の縛りがあるせいか、今でも蛇行した「旧赤間川」の跡がハッキリわかりますね。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

 

(2)「旧赤間川」に架かる橋

川が埋め立てられてしまい、無くなった橋もあるようですが、現在は8箇所ありました。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

「田谷橋」「田谷用水樋管」側から

1.樋(橋と言えるか分かりませんが・・・)

2.不明(川越バイパスに架かっている名無し橋)

3.合併橋

4.赤間川橋

5.第二合併橋

6.第三再建橋(道路台帳ではこういう名前)

7.伊佐沼橋(銘板が無い名無し橋、道路台帳から)

8.第160号橋(旧赤間川と御成都市下水路を跨ぐ)

このほかに個人宅に架かる通路橋もありますが、こちらは除外しました。

 

これまで未掲載だった「第160号橋」です。

「旧赤間川(側溝)」「御成都市下水路」を跨ぐ橋です。フェンスを挟んで「伊佐沼代用水路」に架かっているのが「第161号橋」です。

 

 

(3)「二丁町用水」について

昔は「田谷堰」にある「二丁町用水樋管」から農業用水を引いていました。

「二丁町」は東耕地側の「旧赤間川」の左岸(北側)の部分です。

明治大正期の資料には「貮町畦(ニチョウマチ)」「貮丁町」と表記されていました。

「二丁目」という記載は、全く無いので混同しないよう注意ください。

食品流通センター沿いにある側溝が、「二丁町用水」の名残です。

「二丁町用水」のかつての流路はこんな感じです。現在は川から灌漑していません。

また道路台帳上に、現在は存在しない「圦橋」の表示がありました。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

二丁町用水の「樋」には穴が開けられており、用水としては使用不可能な状態です。

 

 

(4)「宮下用水」について

同じく「田谷堰」の「宮下用水樋管」から水を引き入れていました。

「宮下用水」と言っても、右岸の宮下町の農業用水ではなく、耕地字の「宮下畦(宮元町、氷川町あたり)」の用水でした。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

「宮下用水」のかつての流路はこんな感じです。

宮下畦、寺井溝畦と城下畦の一部に灌漑しています(カッコ内が現在の地名)。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

現在は水路も変わっていますが、「新河岸川」からポンプで水を汲み上げて、近くの農地を灌漑しています。

なんと「二丁町用水樋管」のところから、取水用のパイプを川に沈めて汲み上げているようです。

昭和末期の汚濁から一転、「新河岸川」がキレイになった証拠ですね。

今も「宮下用水」は「新河岸川」沿いに側溝が伸びています。

 

 

(5)その他、補足・落穂拾い

❶伊佐沼堰のアーチの穴

伊佐沼堰の3連アーチの各頂部に、斜めに傾いた鉄製のパイプが付いていました。

これがパイプ部分、斜めに傾いています。

地衣類のツブダイダイゴケがいっぱい。

ツブダイダイゴケについては、以下のリンクを参照ください。

❸地衣類の不思議なカタチ - 小さな花の輝く世界

 

先日、下から覗きに行ってきましたよ。

穴の中は、詰まっているみたい。上から覗いたら石がいっぱい。

ネジ山があるようには見えなかったです。

下から見ると、鉄製のパイプは裏側まで貫通していました。

カタツムリがいっぱい張り付いていました。

貫通したパイプの延長線は、ちょうど堰板(角落とし)のハマる溝の上です。

堰板にロープでも付けて、上下させていたのでしょうか?

飾りでこんなアーチを作るわけ無いので、堰板の操作に関連している気がします。

アーチ上の斜めパイプ用途について、自分が勝手に考えた想像図です。

❶堰板にロープを付けて、アーチの穴にも通します。余った部分は巻いておきます。

❷田圃の中干しなどで、水を抜くときはロープを引く(抜けるまで少し引いて結んでおく)。

❸堰板を引き上げた状態で、ロープを結んで次に下すときまで巻いておく。

シーズンが終わったら堰板を取り外すか、溝から引き抜いて立て掛けておくのでは?

所詮は想像の域を出ません・・・。

 

❷「赤間川」「新赤間川」「旧赤間川」「新河岸川」どれが正しいの?

「田谷堰」の下流にある「杉下橋」には「新河岸川」の表記。

「新琵琶橋」には「赤間川」の銘板が有ります。

 

「新赤間川」や「新河岸川」には、あまり興味が無いので詳しく調べていません。

もともと狭山市の取水口から伊佐沼までが「赤間川」のはずです。

「新河岸川」は「仙波河岸」があった辺りから下流ではないでしょうか?

新しい水路を掘削し、昭和13年(1938年)に「新河岸川」と「赤間川」が繋がりました。

新水路は「赤間川」の水が流れていますから「赤間川」、もしくは古い川すじ「旧赤間川」と区別して「新赤間川」と呼んでいたようです。

 

「新赤間川が上流の上野田まで遡って、一級河川となるに及んで(後略)」と「赤間川物語」に記載がありますが、

昭和53年(1978年)に上野田の「新河岸川起点石標」から下流が、一級河川「新河岸川」になりました。

 

「新河岸川起点標石」から下流にある橋梁ですが、昭和53年以前に建設、架け替えられたものは「赤間川」「新赤間川」の表記。

これ以降に建築された橋には「新河岸川」の銘板が有るのではないでしょうか?

改修時に古い銘板をそのまま使う、ということもあるので、この先も川の名前がバラバラかもしれませんね。

(昭和53年は文献からではなく、ネット検索なので、確度が高いとは言えません・・・)

 

 

❸「田谷堰」あたりの水はキレイになったのか?

現在はこんな看板が立っています。

この川は、高度成長期から昭和末期にかけて、酷く汚れていたそうです。

「広報川越」を見ると、「新河岸川」のBOD(生化学的酸素要求量)は、測定が始まった昭和48年(1973年)で、34.2㎎/l。

10㎎/l以上では、魚が住めないと言いますから、けっこうな汚れです。

これ以降、10㎎/lで横ばいとなりますが、昭和50年代後半は、15~20㎎/lと高くなります。

下流部で合流する「不老川」は、この頃90㎎/l超なので、まだ良い方なのでしょうが・・・。

 

流域の急激な人口増加と下水道普及の遅れが、水質汚濁の原因と思われます。

昭和48年の川越市の下水道普及率は37.5%(全国19.5%)だそうです。

 

平成に入り、下水道が整備(平成2年で60.4%)され、少しずつ改善(同BOD6.5㎎/l)していきます。

平成30年の下水道普及率は86.1%、「新河岸川(坂下橋)」のBODは2.3㎎/lとなっています。

BOD3㎎/l以下だと、アユの生育にも適するくらいの水質だそうです。

下は今から60年以上前のポスターです。この頃の川は、もっとキレイだったのか?

 

 

❹「旧赤間川」のトピックのおさらい

おしまいに、21回かけて辿った「旧赤間川」のトピックを載せておきます。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

第1回:御成都市下水路の測溝、鴨田排水との合流点、九十川へ合流

赤間川散歩❶いきなり頓挫 - 小さな花の輝く世界

 

第2回:鴨田排水支川との合流点(過去)、鴨田排水の伏せ越し(立体交差)

赤間川散歩❷縁はいつ切れたの? - 小さな花の輝く世界

 

第3回:伊佐沼入口バス停、上尾県道のルート変更地点、名無し橋

赤間川散歩❸昔は県道も川沿いに - 小さな花の輝く世界

 

第4回:再建橋、芳野用水の排水口、伊佐沼堰の堰板とアーチの上の鉄管

赤間川散歩❹伊佐沼堰は死なず - 小さな花の輝く世界

 

第5回:第二合併橋の欄干、合併橋のガードレール、明治期の芳野村と川越町の合併騒動

赤間川散歩❺合併橋と市制問題 - 小さな花の輝く世界

 

第6回:旧赤間川が蓋付きの側溝となる

赤間川散歩❻川が消えた - 小さな花の輝く世界

 

第7回:赤間川橋と県道のルート変更、「赤間川物語」中の「青橋」はどこなのか?

赤間川散歩❼青橋ってどこ? - 小さな花の輝く世界

 

第8回:耕地整理により変えられた川すじ、航空写真に残る川の跡

赤間川散歩❽失われた川の記憶 - 小さな花の輝く世界

 

第9回:耕地整理で痕跡すらない(北)田島堰と北田島用水について

赤間川散歩❾北田島堰をしのぶ - 小さな花の輝く世界

 

第10回:埋め立てられて無い、曲目(マゴメ)の一本橋、捨て場の位置を考える

赤間川散歩❿曲目(マゴメ) - 小さな花の輝く世界

 

第11回:川越バイパス(国道254号線)に架かる名無しの橋

赤間川散歩⓫名無しの橋 - 小さな花の輝く世界

 

第12回:旧赤間川と立体交差する二丁町用水の樋(とい)

赤間川散歩⓬地名は樋(とい) - 小さな花の輝く世界

 

第13回:樋に開けられた穴、二丁町用水下流とポンプ小屋

赤間川散歩⓭二丁町用水くだり - 小さな花の輝く世界

 

第14回:二丁町用水を田谷堰まで遡る

赤間川散歩⓮草むす二丁町用水 - 小さな花の輝く世界

 

第15回:道路台帳に載っていた「圦橋」を推定、二丁町用水樋管の謎の塩ビ管

赤間川散歩⓯圦橋とは? - 小さな花の輝く世界

 

第16回:二丁町用水樋管の塩ビ管とポンプ小屋と宮下用水の関係

赤間川散歩⓰宮下用水 - 小さな花の輝く世界

 

第17回:今残っている旧赤間川の最上流地点

赤間川散歩⓱ついに途絶える - 小さな花の輝く世界

 

第18回:埋め立てられた川と水車小屋の場所を推定する

赤間川散歩⓲消えた川と水口水車 - 小さな花の輝く世界

 

第19回:宮元町公園は旧赤間川の跡地、舗装されない旧河道

赤間川散歩⓳川の名残の公園 - 小さな花の輝く世界

 

第20回:宮元町児童遊園の地下には雨水貯留施設があるようだ

赤間川散歩⓴地下に隠された秘密 - 小さな花の輝く世界

 

第21回:川越市下水道竣功記念碑、下水道の樋門らしき場所、田谷堰の各樋門

赤間川散歩㉑下水道竣功記念碑 - 小さな花の輝く世界

 

最終回:川のルートや橋などまとめ、補足追加(この記事)

 

この先、新しく判明したことの記載、間違いの訂正などあったら、各記事に書き足してまいります。

約二か月以上にわたって続けてまいりましたが、やっと終わりになります。

見ていただいた方、どうも有難うございました。

さいごに「田谷堰」のゲートを下ろした想像図です。昔はこんな感じで、用水を送っていたのでしょうね。

ひと区切りとなりましたが、次回のテーマはまだ決まっておりません。

最近は閲覧者もいないので、しばらくお休みしようと思います。

 

いつか「旧赤間川」に興味を持った方の、さらなる探求のために拙稿がお役に立てたら幸いです。

(2020年8月31日)

記事や写真の引用転載は、どうかしないでください。


赤間川散歩㉑下水道竣功記念碑

2020-09-26 00:05:55 | 探求散歩

テーマを決めて細かく調べながら歩く「探求散歩」です。

最新シリーズの「旧赤間川」は、トピックが多くてなかなか終点まで行けません。

これまで何度も、もうすぐ終わりと書き込みましたが、既に21回目。

数字の21も㉑しか変換で出てきませんでした。

 

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今回の撮影地点になります。ついに「田谷用水樋管」へ到着しました。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

もう「田谷用水樋管」の水門は、道路の向こう側。今回のスタート地点は、「宮元町児童遊園」からです。

多くの地図でこの場所は、単に”公園”としか書かれていませんが、正式な名前は「宮元町児童遊園」です。

道路(新河岸川)寄りに記念碑が建っております(❶)。

柵の感じが変。数本の石柱が間引かれて、脇に無残に放置されています。

電柱の支線(黄色いポール)を張るため、敷地を狭められたようです。

これは「川越市下水道竣功記念碑」らしいです(❷)。

「本市ハ従来 下水道ノ設備 完全ナラズシテ 市民ハ 雨水汚水ノ 排泄湛水二 悩ムコト久シ

 於茲 市会ハ 昭和五年六月 下水道法ニ依リ 完全下水道敷設ヲ議決シ 同七年三月起工

 総工費六十九万余円ヲ費シテ 同十三年五月竣功ス 

 其ノ地域ハ 全市ニ亘リ 面積三百十九ヘクタールニ及べリ

 昭和十三年五月三十日 川越市長 橋本定五郎」

 裏にはこう記されております(一部漢字を易しく書き直しています)。

橋本定五郎氏は、第6代川越市長で川越脳病院(川越同仁会病院)の開設者だそうです。

この碑は、再建されたモノらしく、もうひとつ石板が付いていました(❸)。

昭和59年(1984年)3月、河合喜一氏(第20~23代市長)の時に直されたようです。

 

川越の市街地というと、私には新河岸川の右岸(川で囲まれる)側というイメージがあります。

だから、この記念碑はもともと右岸側にあったのでは?と思いました。

この碑が修復される昭和59年(1984年)以前の画像を探してみました。

航空写真なのに結構ハッキリと、記念碑らしきものが写っていました。

昭和13年の建立以来、ほとんど同じ位置にあるようです。

「田谷用水(旧赤間川)」が役目を終えて、水路を整地した際に修復したようですね。

雨水貯留施設を建設するときに、少し移動した可能性もあります。

ただ、昭和初期の下水道計画で、新河岸川の左岸側まで下水管が敷設されたという裏付けは、取れませんでした。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

川越市の下水道の歴史は古く、最初に計画されたのは大正13年(1924年)です。

そして、大正15年(1926年)には、工事が行われております。

「広報川越」をみると、大工町と志義町界隈の下水を赤間川に導くものだったそうです。

昔、便所は汲み取りで、農地の肥料になっていたので、下水と言えば生活排水と雨水でした。

昭和末期の汚染度と比べれば、この当時はドブを川に流しても、問題にならなかったようです。

 

この記念碑に刻まれている下水道工事により、旧市街地の大部分が網羅されたとのこと。

しかし、終末処理場の施設まで及ばなかったのは、し尿が肥料として利用されたためでしょう。

昭和30年代になって、下肥から化学肥料へ転換が進み、一気に深刻な問題になったようです。

 

昭和35年の「川越市政だより」によると、8本の下水放流口から「赤間川(新河岸川)」へ流されていたそうです。

先日、「新河岸川」沿いを歩いていたら、古い水門を見つけました(❹)。

 

今回の撮影地点です。➍~➐と⓭は、「田谷堰」から離れたところの画像です。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

道を隔てて水路がありますが、5mほどで埋め立てられて無くなっています(❺)。

草ボーボーで、対岸からはうまく画像が撮れませんが、かなり古そうな水門(❻)。

田谷用水樋管などのゲートと形が似ています。同時期くらいの完成でしょうか?

この場所は堰の下で、緩い坂の下にあります。たぶん排水口ですね(❼)。

もしかしたら、昭和初期に作られた下水道の放出口のひとつかもしれません。

調べていないので、確証は全くありませんが・・・。

古い航空写真と比べてみます。

昔は水路のようですが、途中で切れているようにも見えます。

下水管と接続していたのでしょうか?

終戦時まもない画像にも、この水路があるようなので、下水路の可能性も高いです。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

川越市の上水道が完成するのは、昭和29年(1954年)からですが、

水道が出来て排水が増え、都市化が進み、下水を自然放流している川は汚れてきました。

さらに、し尿の農業利用が激減すると、終末処理場建設の要望が高まります。

川越市の下水道は、昭和36年(1961年)に下水道課が新設。

昭和37年(1962年)から、使用料が徴収され、終末処理場の建設が進んでいきます。

昭和39年(1964年)から、順次水洗化が始まり、50余年後の現在は85%超の普及率です。

 

今回の撮影地点になります。⓭の「道灌橋」は「田谷堰」の上流に当たります。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

紆余曲折ありましたが、やっと「田谷用水樋管」に到着しました(❽)。

このゲートだけ表示板が金属なのは、もと「旧赤間川」の本流だからでしょうか?

また、ゲートもウォームギヤでハンドルを回す方式です(❾)。

他の二つは、弁棒に直接ハンドルが付いているタイプです。

右側に階段が見えますね。

対岸から「田谷用水樋管」を見てみました。階段は清掃作業用のモノみたいですね(❿)。

ゲートは下りた状態になっているようですが、堰板は朽ち果てて無くなっています。

樋管の中はガレキが入っており、草が生えています。奥は埋められているみたい。

目の前の「田谷橋貯留施設」と繋がっていることもないでしょう。

 

「田谷堰」にある三つある樋管を比べてみました(⓫)。

水面から樋管までの高さに微妙に差があります。

一番下流の「宮下用水樋管」の位置は高く、上流の「田谷用水樋管」は水面すれすれでした。

高さを変えることで、平等に水の分配が出来たのでしょうか?

 

「田谷堰」と「田谷用水(旧赤間川)」「二丁町用水」「宮下用水」の各樋管です(⓬)。

名物のポプラ並木は、残念ながら数年前に伐採されたようですね。

「赤間川物語」によると、上流の「道灌橋」(⓭)から、この辺りまでの川の右岸を「田谷」と呼んだそうです。

その地先にあるので、「田谷堰」「田谷橋」「田谷用水」の名がつけられたようです。

 

やっと「旧赤間川」の最上流まで到達できました。

一番最後まで「下水道完成記念碑」のような、本題から外れた話ばかりしてきましたが、やっと終わりました。

「田谷堰」についての説明や画像は、他のサイトでもたくさんありますので、割愛する予定でした。

でも、チョットしたまとめ、後から分かった事について、もう1回分記事を書きたいので、「田谷堰」の画像も次回に紹介いたします。

次が本当の「最終回」になります。どうぞよろしくお願いいたします。


迷走散歩➐復興の土手

2020-09-23 00:05:55 | 探求散歩

今回は「探求散歩」特別編です。

現在アップしている「探求散歩」の「旧赤間川」編の記事は、8月末に出来上がりました。

この先、続けるべきか悩んでいますが、休日は興味を持てそうなモノが無いか、歩き回っています。

シルバーウィークに「落合橋」の傍まで来たので、「越辺川」の土手まで行ってみました。

すっかり変わっていたので驚きです。今回は復興した土手を紹介します。

 

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もうすぐ一年になりますが、令和元年の台風19号により「越辺川」下流の土手が決壊してしまいました。

被害状況(動画)は「国土交通省関東地方整備局」のHPから見られます。

https://www.ktr.mlit.go.jp/bousai/bousai00000214.html

同じく「国土交通省関東地方整備局」の土手の復旧についてのリンクです(PDF)。

https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000770539.pdf

 

今年の2月に当地を訪れた時は、緊急復旧工事後の状態でした。

関連バックナンバーはこちら

迷走散歩❺落合橋周辺を再訪 - 小さな花の輝く世界

迷走散歩❻越辺川土手(最終回) - 小さな花の輝く世界

今回は、本復旧工事まで完成している模様です。

「落合橋」側から上流に向かって進みます。

ちょうどこの辺りで、舗装が新しくなっています。

 

さらに進みます。「小畔川」左岸土手の接合部から先が崩れました。

「小畔川」土手のところには、車止めが設置されています。

2月の時はこんな感じ。コンクリートブロックでゴツゴツしています。

 

斜面の部分は植栽が施されたばかりでした。シート状の芝生が敷き詰められています。

早く根を張って、土手を丈夫にしてほしいですね。

撮影位置は若干異なります。消波ブロックは応急的なものらしく、撤去されたみたいです。

斜面のコンクリートブロックは、撤去されたのか?上に土が盛られたのでしょうか?

 

「越辺川」上流側から復旧土手を見てみました。遠景に「落合橋」が見えます。

完成した土手は、幅と高さが大きく取られているようですね。

2月の状況です。この頃はヘリポート傍に大きな水たまりが残っています。

 

土手の外側部分です。こちら側に幅を広くとっているようです。

法尻部分には、コンクリートブロックを敷き詰めて補強してありました。

2月の状況です。斜面の面積が上と比べると小さく見えますね。

コンクリートの大きな消波ブロックは、その後に撤去されたようです。

ヘリポート敷地が入っていますが、方向的には上画像に近いです。

 

ヘリポートの方向を撮影しました。

大きな水たまりは埋められ、倒れていた柵も復旧しています。

2月の時は、台風の爪痕がまだ残っていました。

 

「越辺川」の河川敷です。木の感じが少し変ですね。

増水した時、木にたくさんの枯草や漂流物が引っかかっていました。

この上に草が伸びたので、風呂敷を被せたような、モコモコした感じになったのでしょうか?

 

多くの人の尽力により、決壊場所はすっかり元通りになりました。

でも、こんな大きな台風が来ないように祈るばかりです。

 

「入間川」土手には少しだけヒガンバナが咲いていました。

見頃はまだ先のようです。


赤間川散歩⓴地下に隠された秘密

2020-09-22 00:05:55 | 探求散歩

「旧赤間川」を下流から遡ってきましたが、20回目となりました。

今回こそ、ゴールに設定していた「田谷堰」へたどり着けるといいな。

 

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撮影地点は下になります。田谷堰ま近くまで到達しました。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

今日のスタート地点は、民家沿いの砂利道(旧河川跡)が切れたところ(❶)。

多分、川は右側の舗装していない辺りでしょう。

 

食品流通センターの前で、川が途絶えてから思ったのですが、跡地はいろいろ制約がありそう。

川だから「河川法」の適用を受けるみたいで、廃川の手続きや土地の移管などがあるみたい。

国有地の無償貸与で造られた「宮元町公園」や舗装されない道の理由はここのあるのでは?

 

難しいことは分かりませんが、舗装されていない場所が川の跡らしいですね。

キレイな雲、三毛猫がのんびり歩いて行きます(❷)。

 

未舗装の辺りが、川の跡だと考えられます(❸)。

左側のおうちは空き家のようです。この辺も再開発されて、キレイな住宅地に変わるのでしょうか?

 

実際はどうだったのか?航空写真に薄く着色してみました。

昭和36年(1961年)6月なので、堰から各用水に水が入っているようです。

水面の反射を頼りに川のラインを推定してみましたが、現在の未舗装のラインと重なりますね。

また、田谷用水の入口敷地は元赤間川本流なので広いようですが、実際の水路は狭いように見えます。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

少し歩くと「新河岸川(赤間川)」のガードレールが見えてきました(❹)。

昭和53年(1978年)に上野田町から下流は「新河岸川」と呼ばれています。

未舗装部分が昔の川すじでしょうね。

左側の藪は、1990年代までは住宅があったようです。

 

公園が見えてきました。名称は「宮元町児童遊園」といいます(❺)。

この公園の部分が、「新河岸川」と繋がる前の「赤間川」の川すじだと思います。

そして「田谷堰」の出来た昭和13年(1938年)以降は、「旧赤間川」の最上流ですね。

 

古い航空写真では、各樋門の正面に水路が見えます。

水の入り口部分は、コンクリート護岸(堰?)になっています。

また、「田谷用水」入口の広い敷地は、昔の「赤間川」本流の名残のように見えます。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

上の航空写真を参考に、田谷堰周りの様子を想像してみました。

左側は「新河岸川」と繋がる前の想像図。「赤間川物語」の「田谷堰附近略圖」を参考に描きました。

いい加減に描きましたけれど、左右の絵が何となく、辻褄が合っているように見えるから不思議。

田谷用水は、航空写真では入口が広くなっていて、池のように見えました。

画像にしたらこんな感じなんでしょうね(❺とほぼ一緒)。

 

今回の撮影地点は、以下の通りです。➐~➓はほぼ同一地点です。

 

この「宮元町児童遊園」が、昔の「赤間川本流」で、「田谷用水(旧赤間川)」の通っていた場所です(❻)。

川の跡地だけ道にも家にもならず、そっくり残っているのは、法律もあるのでしょうね。

でもこの公園は、それだけではないみたいですよ。

 

「新河岸川」方向へ寄ってみると、見慣れない施設が・・・(❼)。

配電ボックスと200mmくらいのステンレス配管。

配電ボックスには「田谷橋貯留施設」と書いてあります(❽)。

そして、謎のステンレス管。地面から出て180度カーブしております(❾)。

管の先端のフランジが、ボルト締めされています。

閉止蓋でもついているのでしょうか?と思ったら金網です(❿)。

これはホコリ除けか、防虫網でしょうね。

おおかた予想がつきました。これは空気抜きの穴で、この下は水槽ですね。

 

「宮元町児童遊園」の下は、「田谷橋貯留施設」という名の雨水貯留施設。

ゲリラ豪雨など急激な降雨の際、一時的に雨水を貯えて、川の氾濫や道路の冠水を防ぎます。

水槽には空気穴が無いと、水が流入した時、逆に水が出て行くときに不都合ですね。

川越市の雨水貯留施設は「上下水道局だより」に載っていました。

https://www.city.kawagoe.saitama.jp/kurashi/jogesuidobu/jigyonoannai/koho_event/jogesui_dayori/jogesuidayori19.files/suido19.pdf

「宮元町児童遊園」の下も、こんな感じで造られたのでしょうね。

 

マンホールが、未舗装の埋められた川沿いに見られました(⓫)。

「田谷橋貯留施設」へ向かっている様に見えます。

都市下水路のように雨水が流れているのでしょうか?

 

道を挟んで「田谷用水樋管」の水門ですが、公園の端っこに記念碑がありました(⓬)。

「川越市下水道工事竣功 記念碑」と書いてあります。

 

画像が10枚を越えましたが、まだまだ終わりそうにありません。

残念ながら、終点に到着するのは次回に持ち越しです。

「旧赤間川」で20回を超過するとは、さすがに思いませんでした。


赤間川散歩⓳川の名残の公園

2020-09-18 00:05:55 | 探求散歩

「旧赤間川」をテーマに「探求散歩」を続けてきました。

しかし、完全に川は無くなり、資料から痕跡を辿っています。

 

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嶋田勝郎さんの「赤間川物語」によると、廃川敷の宮元町地先は「宮元町公園」となったそうです。

今回は「水口水車」への分岐点から、上流に向かって進んでいきます(❶)。

画像は、5月と8月に撮影したものを織り交ぜています。

この細長い土地が、「旧赤間川」だったところです。

「宮元町公園」の看板。ペンキが落ちていますね(❷)。

テプラの文字を見ると、この土地は国有地みたいです。「旧赤間川」跡は複雑そうですね。

 

今回の撮影地点です。「宮元町公園」沿いに南下しています。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

公園には多少の遊具が設置してあります(❸)。

公園沿いの樹木は、整備された際に植えられたようです。

 

昭和30年代前半(1955~60年)の航空写真を見てみると、土手沿いの木は目立たないですね。

また、土手に建物が建っているのが見えます。川の埋め立てが始まっているかは、判別できないですね。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

公園の幅は僅か6m位ですが、長さは150m以上あるようです(❹)。

左側は、もともと田んぼや畑だったところですが・・・。

 

「二丁町用水」側から「宮元町公園」を見てみました(❺)。

柵沿いが川の名残ですが、こちら側までは耕作地です。

ネギなどの作物がみえるけれど、使われていない場所もあるようです。

公園から東側を見てみました(❻)。食品流通センターの大きな建物が見えます。

柵の向こうは見た感じ、耕作されていない土地が多いようです。

今後は住宅地に変わってしまうのでしょうか?

 

突き当りにガードレールと塀が見えます(❼)。

公園の端も近いですが、川の跡はどうなっているのでしょうか?

公園に川の画像を加えてみました。

 

今回の撮影地点になります。「田谷堰」までは到着しませんでした。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

南側の公園出口です。ここも経年のため、公園の表示が薄くなっています(❽)。

公園の南出口の前は、民家が建っていました(❾)。

でもよく見てみると、歩道が中途半端な広さ。この狭い道路に似つかわしくないですね。

道路と同じくらいの幅の歩道。そして未舗装のまま、先に行っています(❿)。

「宮元町公園」が国有地と書かれていましたが、川の敷地の所有者が複雑みたいです。

川の部分は国だから、市で舗装することが出来ず、未舗装のままだったとか?

 

L型側溝まで設置されていますが、何故かガードレールの内側は砂利道(⓫)。

この不自然さは、元が川の跡と言えば説明がつきます。

再開発が進んでおり、この界隈も新しい住宅が建築されています。

 

撮影地点です。もう少しで「田谷堰」に到着します。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

さらに進むと「二丁町用水」跡の側溝のある道路で大きくカーブします(⓬)。

 

十字路のところで、砂利道は途切れました(⓭)。

川が流れていたらこんな感じなのでしょうか?

航空写真上に川の軌跡を着色してみました。

左が原図で、右が着色済み。★マークは上述の砂利道が切れたあたり。

川のラインと現在の「宮元町公園」、舗装されていない道路が重なります。

昔の「旧赤間川」はこんな風に流れていたんですね。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

同じ視点の年代による変化です。★マークは、現在の砂利道の切れたあたり。

昭和40年代までは、川を埋め立てたところに建物が建っていましたが、5年後には公園になっています。

また、砂利道も1974~79年の間に川が埋め立てられて出来ました。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

道路を挟んで、砂利道はおしまいになりました(⓮)。

目の前に家が建っています。川の跡は右側に行っているようですね。

「田谷堰」はもう目の前です。

 

今回で「田谷用水樋管」までたどり着けると思いましたが、もう1回分必要ですね。

まだ、10枚くらい写真が残っているので、今日はお開きとします。