「旧赤間川」を下流から遡ってきましたが、やっとゴールの田谷堰に到着しました。
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「探求散歩」ということで、従来ネット検索でヒットしない事柄を中心に記載してきました。
この先、「旧赤間川」に興味を持った方、更に探求されたい方の道標になれば幸いです。
最終回ということで、新たに判明したこと、これまでの記事のまとめを記載いたします。
(1)「旧赤間川」の流れについて
「旧赤間川」の流れは以下の通りです。青が現在まで残っている川すじ、赤がむかし川だったところです。
ネット上の「旧赤間川」流路は錯誤が多いです。今回、航空写真に基づいた正確なものを初出します。
なお、「御成都市下水路」に沿って流れる側溝も「旧赤間川」に含めました。
カッコ内は、古い明治頃の耕地字名です。
画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap
次に「旧赤間川」の流れの変化についてです。
❶昭和初期以前
「新河岸川」と繋がるまで、「赤間川」は伊佐沼の水源でした。
後の「田谷堰」の辺りで、「二丁町用水」「宮下用水」へ分岐していました。
❷昭和13年(1938年)以降
「新河岸川」と繋げられ、「伊佐沼代用水路」の掘削により、「赤間川」は伊佐沼と縁が切れます。
「旧赤間川」は、現「四ツ谷橋」のたもとで、「鴨田排水支川」に合流して、最後は「九十川」へ注ぎます。
「鴨田排水支川」が「御成都市下水路」となってからは、伊佐沼の手前で合流しています(平成3年、1991年)。
航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html
「新河岸川」との接続による、農業用水の減少対策のため、「田谷堰」が作られました。
これまで「圦」「堰」により水を引いてきた各用水は、「田谷堰」を締切って「樋管」から導水します。
昭和30年前半の田谷堰の様子です。
航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html
これを境に、「田谷堰」から「伊佐沼」までを「旧赤間川」、新しい川すじは「新赤間川」と呼ばれるようになりました。
「田谷堰」あたりが「新河岸川」と呼ばれるようになるのは、一級河川になってからです(1978年)。
❸戦後、農地整理以降
現在の川越バイパス(国道254号線)辺りから北田島南端にかけて、「旧赤間川」は田園の中を流れています。
今は1kmにわたり、直線の用水路が続いていますが、昔は所々屈曲した川すじでした。
航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html
昭和28、29年(1953,4年)、川越北部土地改良区の耕地整理が行われています。
この時、東耕地の「旧赤間川」も埋め立てられ、直線の用水路になってしまいました。
航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html
❹田谷堰周辺の「旧赤間川」の流れ
「田谷用水樋管」から蛇行して、現在の「宮元町公園」「食品流通センター」へ流れて来ます。
農業用水の転換とともに、水路は埋め立てられ、現在は住宅地になっている場所もあります。
河川法の縛りがあるせいか、今でも蛇行した「旧赤間川」の跡がハッキリわかりますね。
航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html
(2)「旧赤間川」に架かる橋
川が埋め立てられてしまい、無くなった橋もあるようですが、現在は8箇所ありました。
画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap
「田谷橋」「田谷用水樋管」側から
1.樋(橋と言えるか分かりませんが・・・)
2.不明(川越バイパスに架かっている名無し橋)
3.合併橋
4.赤間川橋
5.第二合併橋
6.第三再建橋(道路台帳ではこういう名前)
7.伊佐沼橋(銘板が無い名無し橋、道路台帳から)
8.第160号橋(旧赤間川と御成都市下水路を跨ぐ)
このほかに個人宅に架かる通路橋もありますが、こちらは除外しました。
これまで未掲載だった「第160号橋」です。
「旧赤間川(側溝)」「御成都市下水路」を跨ぐ橋です。フェンスを挟んで「伊佐沼代用水路」に架かっているのが「第161号橋」です。
(3)「二丁町用水」について
昔は「田谷堰」にある「二丁町用水樋管」から農業用水を引いていました。
「二丁町」は東耕地側の「旧赤間川」の左岸(北側)の部分です。
明治大正期の資料には「貮町畦(ニチョウマチ)」「貮丁町」と表記されていました。
「二丁目」という記載は、全く無いので混同しないよう注意ください。
食品流通センター沿いにある側溝が、「二丁町用水」の名残です。
「二丁町用水」のかつての流路はこんな感じです。現在は川から灌漑していません。
また道路台帳上に、現在は存在しない「圦橋」の表示がありました。
画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap
二丁町用水の「樋」には穴が開けられており、用水としては使用不可能な状態です。
(4)「宮下用水」について
同じく「田谷堰」の「宮下用水樋管」から水を引き入れていました。
「宮下用水」と言っても、右岸の宮下町の農業用水ではなく、耕地字の「宮下畦(宮元町、氷川町あたり)」の用水でした。
画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap
「宮下用水」のかつての流路はこんな感じです。
宮下畦、寺井溝畦と城下畦の一部に灌漑しています(カッコ内が現在の地名)。
画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap
現在は水路も変わっていますが、「新河岸川」からポンプで水を汲み上げて、近くの農地を灌漑しています。
なんと「二丁町用水樋管」のところから、取水用のパイプを川に沈めて汲み上げているようです。
昭和末期の汚濁から一転、「新河岸川」がキレイになった証拠ですね。
今も「宮下用水」は「新河岸川」沿いに側溝が伸びています。
(5)その他、補足・落穂拾い
❶伊佐沼堰のアーチの穴
伊佐沼堰の3連アーチの各頂部に、斜めに傾いた鉄製のパイプが付いていました。
これがパイプ部分、斜めに傾いています。
地衣類のツブダイダイゴケがいっぱい。
ツブダイダイゴケについては、以下のリンクを参照ください。
先日、下から覗きに行ってきましたよ。
穴の中は、詰まっているみたい。上から覗いたら石がいっぱい。
ネジ山があるようには見えなかったです。
下から見ると、鉄製のパイプは裏側まで貫通していました。
カタツムリがいっぱい張り付いていました。
貫通したパイプの延長線は、ちょうど堰板(角落とし)のハマる溝の上です。
堰板にロープでも付けて、上下させていたのでしょうか?
飾りでこんなアーチを作るわけ無いので、堰板の操作に関連している気がします。
アーチ上の斜めパイプ用途について、自分が勝手に考えた想像図です。
❶堰板にロープを付けて、アーチの穴にも通します。余った部分は巻いておきます。
❷田圃の中干しなどで、水を抜くときはロープを引く(抜けるまで少し引いて結んでおく)。
❸堰板を引き上げた状態で、ロープを結んで次に下すときまで巻いておく。
シーズンが終わったら堰板を取り外すか、溝から引き抜いて立て掛けておくのでは?
所詮は想像の域を出ません・・・。
❷「赤間川」「新赤間川」「旧赤間川」「新河岸川」どれが正しいの?
「田谷堰」の下流にある「杉下橋」には「新河岸川」の表記。
「新琵琶橋」には「赤間川」の銘板が有ります。
「新赤間川」や「新河岸川」には、あまり興味が無いので詳しく調べていません。
もともと狭山市の取水口から伊佐沼までが「赤間川」のはずです。
「新河岸川」は「仙波河岸」があった辺りから下流ではないでしょうか?
新しい水路を掘削し、昭和13年(1938年)に「新河岸川」と「赤間川」が繋がりました。
新水路は「赤間川」の水が流れていますから「赤間川」、もしくは古い川すじ「旧赤間川」と区別して「新赤間川」と呼んでいたようです。
「新赤間川が上流の上野田まで遡って、一級河川となるに及んで(後略)」と「赤間川物語」に記載がありますが、
昭和53年(1978年)に上野田の「新河岸川起点石標」から下流が、一級河川「新河岸川」になりました。
「新河岸川起点標石」から下流にある橋梁ですが、昭和53年以前に建設、架け替えられたものは「赤間川」「新赤間川」の表記。
これ以降に建築された橋には「新河岸川」の銘板が有るのではないでしょうか?
改修時に古い銘板をそのまま使う、ということもあるので、この先も川の名前がバラバラかもしれませんね。
(昭和53年は文献からではなく、ネット検索なので、確度が高いとは言えません・・・)
❸「田谷堰」あたりの水はキレイになったのか?
現在はこんな看板が立っています。
この川は、高度成長期から昭和末期にかけて、酷く汚れていたそうです。
「広報川越」を見ると、「新河岸川」のBOD(生化学的酸素要求量)は、測定が始まった昭和48年(1973年)で、34.2㎎/l。
10㎎/l以上では、魚が住めないと言いますから、けっこうな汚れです。
これ以降、10㎎/lで横ばいとなりますが、昭和50年代後半は、15~20㎎/lと高くなります。
下流部で合流する「不老川」は、この頃90㎎/l超なので、まだ良い方なのでしょうが・・・。
流域の急激な人口増加と下水道普及の遅れが、水質汚濁の原因と思われます。
昭和48年の川越市の下水道普及率は37.5%(全国19.5%)だそうです。
平成に入り、下水道が整備(平成2年で60.4%)され、少しずつ改善(同BOD6.5㎎/l)していきます。
平成30年の下水道普及率は86.1%、「新河岸川(坂下橋)」のBODは2.3㎎/lとなっています。
BOD3㎎/l以下だと、アユの生育にも適するくらいの水質だそうです。
下は今から60年以上前のポスターです。この頃の川は、もっとキレイだったのか?
❹「旧赤間川」のトピックのおさらい
おしまいに、21回かけて辿った「旧赤間川」のトピックを載せておきます。
画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap
第1回:御成都市下水路の測溝、鴨田排水との合流点、九十川へ合流
第2回:鴨田排水支川との合流点(過去)、鴨田排水の伏せ越し(立体交差)
第3回:伊佐沼入口バス停、上尾県道のルート変更地点、名無し橋
第4回:再建橋、芳野用水の排水口、伊佐沼堰の堰板とアーチの上の鉄管
第5回:第二合併橋の欄干、合併橋のガードレール、明治期の芳野村と川越町の合併騒動
第6回:旧赤間川が蓋付きの側溝となる
第7回:赤間川橋と県道のルート変更、「赤間川物語」中の「青橋」はどこなのか?
第8回:耕地整理により変えられた川すじ、航空写真に残る川の跡
第9回:耕地整理で痕跡すらない(北)田島堰と北田島用水について
第10回:埋め立てられて無い、曲目(マゴメ)の一本橋、捨て場の位置を考える
第11回:川越バイパス(国道254号線)に架かる名無しの橋
第12回:旧赤間川と立体交差する二丁町用水の樋(とい)
第13回:樋に開けられた穴、二丁町用水下流とポンプ小屋
第14回:二丁町用水を田谷堰まで遡る
第15回:道路台帳に載っていた「圦橋」を推定、二丁町用水樋管の謎の塩ビ管
第16回:二丁町用水樋管の塩ビ管とポンプ小屋と宮下用水の関係
第17回:今残っている旧赤間川の最上流地点
第18回:埋め立てられた川と水車小屋の場所を推定する
第19回:宮元町公園は旧赤間川の跡地、舗装されない旧河道
第20回:宮元町児童遊園の地下には雨水貯留施設があるようだ
第21回:川越市下水道竣功記念碑、下水道の樋門らしき場所、田谷堰の各樋門
最終回:川のルートや橋などまとめ、補足追加(この記事)
この先、新しく判明したことの記載、間違いの訂正などあったら、各記事に書き足してまいります。
約二か月以上にわたって続けてまいりましたが、やっと終わりになります。
見ていただいた方、どうも有難うございました。
さいごに「田谷堰」のゲートを下ろした想像図です。昔はこんな感じで、用水を送っていたのでしょうね。
ひと区切りとなりましたが、次回のテーマはまだ決まっておりません。
最近は閲覧者もいないので、しばらくお休みしようと思います。
いつか「旧赤間川」に興味を持った方の、さらなる探求のために拙稿がお役に立てたら幸いです。
(2020年8月31日)
記事や写真の引用転載は、どうかしないでください。