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小さな花の輝く世界

小さな植物や花の知られざる輝きをご紹介いたします。くわゐ(匙太sagittaria)です。お間違えなきよう

伊佐沼散歩❶昔は広かった?

2020-06-28 07:55:55 | 探求散歩

冬の迷走散歩もひと段落着きました。

ただ歩きながら撮った、花と違って枯草ばかりの河原の画像ばかりで恐縮です。

 

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人気ないです。更新ブランクもあるせいか、圧倒的に閲覧が無く、仕方ないと思っています。

でも今回から「探求散歩」と称して、少しひねった内容を作っていきたいですね。

ローカルな記事ですが、お付き合いいただければ幸いです。

後記:荒川右岸用排水土地改良区誌(昭和57年)を読むことが出来たので、若干の補足をしました。

   あらためて、まとめたことを詳しくご紹介できればと思っております。

 

埼玉県川越市の伊佐沼、自然沼としては、印旛沼に次いで関東で2番目に大きいそうです。

伊佐沼の歴史は古く、14世紀中頃に自然沼を清浄化し、溜池利用したと言われています。

名前の由来は、沼を整備した伊佐氏に因むとか「漁(いさり)沼」から等の説があります。

 

伊佐沼の近所に住んでいるのですが、2月に風が強すぎて花撮影を諦め、伊佐沼代用水路を歩いて来ました。

迷走散歩❶伊佐沼の水はどこから - 小さな花の輝く世界

迷走散歩❷水路を見失って・・・ - 小さな花の輝く世界

 

目指した伊佐沼の水源を見つけられず、帰ってから伊佐沼の水路について調べていると

偶然みた昔の地図では、沼のカタチが違うことに気付きました。

「今昔マップ on the web」より加工 今昔マップ on the web

「地理院タイル」より加工 https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

昔は「薬師神社」から「伊佐沼農産物直売所」間の道路が無かったみたい。

何で形が変わってしまったのか?早速、ネットで検索しました(ウィキペディア)。

戦前までは現在の倍の広さがあったが、食糧増産のため干拓が行われ、面積が減少したとのこと。

 

古い伊佐沼はどんな感じだったのだろう?

写真が見たくて「伊佐沼、干拓、昔etc」のワードで検索しましたが、最近の画像ばかり。

地図上で何か手掛かりはないかと「国土地理院HP」を見ると航空写真がありました。

少々不鮮明ですが、対米戦前の昭和16年4月11日、陸軍撮影の写真です。

戦前は「太平洋戦争」前の事を指すと思うので、きっと広い伊佐沼が・・・って、もう埋め立ててあるよ。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

伊佐沼に関する解説ページやブログ等では、伊佐沼干拓の時期を戦後、第2次大戦、太平洋戦争としています。

さらに地図上では、国土地理院1/50000地形図において、伊佐沼は昭和27年発行分まで干拓前の姿でした。

こんなところから、戦中、もしくは戦後、埋め立てられたと勘違いしたのでしょうか?

でも、航空写真を見る限りでは、2次大戦(昭和14年~)、大東亜戦役(昭和12年~)かもっと前。

では、いつ頃干拓されたのでしょうか?

 

大正後半から昭和初期にかけて、伊佐沼を取り巻く環境はかなり変わっております。

・荒川上流部改修工事(大正9年工事開始~):含入間川、大正7年から用地買収・測量、完成昭和29年。

・新河岸川河川改修工事(大正9年~昭和5年)

・新河岸川通船停止の県令(昭和6年)

・伊佐沼代用水路新設(昭和9年)

・仙波河岸跡から新河岸川開削。赤間川と合流(昭和9年?)

 

赤間川と新河岸川が繋がった年を記載している公的な文献は、記事作成までに探しきれませんでした。

個人ブログでは、昭和6年と9年と13年と説が分かれておりました。

❶昭和6年だと伊佐沼代用水路が出来ていない。水源はどうなるのか?通船禁止令が11月なので無理そう。

❷昭和9年だと辻褄が合うような気がする。ただ、旧赤間川へ水を流す田谷堰はない。

❸昭和13年だと4年前に伊佐沼代用水路が完成しています。赤間川が増水すると伊佐沼が溢水したと記録あり、繋ぎ変えの一因となっており、水源が2つあるのは不自然。

(後記:川越市の資料では、昭和12年着工、昭和13年完成とありました。伊佐沼代用水路も着工が昭和9年で、完成はずっと後のようです)

嶋田勝郎氏の「赤間川物語」でも昭和13年新水路開削とあります。この時期が正しいようですね。

※赤間川については別途、たどってみたいと思います。

(旧赤間川は全22回のシリーズ記事になりました。初回と最終回のリンクを載せておきます。)

赤間川散歩❶いきなり頓挫 - 小さな花の輝く世界

赤間川散歩🈡エピローグ - 小さな花の輝く世界

 

話は逸れましたが、伊佐沼を干拓するには最初に水源を無くし、沼を干す必要があると思います。

元々の水源の赤間川を新河岸川に繋げて、伊佐沼と縁切すると都合良いですね。

また、干拓地に水路を引かねばならないので、伊佐沼代用水路も干拓と並行して工事した方が、理にかなっている。

広い面積を埋め立てるには多くの土砂が必要。近くで工事があれば残土の捨て場になり一石二鳥。

昭和9年頃は、伊佐沼代用水路新設のほかに荒川河川改修工事もあるので、融通が利くのでは?

でも、稲作に影響が出ないよう、昭和9~10年の冬の農閑期に一気に工事するのが妥当と思います。

以上は、土木について知識のない自分が、素人考えに推測したことです。事実ではありません。

 

これを踏まえて、何か手掛かりはないか探していたら、古い広報川越に記載がありました。

荒川右岸用排水土地改良区の元事務局長さんのインタビュー記事です。

伊佐沼の干拓は昭和9年に始まったとのこと。自分の推測はおおむね正しいようです。

(後記:上記の局長さんが編者の「荒川右岸土地改良区誌」においては、11年には完成とありました。

詳細な資料が火事で焼失したということで、不明な点の多い工事のようです。)

昭和13年干拓完成という説もありますが、「荒川右岸土地改良区誌」では、昭和13~15年の耕地整理事業の予算決算書があるので、辻褄が合わないです。

伊佐沼は埋め立てられて、42ヘクタールの沼が28ヘクタールに減ったとのこと。

 

伊佐沼を干拓したのは、食糧増産以外にも理由があるようです。

明治14年の迅速測図に描かれている伊佐沼です。

これに昭和初期の地形図の伊佐沼のシルエットを重ねてみます。

多少の測量誤差はあるでしょうが、40年位の間に小さくなっているようです。

だんだんと沼の底に泥が堆積しているみたいです。

そのため農業用水に使用不可とのことで「伊佐沼不要論」が挙がってきました。

県の計画では、沼すべてが干拓される可能性もあったということです。

「荒川右岸土地改良区誌」では、最初に半分埋め立てて、様子を見て全廃と書いてあります。

(後記:伊佐沼代用水路とは、赤間川の代わりの水源ではなく、伊佐沼の代わりの水路という意味のようです)

 

実際のところは、薬師神社から北の部分が田圃になり、現在の伊佐沼の原型となっています。

赤間川から水と一緒に泥が流れ込む、入口の北側部は、浅くなって埋めてしまったのでしょうね。

でも、沼として残った部分も泥で浅くなり、昭和43年に大規模な浚渫工事を実施しています。

 

結局、ネット検索では、干拓される前の伊佐沼の画像がありませんでした。

唯一、40年近く前の広報の片隅に、一葉だけ小さな画像を見つけたのみです。

博物館や図書館に行けば、もしかしたら見られるかもしれないです。

でも、ブログに掲載して皆さまに見ていただくことはできないでしょう。

 

そこで一計を案じました。ここから先が記事の主題です。

地元の方、ご覧になっていたら、こちらの場所お分かりになります?

文章を延々と書き連ねて長くなってしまいましたので、ここで一区切りします。

次回に続きを載せたいと思います。

表題として「もっと広かったかもしれない伊佐沼」「まぼろしの眺め」なんかを検討しています。

何分にも付け焼刃程度の知識しかないので、誤認の多い記事になるのはお許しください。

次回もどうぞよろしくお願いいたします。

 

よろしければ、この続編もご覧いただければ幸いです。

伊佐沼散歩❷さらに昔はもっと広かった? - 小さな花の輝く世界

伊佐沼散歩❸まぼろしの風景 - 小さな花の輝く世界

伊佐沼散歩🈡令和に甦る景色 - 小さな花の輝く世界



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