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小さな花の輝く世界

小さな植物や花の知られざる輝きをご紹介いたします。くわゐ(匙太sagittaria)です。お間違えなきよう

赤間川散歩❸昔は県道も川沿いに

2020-07-22 00:05:55 | 探求散歩

今回の散歩のテーマは、昭和初期まで川越伊佐沼の水源だった「旧赤間川」です。

川を遡ろうとスタート地点に立ったものの、いったん下ってしまいました。

 

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「旧赤間川」の行き着く先が分かったので、気を取り直して再スタートです。

図書館から「芳野村郷土誌考」「荒川右岸土地改良区誌」を借りてきましたので、参考にしながら歩きますよ。

 

今回はこんな感じで歩きました。距離にして100mほど。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

四ツ谷橋のたもとの堰です(❶)。名前は不明です。

昭和36年(1961年)の航空写真では、はっきり確認できます。

昭和31年(1956年)は判別しにくく、昭和21年(1946年)にはありませんでした。

この堰は、昭和30年代からのモノか、作り替えられたモノかは分かりません。

 

堰から上流を眺めています(❷)。

ここから遡っていきます。写真は7月後半のものです。

5月頃から調べていたので、快晴の絵面もあるのですが、最近、草刈りがあったので見やすいものを主に使います。

 

歩き始めてすぐバス停がありました(❸)。「伊佐沼入口」だそうです。

 

入口にしては、伊佐沼まで500m以上あって、けっこう遠くて沼は見えません。

しかし昭和初期、干拓前の伊佐沼はここから見えたはずです。

こんな感じでしょうか?「伊佐沼入口」という名前は、昔は全くその通りだったということです。

 

今回の撮影地点のおさらいです。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

バス停を過ぎると、教会の建物を挟むように道が分岐していました(❹)。

「旧赤間川」沿いに歩いて行くと、分岐した道はまたひとつに繋がっているみたい(❺)。

 

反対側から見るとこんな感じ(❻)。側道は何か意味があるのでしょうか?

 

何かとても不自然に感じましたので、昔の地図と比べてみましたら、当時の道は一本だけです。

 

航空写真で比べてみても、県道の位置が変化しているのが分かります。

昭和36年(1961年)においても側道は無く、県道1本しかありませんでした。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

昔の県道はカーブがきつくて、よく事故が起きていたのでしょうか?

緩やかなカーブになるように付け替えられています。

「旧赤間川」沿いの側道は、古い県道のラインだったのですね。

最初から真っすぐになるようにすればいいのにと思います。

でも、昔の伊佐沼は明治18年(1885年)県道により分断され、北側が干拓されたそうです。

干拓のために最短直線に「締切堤」を築いたので、繋がりが急カーブになったのでは?

 

幕末の頃はもっと伊佐沼が広かったらしい、ということに関係しているのではないでしょうか?

伊佐沼散歩❷さらに昔はもっと広かった? - 小さな花の輝く世界

 

さて、道路が拡張整備された年代はいつ頃なのでしょう?

県道なので、市の資料には無さそうです。当然、ネット検索にもヒットせず。

諦めかけていたら、なんと工事中の航空写真を見つけました。

昭和49年(1974年)年末の画像。この頃に完成したのは間違い無いですね。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

今回の撮影地点の位置関係です。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

位置関係は前後しますが、「旧赤間川」を遡り始めて最初の橋(❼)。

銘板が付いていないので、名前は分かりません(判明しました)。

後記:道路台帳を調べに行ったら「伊佐沼橋」と書いてありました。

これより南の、薬師神社のところの橋が「北伊佐沼橋」。変ですね。

時代とともに、何度も架け替えられているでしょうが、明治初期からこの位置には橋があったようです。

 

たった100mチョット歩いただけで、長くなってしまいました。

続きは次回にいたします。

記載したいことがいっぱいあるので、この分では長くなりそうです。

次回もどうぞよろしくお願いいたします。


赤間川散歩❷縁はいつ切れたの?

2020-07-17 07:55:55 | 探求散歩

今回のネタは、昭和初期まで川越伊佐沼の水源だった「旧赤間川」です。

川を遡ろうとスタート地点に立ったものの、「旧赤間川」は周りの水路と合流せず流れている様子。

一体どこへ流れ着いているのか?それを先に調べなければ・・・。

急遽、川下りから始めたのが前回です。

赤間川散歩❶いきなり頓挫 - 小さな花の輝く世界

 

水路を下って分かったのは、「旧赤間川」の水は伊佐沼に入ることが無い。ということでした。

昔、伊佐沼の水源だったのに、現在は完全に切り離されてしまっているみたいです。

「赤間川」が「新河岸川」に繋がれたのは、80年以上前の昭和初期です。

伊佐沼散歩❶昔は広かった? - 小さな花の輝く世界

 

でも、「旧赤間川」終点が伊佐沼から切り離されたのはいつ頃なんでしょうね?

今回も地図や航空写真などから、読み解いてみたいと思います。

 

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戦後間もない頃(1947年)の伊佐沼です。河川に着色してあります。

川を見てみると、ほぼ現代と同じなのが分かります。

現代はこんな感じです。

航空写真とタイルは国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

粗くなりますが、上の写真を拡大・加工してみました。

現在と違って「鴨田排水支川」は、「鴨田排水」と合流して伊佐沼に入りません。

面白いのは、「伊佐沼代用水路」竣工時から「鴨田排水」は立体交差(伏せ越し)するらしい点です。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

さて「旧赤間川」はどうだったのでしょうか?

航空写真ではっきりと「鴨田排水支川」に合流しているのが分かります。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

昭和21年ということは、戦後の大規模な土地改良がおこなわれる前ですね。

以上のことから、(1)~(3)がハッキリしたと思います。

(1)「旧赤間川」は昭和9年(1934年)の「伊佐沼代用水路」建設の際、伊佐沼から切り離された。

(2)今と違って、四ツ谷橋のところで「鴨田排水支川」と合流した。

(3)「鴨田排水支川」は伊佐沼へ流れず、薬師神社わきで「鴨田排水」と合流して「九十川」に注いでいる。

 

もし干拓が無かったら、薬師神社の脇はこんな風景だったかもしれませんよ。

面倒な水路のことも調べなくて済んだのに。

本当はこんな風景。干拓地もしばらくはハスが残っていたらしいですが、もはやそんな面影はありません。

干拓されて水路も複雑になっていますね。気にしなければ分からないままでした。

 

蛇足ですが、以下についても写真を見てみました。

いつ「旧赤間川」は「鴨田排水支川」と切り離されたのか?

広報川越によると、この辺りは昭和55年(1980年)から都市下水路工事が始まったそうです。

分かりやすいのでカラー画像で出しますが、左側が未着手だった昭和59年(1984年)です。

モノクロで昭和63年(1988年)1月12日の写真もありましたが、こちらもまだ側溝はありませんでした。

しかし、平成2年(1990年)10月20日画像では、コンクリート製の水路が完成しているのが分かります。

多分、昭和63年(1988年)~平成2年(1990年)の2年あまり間に工事が行われたと思われます。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

いつ「鴨田排水支川」は伊佐沼に流れるようになったのか?

こちらも「鴨田排水支川」の整備、都市下水路工事に伴うものなので、30年くらい前の画像を比べます。

左側が工事中と思われる画像、右は完成後の航空写真と推定されます。

こちらもカラー写真を使用したかったので、完成後の画像は平成7年(1995年)を加工しました。

でも、平成4年(1992年)5月のモノクロ写真では、すでに「鴨田排水支川」は伊佐沼に流れておりました。

この工事の完成は平成3年度(1991年度)なので、この頃に流れが変わったと思われます。

左側工事中の画像では、薬師神社そばまで「旧赤間川」「鴨田排水支川」の水路が出来ています。

でも伊佐沼の手前で切れており、緑色も見えないので掘削工事中みたいです。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

四ツ谷橋には「鴨田排水支川」と銘板があります。この橋は昭和49年(1974年)完成のようです。

でも、昭和末期から平成(1980年後半から90年前半)にかけて、広報川越では「御成都市下水路」という名でよく出てきます。

昭和55年(1980年)~平成3年(1991年)度まで、都市下水路として整備工事が行われ完成したそうです。

現在は「鴨田排水支川」よりも「御成都市下水路」と呼ぶのが正しいのでしょうね?

 

都市下水路は、雨水の排水として終末処理場がなく、川や湖に流れる管渠や水路です。

急速な都市化が進み、公共下水道の整備が進まぬ地域の浸水被害を防ぐため、雨水排水用に作られたそうです。

でも川越市は、合流式(雨水も処理)と分流式(雨水と分ける)の地域があるらしく複雑みたい。

「御成都市下水路」は下水道法の管轄になるのでしょうか?市で管理しているようで、農業用途ではなさそうです。

でも、稲作の間「御成都市下水路」は満水だけれど、冬は水が無くて干からびています。水門もあるし用水ですよね。

 

確かにじっくり見ていると、水面はゆっくり伊佐沼に向かって動いているようですが・・・。

地図を見てみても、細かく接続する小さな水路はたくさんありますが、こんなに水を貯えるほどの水源はありません。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

「御成都市下水路」が「伊佐沼代用水路」と繋がる場所は、伊佐沼以外でなさそうだし・・・。

もしかしたら、「御成都市下水路」の水は伊佐沼から逆流してきたのではないですか?

水門のところにゴミが溜まるのは、普通は上流側でしょう。なぜ下流が汚いの?

しろうと考えですけれど、そう思ってしまいます。ネット検索すればヒットするでしょうか?

「旧赤間川」を遡る予定が、いきなり大きく脱線してしまいました。

下水道は多少勉強したことがあるので、「御成都市下水路」をもう少し調べてみたいと思いますが・・・。

歩いて行くと往復20km近くなるので、チョット気が進みません。

次回から「旧赤間川」に戻って、再スタートします。

花画像の合間ですが、どうぞよろしくお願いいたします。


赤間川散歩❶いきなり頓挫

2020-07-13 07:25:55 | 探求散歩

今回のネタは、川越伊佐沼の干拓前の昭和初期まで水源だった赤間川です。

旧赤間川と言われて残っているようですが、どこから水が来て、どこへ行くのやら?

昔の面影をたどって、遡っていきたいと思いますよ。

2月に「伊佐沼代用水路」の水源をたどって、見失った轍は踏みたくないですね。

 

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地図で見ると「旧赤間川」の移り変わりはこんな感じ。

伊佐沼が干拓される前の昭和初期は、柳橋の「鴨田排水」まで伸びていたと思います。

現在は「鴨田排水支川」「伊佐沼代用水路」が横切っているので「鴨田排水」には繋がらないようです。

「今昔マップ on the web」より加工 今昔マップ on the web

「地理院タイル」より加工 https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

まずは「旧赤間川」スタート地点に立ちます(❶)。四ツ谷橋のたもと、多分ここで間違いないでしょう。

 

川をさかのぼる前に、四ツ谷橋でどの水路に繋がっていくか?

・・・いきなり壁に仕切られていますよ(❷)。

「旧赤間川」は、「伊佐沼代用水路」「鴨田排水支川(御成都市下水路)」とも繋がっていません(❸)。

 

今回の撮影地点はこんな感じです。

❶がスタート地点ですが、どこに繋がっているのか?下流へ行ってしまいました。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

遡る前に下り始めてしまいました。一体どこへ行くのでしょう?(❹)

 

現在の伊佐沼の手前でいくつもの水路が交錯します。

「旧赤間川」は、江戸時代初期からある「薬師神社」のところで逸れましたよ(❺)。

 

北伊佐沼橋から上流側を見ています(❻)。

「伊佐沼代用水路」と「鴨田排水支川」は伊佐沼に入ります。

「鴨田排水」は「伊佐沼代用水路」と「鴨田排水支川」を立体交差し、北伊佐沼橋をくぐります。

「旧赤間川」は「鴨田排水」と合流していたのですね。

 

「鴨田排水」と合流した「旧赤間川」はどこに行くのでしょう?

北伊佐沼橋から下流側を望むと、沼に沿って流れていきます(❼)。

春は桜並木がキレイなところです。

 

北伊佐沼橋のひとつ下流の橋は蓮見橋(❽)。

蓮見橋の欄干には「鴨田排水路」のプレートが・・・。

 

今回の撮影地点のおさらいです。

「旧赤間川」は❻のところで「鴨田排水」と合流して流れていきます。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

蓮見橋のそばに伊佐沼と繋がっていそうな分岐点(❾)。

そばに行ってみると水門が(❿)。

ここは伊佐沼の水を放流する水門みたいですね。

残念、伊佐沼との入口ではなく、出口でした。

 

さらに下流の橋、伊佐沼冒険の森連絡橋から水路を眺めます(⓫)。

伊佐沼へ流れ込む気配は全くありません。一体どこへたどり着くのでしょう?

 

やっと出口らしき場所、合流点です(⓬)。

結局、伊佐沼へ入ることが無く、伊佐沼を源流とする「九十川」と合流しました。

「旧赤間川」は、入口も出口も伊佐沼と完全に切り離されていました。

結局、スタート地点から一歩も遡ることなく、今回はこれにて終了。

分かったことは、

(1)伊佐沼の昔の水源、「旧赤間川」は現在は「鴨田排水」と合流する。

(2)「鴨田排水」は伊佐沼へ注ぎ込むことなく「九十川」へ合流する。

 

疑問に思ったのが、「旧赤間川」はいつ頃から伊佐沼と縁が切れたのか?

上流部分の新河岸川への川の繋ぎ変えは、昭和13年頃です。

では下流部分、伊佐沼に入る部分はいつ切れたのでしょうか?

手始めにこちらを調べる必要がありそうです。

 

伊佐沼の水源を遡るという企画が、いきなり頓挫してしまいました。

続きますが、ローカルネタゆえ人気がありませんので、花画像の合間にたまに作ります。

この分だと長いシリーズになりそうです。

最後までご覧いただき有難うございました。

次回もどうぞよろしくお願いいたします。


伊佐沼散歩🈡令和に甦る景色

2020-07-06 07:55:55 | 探求散歩

今回、伊佐沼「探求散歩」の最終回を更新いたします。

 

伊佐沼を何度も歩き回って、いろいろ調べてみましたが、沼が昔は大きかったこと、何度か干拓されたことを知り勉強になりました。

干拓が昭和9~11年であったことも、ブログ等ではこれまで公開されていない情報なので、少しはお役に立てたかもしれません。

 

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中途半端に打ち切ってしまった、伊佐沼がもし干拓されなかったら、どんな風景か?

埋め立てられる前の広い伊佐沼の写真が、ネットで見つからなかったので、想像して自分で作ってみました。

沼の北東端(農産物直売所)からスタートして、かつて沼だった場所を歩いて写真を紹介しました。

続きは代用水路流入部分から、現在の沼の北西端(薬師神社付近)までです。

前半部は 伊佐沼散歩❸まぼろしの風景 - 小さな花の輝く世界 をご覧ください。

 

おさらいとして、干拓された沼の状況をご確認ください。

画像を加工して、もしも昭和初期に干拓されず、令和まで残っていたら、これが今回のテーマです。

「地理院(単写真)」より加工 https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

今日は県道51号川越上尾線の辺りから出発します。今回の画像は❻~❿です。

❶~❺は 伊佐沼散歩❸まぼろしの風景 - 小さな花の輝く世界 をご覧ください。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

県道の寺井橋から南に向かって撮影しています(❻)。

左側が伊佐沼代用水路、右側が鴨田排水支川(御成排水路)です。

川の水位と沼を合わせるところ、沼のエッヂを作るのに苦労しましたが、出来はいまひとつ。

埋立前の沼では、この場所で水路との接続はありません。干拓後に水路が出来たみたい。

伊佐沼代用水路には寺井橋、鴨田排水支川には四ツ谷橋がそれぞれ架かっています。

この辺りの地名は、あちこちに飛び地がある寺井なんですが、隣の四ツ谷橋は寺井村字四ツ谷だそうです。

昭和初期の地形図には、寺井ではなく四ツ谷と書いてあるし、農協前に「四ツ谷」バス停があるし・・・。

江戸末期の馬頭観音には「四ツ谷村」の碑文があるという(探しに行ったが見つけられなかった)。

調べてみると面白い地名のような気がします。

「今昔マップ on the web」より加工 今昔マップ on the web

 

寺井橋から少し水路を下ると畦道に分岐しています。

この小さな未舗装の農道のカーブが、昔の伊佐沼の岸辺だった感じですね。

歩いて行くと小さな石碑に出会いました。この地点から北東に画像を撮影です。

古い石碑が残るように沼を再現してみました(❼)。

石碑の位置は道から外れて出っ張っていました。

道沿いに沼を引くと、石碑の位置は沼面のほうが自然です。

干拓後に移設されたのかもしれません。

石碑は「馬頭観音」。馬が農耕、交通といった人の生活に身近だった時代、馬の供養や無病息災、旅の安全を祈念した塔だそうです。

この辺は道端だけでなく、田んぼの中にこうした塔が多いです。干拓前の沼のほとりにあって、農作業を見守っていたのでしょうね。

側面には、いくつか碑文が刻まれているのですが、画像からはあまり判読できないです。

碑文は拓本を取るのが良いのですが、にわか探訪者はそんな機材は持っていません。

石塔の右側面には「願主 伊佐沼村 須賀文右エ門」と読み取れました。

伊佐沼村が芳野村に統合されたのは明治22年(1889年)。それ以前の建立でしょうか?

左側に建立年が刻んでありましたが、現場では「治 十 三」と読み取れました。

明治13年(1880年)だったら辻褄が合うと思い、家で画像をいじってみたら「明」では無く「元」でした。

よく見ると「元治元年」と刻んでありましたが、それ以下は「四」らしき字があって、判読不能でした。

元治元年(1864年)は江戸最後の元号「慶応」のひとつ前です。

下が石碑の碑文です。下手ですが白線でトレースをしています。

 

半分過ぎたので、再び撮影地点の地図を表示します。青い点線より上が、むかし沼だったところ。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

さらに南に沿って行くと、樹に囲まれた薬師神社が見えてまいります(❽)。

こちらは干拓前からあって、沼に突き出すような感じで建っていますね。

神社の敷地にある、赤い屋根の白い建物は伊佐沼公民館です。

畦がそのまま護岸みたいに見えてくれました。

元画像では、左端に農業ふれあいセンターが見えます。

拓後、長いこと田圃でしたが、市民農園事業が昭和60年(1985年)に始まり、鴨田排水の東側が農園になりました。

農業ふれあいセンターの建物は、平成元年(1989年)にオープンです。

写真の加工はセンターの建物を消した後、背景に農産物直売所を貼り付けています。

薬師神社です。社殿の建立は元和9年(1623年)だそうで、伊佐沼の歴史を見守り続けています。

薬師神社にかなり近づいてきたところで、北東側を望む(❾)。

畦が護岸ぽく見えるので、加工しやすかったです。

船を浮かべた絵面にしてみました。

右端に見えるのは埼玉医大の建物です。

元になった画像も田植え前で平坦。消去するような建物もなく簡単に復元できました。

干拓地の西端、北伊佐沼橋まで来ました。ここからの眺めの想像図(❿)

今までの画像の中で、いちばん手がかかったと思います。

目の前にあるものを消去して、対岸の農産物直売所が見えるように作り込むのに苦労しました。

とはいっても、素人の加工なのでそんなに上手くはないです。

ハスを見る橋の出入口をこちらに作ったら、もう少し見栄えが良かったのですが・・・。

元画像を見ていただければ分かりますが、半日かかってかなり加工しています。

電柱と電線を消すのが結構めんどうでした。

目の前の赤い屋根の家は、沼なので全部消去し、農業ふれあいセンター周りの施設も沼面とします。

対岸を作って、農産物直売所を貼り付け、こちら側の柵を加工し、不自然ながらそれらしく仕上げました。

長くなりましたが、最後までご覧いただき有難うございました。

自分の花画像は、特殊なレンズを使っていて、あまり他にない絵面が多いです。

散歩で撮った画像も、折角なので今まで誰もやっていない絵面を、と思い作ってみた次第です。

まだ図書館等は訪れていませんが、干拓前の伊佐沼写真の実物もぜひ探してみたいです。

 

花の画像を撮りに行く回数が減っており、ブログ記事のネタが乏しいです。

それに対して、散歩の画像は結構あり、記事なんとなく出来ております。

打ち切ってしまいましたが、花の画像のつなぎとして、散歩画像を載せることもあるかも知れません。

出来れば焼き直しでない、今まで誰もブログにしていない事項を、ひとつでも盛り込んでいきたいです。

どうぞよろしくお願いいたします。


伊佐沼散歩❸まぼろしの風景

2020-06-30 07:55:55 | 探求散歩

伊佐沼散歩、いろいろ調べていたら3回目になってしまいました。

そもそも、伊佐沼が埋め立てられる前の画像を探していて思わぬ道草。

結論から言うと、干拓前の伊佐沼の写真をネット上で見つけることは出来ませんでした。

残念ですが、仕方がありません。

 

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写真がないなら、自分で想像して作ってみるしかない。

もし、伊佐沼が干拓されていなかったら、どんな風景になっていただろう。

5月に散歩がてら伊佐沼に出向いて画像を集めてまいりました。

これをもとに「まぼろしの伊佐沼」を再現します。

まず、どんなカタチになるでしょうかね?地図上で水路を生かしつつ沼部分を決定。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

航空写真の上に沼を復元。消えた沼部分が「令和」の時代に復活。

「地理院(単写真)」より加工 https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

さて、広くなった伊佐沼の風景をのぞいて見ましょうか。

農産物直売所の前の道路から伊佐沼対岸を望む(❶)。

現在の伊佐沼北端部の東側です。今回は東側から北上してみます。

道路が無くなってしまったので、柵を設けてみました。

ハスの葉もまだ出ていない時期の撮影です。残念ながらハスを見る橋は消してしまいました。

対岸に薬師神社が見えますが、道路がないだけでイメージが変わりますね。

 

次は(❶)の撮影点から北西側を望んでみました(❷)。

右手に見える建物は農産物直売所になります。

伊佐沼代用水路(左側)、鴨田排水支川(右側)の間は少し陸地が突き出す感じを再現。

あまり上手くないですが、現実は木や建物で対岸は見えませんね。

画像は広角レンズを使用しているので、電柱や木が少しオーバーに見えます。

今回、画像を元の画像を撮影した場所と方向は下の通りです。

本記事では❶~❺まで掲載です。❻~❿は次回分です。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

北に向かって少し歩いて行くと「ふれあい農園」の看板が見えてきます(❸)。

「ふれあい農園」は平成4年(2002年)に開設されましたが、その前は田んぼ、ずっと前は沼。

沼の想像図では南側の護岸をはめ込んでみました。看板は比較のため残してあります。

よく見ると分かるのですが、車の屋根部分を消すのを忘れてしまいました。

何となくいまひとつなので、同じ地点の画像をもう一枚作ってみました。

今度は曇りの日です。寂しいので木も植えてみました。

如何様にでもなるのが、想像の世界です。

当然のことながら、畑が沼に変わってしまうとすごくインパクトがあります。

 

さらに沼沿いを歩いて行くと、川が流れ込んできます(❺)。鴨田排水です。

本来、この川は伊佐沼に入らず、バイパス(逆サイフォン)して九十川に合流するのですが・・・。

細かい所は想像の世界なので、気にしない。

沼との接続部分と考え、柵は消去してしまいました。

昔はこの辺りで旧赤間川が伊佐沼に流入していました。

しかし伊佐沼の干拓により、西側の鴨田排水支川に繋がります。

後記:伊佐沼干拓の時期は昭和9~13年の間と言われています、「荒川右岸土地改良区誌(1982)」では、昭和11年には完成していたと記載があります。

さらに赤間川は、昭和13年(1938年)に新河岸川と繋がれて縁が切れ、樋管によって通水していたようです。

画像を載せるとすぐ長くなってしまいますね。

干拓前(昭和初期)の画像がインターネットでは見つからなかったので、

もし埋め立てられなかったら?現代に昔の沼を甦らせてみました。

今回は東側でしたが、次は西側(❻~❿)から見てみたいです。