今回の散歩のテーマは、昭和初期まで川越伊佐沼の水源だった「旧赤間川」です。
川を遡ろうとスタート地点に立ったものの、いったん下ってしまいました。
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「旧赤間川」の行き着く先が分かったので、気を取り直して再スタートです。
図書館から「芳野村郷土誌考」「荒川右岸土地改良区誌」を借りてきましたので、参考にしながら歩きますよ。
今回はこんな感じで歩きました。距離にして100mほど。
画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap
四ツ谷橋のたもとの堰です(❶)。名前は不明です。
昭和36年(1961年)の航空写真では、はっきり確認できます。
昭和31年(1956年)は判別しにくく、昭和21年(1946年)にはありませんでした。
この堰は、昭和30年代からのモノか、作り替えられたモノかは分かりません。
堰から上流を眺めています(❷)。
ここから遡っていきます。写真は7月後半のものです。
5月頃から調べていたので、快晴の絵面もあるのですが、最近、草刈りがあったので見やすいものを主に使います。
歩き始めてすぐバス停がありました(❸)。「伊佐沼入口」だそうです。
入口にしては、伊佐沼まで500m以上あって、けっこう遠くて沼は見えません。
しかし昭和初期、干拓前の伊佐沼はここから見えたはずです。
こんな感じでしょうか?「伊佐沼入口」という名前は、昔は全くその通りだったということです。
今回の撮影地点のおさらいです。
画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap
バス停を過ぎると、教会の建物を挟むように道が分岐していました(❹)。
「旧赤間川」沿いに歩いて行くと、分岐した道はまたひとつに繋がっているみたい(❺)。
反対側から見るとこんな感じ(❻)。側道は何か意味があるのでしょうか?
何かとても不自然に感じましたので、昔の地図と比べてみましたら、当時の道は一本だけです。
航空写真で比べてみても、県道の位置が変化しているのが分かります。
昭和36年(1961年)においても側道は無く、県道1本しかありませんでした。
航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html
昔の県道はカーブがきつくて、よく事故が起きていたのでしょうか?
緩やかなカーブになるように付け替えられています。
「旧赤間川」沿いの側道は、古い県道のラインだったのですね。
最初から真っすぐになるようにすればいいのにと思います。
でも、昔の伊佐沼は明治18年(1885年)県道により分断され、北側が干拓されたそうです。
干拓のために最短直線に「締切堤」を築いたので、繋がりが急カーブになったのでは?
幕末の頃はもっと伊佐沼が広かったらしい、ということに関係しているのではないでしょうか?
伊佐沼散歩❷さらに昔はもっと広かった? - 小さな花の輝く世界
さて、道路が拡張整備された年代はいつ頃なのでしょう?
県道なので、市の資料には無さそうです。当然、ネット検索にもヒットせず。
諦めかけていたら、なんと工事中の航空写真を見つけました。
昭和49年(1974年)年末の画像。この頃に完成したのは間違い無いですね。
航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html
今回の撮影地点の位置関係です。
画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap
位置関係は前後しますが、「旧赤間川」を遡り始めて最初の橋(❼)。
銘板が付いていないので、名前は分かりません(判明しました)。
後記:道路台帳を調べに行ったら「伊佐沼橋」と書いてありました。
これより南の、薬師神社のところの橋が「北伊佐沼橋」。変ですね。
時代とともに、何度も架け替えられているでしょうが、明治初期からこの位置には橋があったようです。
たった100mチョット歩いただけで、長くなってしまいました。
続きは次回にいたします。
記載したいことがいっぱいあるので、この分では長くなりそうです。
次回もどうぞよろしくお願いいたします。