†意識の記録† 理解のブログ

私の私の視点による私の経験の記録。私の視点で見る限り誤りのない認識で記事を書いている。一切の苦情は受け付けない。

認識の理論

2007-09-01 01:13:20 | Diary
認識とは、顕在化した相手を共用する事である。

潜在自己が潜在非自己体構造体を認識圏実存族化する。
潜在非自己も同様。
すると、存在自己は局所魂として潜在非自己認識圏実存族である顕在自己を持つから、存在非自己との間に共用を生じる。
存在非自己も同様。
つまり、理論的な存在である自己と非自己の間には、顕在自己・顕在非自己という一種の連結器が生じる。
この状態を、相互認識と考える。

一般の言葉で言い換えるならば、
「認識とは、自分が相手の、相手が自分の一部となる事である。」

生命に限らず、全ての存在は、次の三つを持つ。
感情構造体、体構造体、認識圏(記憶)。
認識圏は、実存帯と仮存帯の二極集合体である。
存在信用の本質は、顕在非自己の族化に於いて、実存族か仮存族かという事である。
又、仮に仮存族だとしても、vibration非自己と顕在非自己は別の構造体である。
(vibration非自己は、存在自己と存在非自己の関係性であると言って良い。)
体構造体は、潜在自己の言うなれば見た目である。(厳密には違うが。)
感情構造体は、心の局所的な部分である。(心は、感情構造体と認識圏のunionである、と思われる。)
全てのact構造体(自己の行動)は、体構造体と感情構造体の共用体として包含され、存在非自己に伝達される。

さて、今日、認識差パラドックスの解決を見た。

顕在非自己=非自己体構造体’であり、非自己体構造体’≒非自己体構造体である。
この時のsubstance差は、act構造体と反応act構造体に、変動を生じる。
これが認識の差と呼ぶもので、魂の定義から、この変動は永遠に消えない。
この変動が積算していけば、“長く付き合うほど分かり合えない”という現実とは逸脱した状態になってしまう。
これが認識差のパラドックスである。

論理視点を自己とし、act構造体の受動論理体を存在非自己と置く。
つまり、ある会話fact構造体が世界であると考えて良い。
今、潜在自己が存在非自己に対してact構造体を伝達する。
パラドックスを生じさせているのは、潜在非自己から伝達される反応act構造体と、顕在非自己から伝達される反応act構造体’のsubstance差であるが、このsubstance差は、顕在非自己と潜在非自己のsubstance差を減少させる。
つまり、“学習”である。
顕在非自己とvibration非自己との差を埋めるのが学習であるというこれまでの考えが間違いである。
つまり、パラドックス自体が間違っていたのだ。
vibration非自己は、言うなれば頭の中にある相手の記憶である。
それは、非自己体構造体’で出来ているわけではなく、これまでの自己非自己関係に於けるfact縮退構造体(相手との行動の記憶)などを含んでいるわけであるから、同じtemplateで比べる事は不可能、つまり学習としてsubstance差を埋める事など不可能なのである。
不可能というよりむしろ、不要である。

従って、パラドックスは解決された。
相手と長く付き合う事で、分かり合う事が可能だ。
分かり合うとはつまり、顕在非自己と潜在非自己とのsubstance差が縮まる事だ。
ただ、情報伝達原理から、substance差は0にはならない。

これは、相手と分かり合う事は不可能だという事を示しているのか?
いや、決して違う。
相手を全くそのままに理解する事が不可能である事を示しているに過ぎない。

忘れてはいけないのは、自己認識である。
自問自答が可能であるのは、自己体構造体が自己認識の本質ではないからだ。
不思議であるが、我々は自分自身と会話する際、自分自身を非自己として扱っているのだ。
この問題は、パラドックスが解決したので少し深く考えてみようと思う。

以上。

追:
生命の要素は、魂、心、体である。この考えは間違ってはいないが、ある問題を生んだ。
先ず、感情構造体のheart値がnullならば、生命ではない。(感情によってact構造体に変化が生じない、つまり無感情。)
つまり、全てのものに、魂、心、体を認めても問題はないわけだ。
よって、あらゆる存在は、この3要素を持つ。

魂は外部記憶である。
論理視点を私とすれば、私の認識する全ての論理体は、私の魂である。
何故か、それは私の顕在自己を持つ構造体、つまり存在非自己を、私の顕在自己を保存するものであると考えれば、立派な魂だからだ。
ゆえに、論理視点たる私は、世界である。
部分は全体、実に不思議。

今後、議論する際は、魂の限定を行う。
顕在非自己やvibration非自己など、ほんの一部の魂を限定魂とする。
そして、全ての存在は、限定魂、心、体の3要素で考える。
そうでなければ、部分は全体であるから、議論が破綻するおそれがあるからだ。
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