†意識の記録† 理解のブログ

私の私の視点による私の経験の記録。私の視点で見る限り誤りのない認識で記事を書いている。一切の苦情は受け付けない。

神の存在

2006-05-07 16:23:59 | Diary

テーマ:神は存在するか。

先ず、神の存在を考えた時、“神とは何か”が重要になる。
又は、何を持って神とするか。

例えば、“人間にはどうする事も出来ない事をする事が出来る存在”とする。
この例として、自然崇拝がある。。
実に単純だ。この発想であれば、神は存在する事になる。
他にも、キリスト教に代表される一神論全体がほぼこれに当てはまる。
キリストは串刺しにされても蘇ったし、モーゼは十戒を授かったし・・・
しかし、これは神の存在を認める上で構築されたものではないだろうか。
上記を認めたから、神を認めたのではなく、神を認めたから、上記を認めているのではないか。
これはどっちとも取れる、つまりは不毛な論理だ。
不毛な論理に証明は有り得ない。

ここで、論理をする上で重要な事がある。
物事には、“必ず原因と結果がある”と言う事だ。
“結果だけあり、原因が無い。と、するならばそれを神自体、又は神によるものと考える。”
と仮定しよう。

先ず、必ず確かなことがある。
以前、「論理するという事」の所で貴方の存在を証明した。
軽く引用すると、
仮定:
1.貴方はこの文章を見ている。
2.関数の実行には論理体の存在が不可欠。

「貴方は存在している。」
貴方は、“今”という時間に限定して存在する事が証明されている。
仮定2.は、動作をする為には原因となる動作主がいなければならないという事だ。
この部分を用いて考えよう。

では、貴方が存在しているのは何故か。
貴方が存在している原因は何か。
これは、生命繁栄を考えれば、貴方の両親が存在しているからだ。
ずっと遡り、猿やらなんやらよりもっと遡る。
すると、“一つの原始生命体”に行き着く。
何十億年も前に、“何らかの原因”で生まれた原始生命体だ。
その原因は特定できていない。
これを持って、“神が生命を作った。”つまり、神が生命を作るという動作をした。
よって、“神は存在する。”と考えられる。
何故、神は存在するか、その原因は何か。これは述べる事が出来ない。
よって、その存在は神であると言える。

無神論者なら、“生命はある特定の条件の揃った原始地球上で起きた落雷が誕生させた。”のだ。
と言うかもしれない。
それが間違っていると言う事は、今は出来ない。
つまり、“そうであるかもしれない。”と言える。
となれば、“この事によって絶対的に神が存在する、又はしていた、とは言えない。”となる。

この落雷が起こったのは、雲があるから。
雲があるのは、・・・
と遡れば、“地球があるから。”という原因に辿り着く。
ここから、また遡っていけば、“宇宙があるから。”に辿り着く。
“宇宙があるから。”つまり、“宇宙が存在している。”は、
全ての結果の、根源的な原因であると言える。
そう、貴方が存在しているのは、宇宙があるからだ。
では、宇宙があるのは何故か。
地球、太陽系、銀河系、乙女座銀河団、宇宙。
ここまで、単純なフラクタルを示すが、この上位がさらにあるのだろうか。
宇宙を含む、何かが。
それは、今の所分からない。

物知りであれば、又は宇宙に興味があれば、“ビッグバン”という言葉を聞いた事があるだろう。
“ビッグバンがあったから、宇宙があるのだ。”という人が居るかもしれない。
しかし、本当にビッグバンがあったのか。
それを証明できるかというと、出来ない。
定常宇宙論というものがあって、宇宙は不変と考える人もいる。
他にも、定常バン説、トーラス宇宙、四次元ワームホール、etc・・・
つまり、宇宙が存在している事は確かであるが、それが何故かは分からない。
黒体放射がビッグバンの証明だと言われていたり、なにやら複雑だ。
宇宙は無限なのか、有限なのか、それすらも分からないのが現状なのだ。

つまり、これらは全て仮説であり、証明されていない。
どれも可能性があって、どれが正しいとは今の所言えない。
これは他の全てに言える。

少し他の見方もしてみよう。
我々人類が、“全ての結果に対して、神以外の正確な原因を特定する事”が出来ないと証明できる。
なぜなら、結果Aに対して原因Bがある、結果Bに対して原因Cがある・・・
とやっていくと、キリが無いからだ。
つまり、この組み合わせ全体の集合は、“無限集合”なのである。
無限の数を、有限で解く事は出来ない。
又、人類が永遠(無限)に繁栄し続けると仮定しても、
“人類は永遠に結果に対して原因を特定し続ける。”と言えるだけで、
全ての結果に対して、全ての原因を特定する事は、永遠に出来ないのである。
不思議な事であるが、これは仕方ない。

もしかしたら、この論理自体が間違っているのだろうか。
全ての結果に原因があるという事自体が間違っているのだろうか。
そうであるかもしれないし、そうでないかもしれない。

では、根本に迫ってみよう。
“なぜ神などというものが考え出されたのか。”
どうでも良い。そう言ってしまえば楽かもしれない。
それは愚かというものだ。
愚かな者とは、理解出来ない事象をそう言って考えない人を言う。

我々人類は、理解出来ない事象、又はどうする事も出来ない事象を、
それ自体を神とする、又はそれを引き起こした原因として神を仮定し、
その存在を信じることで、つまり“神を存在させる”事で理解したのだ。

神が存在するとするならば、それは神を原因とした事象を仮定した場合。
つまりは、理解不可能なものを、理解する為に、神という存在を仮定した。
その原因が特定されるまでの期間、その事象の原因として存在する。
しかし、先に述べたように、“人類は永遠に結果に対して原因を特定し続ける。”のだ。
原因が特定されるまでの期間、神はその結果の原因として存在する。
特定された瞬間に、その原因を引き起こした原因として神は存在する。

神という存在、神というもの、それ自体は特定できないが、考える事が出来る。
“神の存在”は、“特定されない原因を神と呼ぶ”場合に限って、
“存在する”と言えるのである。
そして、どの場合に於いても、“この結果の原因は神ではなかった。”と証明された時、
その原因の原因として“存在が転移する”のだ。
これは永遠(無限)に繰り返される。

“神”は、“存在する”。
しかし、神を“特定する事は出来ない”。
なぜなら、特定されない原因が、神そのものだからである。

以上

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