東京に帰る前にちょっと寄り道して、近鉄ひのとりで大阪に着きました。ホテルは安定のアパホテル。もう少しでキャッシュバック可能ポイントが5万円分に届くので、たまったら現金化して何か美味しいものでも食います。
アパホテルにチェックインしたら、まずは滞在開始の儀式。
マントラを唱えながら、
を、
の状態に。
これさえやっておけば安眠間違いないです(笑)。
あの夫婦の目力の強い視線を受けながらだとおちおち寝ていられません。
閑話休題。
先ほど昼飯を食いながらSNSを覗いていたら「これ、覚えてますか?」と言うタイトルで、フォークの背に載せられたライスの写真。
この2か月余りの日記を読んでくださった方は、「逆差別、および逆差別的なもの」に反応するアンテナを僕が持っていることはそれとなく理解いただけると思います。自分が家族を持たないオスだから余計にそう思うことが多いのかもしれませんね。
マジョリティや長く正当性を持ってきた認識がその力を弱めたときに、そうでない側の力が強くなりすぎてしまうということに問題意識を持っています。
大きな枠組みで言えば、「そうでない側」はずっと虐げられてきたのだから少しぐらい行き過ぎたっていいという論理になるんでしょうけど、もう一方の側としては、大きな枠組みでのポジションはそうなんでしょうけど、自分自身がひどいことをしてきたわけでもないので、そんなこと言われてもなぁと理不尽な思いになりますね。
非常に卑近な例になってしまうのですが、先ほどの「フォークの背にライス」でその思いがよみがえってきたわけです。
そうです。僕はフォークの背にライスを載せて食べる人間です(笑)。
祖父母の兄弟には明治の頃(それ以前かも)から芸者置屋を営んでいた人もいたり、飲食店を経営していた祖父母自身も「ちんとんしゃん」の虚飾の遊び人ワールドに足を突っ込んでいたような人物だったので、そういう家に育った昭和一桁生まれの父親は当然、当時正しいと言われていたテーブルマナーにはうるさく(料亭などでみっともないことはできないので)、フォークの背にライスを載せて食べるマナーは僕らきょうだい全員が叩き込まれました。
何事も慣れです。僕らはそれが正式なマナーでも何でもないと判明した今でも、ステーキハウスなどに行くと全員が何事もなかったかのように雑談しながら普通にフォークの背にライスを載せていただきます。ステーキを食べたそのままの形でフォークを持ち替えることなくライスがいただけるのも、僕らにとっては非常に便利な点です。
きっとそれが正しいマナーだと言われていた頃にそれをしていなくて「行儀が悪い」だの「育ちが悪い」だの理不尽に揶揄されてきた方々の復讐および復讐DNAが根強いんでしょう、僕が人前でそうやってライスを食べていると、ことさらに「そんなのがいまだにマナーだと思ってるの?」とか「食べにくいのにやせ我慢すんなよ」とか、あからさまに揶揄してくる方がいらっしゃいます。
先人はともかく私自身はそれをひとに強要したこともないですし、それが正式なマナーだと言った覚えは一度もないので、そうやって攻撃されると「悲しい気持ちになります(やす子)」(笑)。
「決まったマナーがない」のなら、僕らがフォークの背にライスを載せて食べていても特に反応せず適当に流してくれればいいのになぁ、と思うわけです。メディアの記事にしたりして議論の種をまく必要もないのではないかと。
因みに、(育ちのいい)フランス人の友人たちとご飯を食べるときに僕がライスや崩れやすい副菜をフォークの背に載せて食べていると、「すごくステキなご飯の頂き方だね」とか「スマートでかっこいいね」とか言われますね。
「そんなマナーは存在さえしない。オカシイ。」とは言われません。
テーブルマナーの本来の目的が食べるときの所作が美しく見えて、他人の気分を害さないことにあるので、貴族でもない限りは結局「食べ方が美しいか、スマートか」と言う点さえ守っていれば何の問題もないんだろうな、と思うんですよね。
どうですかね。