アルゼンチンから砂漠の国へ

2005年~2009年のオリジナル記事に、シンガポール時代の記事と、2009年以降のアメブロの旅行記を転記しました。

Manado ダイビングツアー (1/3)

2020年06月17日 | 旅行
Manadoへ 
1996年4月4日
チャンギエアポートを出発した飛行機は、一路赤道の上を東に向かった。しばらくすると眼下にカリマンタン(旧・ボルネオ島)が見えてきた。蛇のようにジャングルをくねくねと伸びる川は土色に濁り、河口で扇形に拡がる土の色が海の蒼さに吸い込まれていく。

二回目のダイビング旅行は、スラウェシ島の北端メナドを選んだ。今回もプーケットと同じくHさんと一緒で、場所はチャイナタウンの旅行会社で適当に選んでもらった。ここが世界中のダイバーのあこがれの地だとは知らなかった。

シンガポールから約4時間、飛行機はやっとManadoに到着。まずイミグレーション(入国管理)。人懐っこそうなおじさんが、パスポートを見るなり、訛のある英語で
「おまえは日本人か?」と聞く。「そうです。」
(パスポートを見りゃわかるでしょ。)

「こっちに来なさい。」と別室に連れて行かれた。
(何かまずいことでもやったかな?)

「仕事かい?」「いえ、観光です。」

「お金が必要だ。」と、手を出す。

「何のお金ですか。」・・・「フレンドシップのしるしだ。」

「いくらですか。」「君次第だ。」と、やりあっていると、

心配してついてきたHさんが、「絶対出したらいかん。癖になる。」と横からサポートしてくれた。
結局30分あまり、押し問答したあげく、おじさんも根負けしてあきらめた。
たぶん、10000ルピア(当時日本円で約500円)でも渡せば、さっと開放してくれたと思うが、こんな日本人が多いからいいカモだと思われているのだろう。

外で、迎えのお兄ちゃんが待っているが、次に換金しなければならない。
Money Exchange窓口の担当者は計算が苦手なのか、一向に処理が進まない。1時間程度待ってやっと自分の番になった。財布の中には、日本円とシンガポールドルと、前回の旅行で余ったタイのバーツがあったので、まずはバーツを処理しようと出してみたが、受け取ってくれない。仕方なくシンガポールドルと日本円をルピアに両替した。どこの国の通貨でも換金できるシンガポールの両替商と比べ、やはりインドネシアだ。
(これ以降、旅行するときは、シンガポールで両替して行くことにした。)

飛行機が到着してから、2時間近くたってやっと外に出ることが出来た。
迎えのお兄ちゃんは、それでもニコニコと待っていてくれた。
車で一路、宿泊先のDiving Centerへ。


Diving Center

到着した所は、Manadoの市街から北に7Km、モラスビーチにあるNDC(Nusantara Diving Centre)。木立に囲まれたコテージが点在する静かなリゾート?のように見えた。部屋に案内されたら、ダブルベッドの一室。いくら二人連れでも男同士の旅にそれはないだろう。文句を言うと、次は3ベッドルームに案内された。部屋代が安い(US$35/Room 2食付き)ので、別々の二部屋を頼むことにした。今度は二階のベランダつきの部屋。気に入ったのでそこに決め、荷物を置いて、夕食後コテージの外の散策にでかけた。






近所の人たちが、外で夕涼みをしている。しばらく行くと、こんな田舎にはめずらしく、若い女の子が数人立ち話をしている。Hさんが早速話しかける。その中の一人が英語をしゃべることが出来て、高校2年生だと言う。家に入らないかというので、民家の様子はどんなものか興味もあり、お邪魔させてもらった。土壁には、ヤモリが何匹もいて、家族と共存しているようだ。1時間あまりもそこにいて、すっかり周りが暗くなったので、また昼間に近所を案内してもらうことを約束してコテージに帰った。周りに光がほとんど無く、漆黒の空に浮かぶ星の多さは、数十年前の子供の頃に見た田舎の空を思い出させてくれた。


部屋に戻り、ひとまずシャワーでもあびて、旅の疲れを落とそうとバスルームに入ると、水が出ない!! Hさんの部屋も同じ。フロントに文句を言うと、給水パイプのバルブが壊れているらしい。修理道具を持ってきて治そうとするが、夜はふけていくばかり。結局、修理のお兄さんをそのままにして、とりあえず寝ることにした。水道管を治す音が耳についたが、旅の疲れで、そのまま寝てしまった。

翌日、フロントにたのんでまた部屋を代えてもらった。今度は、部屋の外にシャワーがついて、ブロック塀で目隠しされているので、ダイビング用具を干すのには調度いい。

(続く)


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