あなたが好きです( I still do. )

写真付きで大好きなミュージシャンのライブや音楽を紹介するならgooブログ

魯迅

2022-02-19 07:18:39 | 日記
ウィキペディア
魯迅
中国の小説家、翻訳家、思想家

魯 迅(ろ じん、ルー・シュン)

1881年9月25日 - 1936年10月19日)は、
中国の小説家、翻訳家、思想家。
本名は周 樹人。

魯迅

誕生
周樹人
1881年9月25日

死没
1936年10月19日(55歳没)

職業
小説家
国籍
中華民国
活動期間
1918年 - 1936年
主題
小説
代表作
『阿Q正伝』
『狂人日記』
子供
周海嬰(長男)
親族
周作人(弟)
周建人(弟)
朱安、許広平(妻)

魯迅

浙江省紹興府の士大夫の家系に生まれた[1]。
父は周鳳儀、
母は魯瑞、
弟に文学者・日本文化研究者の周作人(1885年-1967年)、
生物学者の周建人(1888年-1984年)がいる[2]。

中ごくで最も早く
西洋の技法を用いて 
小説を書いた作家である[3]。

その作品は、
中国だけでなく、
東アジアでも広く愛読されている[4]。

日本でも中学校用のすべての国語教科書に
彼の作品が収録されている[4]。


生誕から日本留学時代まで

1881年に誕生。
幼い時は裕福な家庭だったが
父の死が原因で家が没落、
(👩『故郷』にそのまま書かれている。)

学問を尊ぶ伝統を残している家の長男。
18歳で南京にあった理系の学校に入学、
4年間を過ごす。
その間、厳復が訳した『天演論』などを読み、
新しい思想にふれる[5]。 

1902年、
国費留学生として日本に留学した[6]。
医学を専攻したが、
同時に西洋の文学や哲学にも心惹かれた[6]。
ニーチェ、ダーウィンのみならず、
ゴーゴリ、チェーホフ、
アンドレーエフによるなど
ロシアの小説を読み、
後の生涯に決定的な影響を与えた[6]。

ヴェルヌの科学小説『月界旅行』、
『地底旅行』の翻訳をする[6]。
1904年、
仙台医学専門学校の最初の中ごく人留学生として入学し、
学校側も彼を無試験かつ学費免除と厚遇した[7]。
特に解剖学の藤野厳九郎教授は丁寧に指導した。  

しかし、彼は学業半ばで退学してしまう[7]。
当時、医学校では講義用の幻灯機で
日露戦争(1904年から1905年)に関する時事的幻灯画を見せていた[7]。
このとき、母国の人々の屈辱的な姿を映し出したニュースの幻灯写真を見て、
小説家を最終的な自分の職業として選択した[8]。

その幻灯写真には
中ごく人がロシアのスパイとして
まさに打ち首にされようとしている映像が映し出されていた[8]。
そして屈辱を全く感じることなく、
好奇心に満ちた表情でその出来事をただ眺めているだけの一団の中国人の姿があった[8]。
のちに、はじめての小説集である『吶喊』(1923年)の「自序」に
この事件について以下のように書いた[8]。

「あのこと(幻灯事件)があって以来、
私は、医学などは肝要でない、と考えるようになった。
愚弱な国民は、たとえ体格がよく、
どんなに頑強であっても、
せいぜいくだらぬ見せしめの材料と、
その見物人となるだけだ。
病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、
そんなことは不幸とまではいえぬのだ。

むしろわれわれの最初に果たすべき任務は、
かれらの精神を改造することだ。
そして、精神の改造に役立つものといえば、
当時の私の考えでは、
むろん文芸が第一だった。

そこで文芸運動をおこす気になった。」
(竹内好(よしみ)訳『阿Q正伝・狂人日記』
(1955年)岩波文庫)

魯迅が幻灯を見た建物
「仙台医専六号教室」は、
1904年に建設され、
移築された後、
2021年現在実在している。

「魯迅の階段教室」には
魯迅と藤野先生の写真が掲げられている。
魯迅は「中央のブロック、
前から3列目の真ん中あたりにいつも座っていた」
とされ、江沢民総書記も着席した[9]。

東北大学構内には東北大学資料館があり、
魯迅記念展示室がある
(但し、阿部兼也と竹内好によれば、
ガラス絵で描かれたスライドに詳細に描かれることが
考えにくいことを理由に
フィクションである可能性があると指摘されている[10]。

更に、発見されたガラス絵の幻灯スライドには、
スパイ行為により死刑執行された様子を映すものはなかった[11][12][13]。

一方で、申彦俊によるインタビューよると、
映画館のニュース映画により銃殺された場面を見たことになっている。また、博文館発行の『日露戦争実記』[1905年12月13日号、最終号]では、
「満州軍中露探の処刑」の写真があり、
実際に旧日本軍による
ロシアのスパイに対する
斬首刑の執行がされている[13]。)

その後、(魯迅は)この時とばかり東京で
雑誌の出版事業を始め、
教訓的な内容の散文を文語体で書いた[14]。

それは中ごく人にダーウィンの進化論や
英雄出現を求めるニーチェの哲学を啓蒙する狙いであった[14]。

これらの散文は、
後に『墳』と名付けられた散文集に収められた[14]。
また、周作人が編集した2巻からなる
『域外小説集』のために3編の外国小説
(アンドレエフの2編とガーシンの1編)を翻訳した[14]。

しかし『域外小説集』の売れ行きは伸びず、
各巻20冊ほどだったという[14]。
文学出版事業の失敗に落胆した彼は、
1909年に帰国した[14]。

7年間の日本留学の間、
日本人の親友は一人もできなかった。

(👧魯迅はなぜ日本人の親友が
一人も出来なかったのだろう❔

👩『幻灯事件』。

「その幻灯(スライド)写真には
中ごく人がロシアのスパイとして
まさに打ち首にされようとしている映像が映し出されていた[8]。
そして屈辱を全く感じることなく、
好奇心に満ちた表情で
その出来事をただ眺めているだけの一団の中国人の姿があった。」

魯迅は、いままさに、
他国に打ち首にされようとしている中ごく人を
屈辱も感じずに、
好奇心に満ちた表情で眺めているだけの
自分(魯迅)と同じ生国の中ごく人たちのことを
魯迅は日本に居るあいだじゅうずっと
恥ずかしいと思い続け、
それが理由で
日本に親友が
一人も出来なかったのではないだろうか❔

魯迅に会って、
そのときの気持ちが知りたかったな。

👨ママ、君では無理だ。
お義父さんぐらいの年齢でないと
きっと無理だ。

Ques魯迅は何に屈辱を感じたのか❔
三卓で。
Ans①同胞が、いままさに、
敵の手によって打ち首に
されようとしていることに
屈辱を感じたのか❔

②同胞が、いたままさに、
敵の手によって打ち首に
されようとしているのを
端で、また別の同胞が
自分のしていること(好奇心に満ちた表情で眺めている自分自身)
に対して
好奇心に満ちた表情で眺めること自体を
端から見れば恥ずかしいことだと思わないで
平然と眺めていることに
魯迅が恥ずかしいと思い、
穴があったら入りたいと思うほど
日本人の医学性のクラスメートたちに
恥ずかしかったのか❔

③ ①と②の両方なのか❔
僕にもわからない。


かろうじてある教師(『藤野先生』)
を尊敬しただけだった。
👉️帰国後も、(魯迅は、)
👉️民族や国家の大原則にかかわる問題が生じた際には、
👉️必ず中ごく側に立ったと孫利川は述べている[15]。
👉️👉️👇️
👧民族や国家の大原則って何❔
👩「民族や国家の大原則」
と、スマホで検索しても
何も出てこない。
教えてくれない。
だからそうとう核心を突いた
質問なのだろう。

👨……👉️ということは、
窮地におちいった同胞のことを
自分のしている行為を
恥ずべき行為だとも感じずに
好奇心に満ちた表情で眺めている同胞を
魯迅は恥ずかしかった。

ウィキペディアの「屈辱」
という表現がわかりにくかった💦)



神奈川県鎌倉市にある円覚寺の塔頭
「佛日庵」には、
1933年(昭和8年)に
魯迅より寄贈されたというハクモクレンと
タイサンボクの木がある。


北京時代

帰国後は、(魯迅は)
杭州と紹興の中学校教師として
生物学の教師として過ごし、
1912年中華民国政府が成立すると、
教育部の事務官の職位に就き
北京に移り住んだ[14]。

(魯迅の)北京での最初の数年間は、
依然として隠遁者を演じており、
もっぱら中国文学の典籍研究に没頭することで
忙しい日々を送っていた[14]。
(その理由は、)
袁世凱ら軍閥が主導権を争う混乱した政治状況に失望したからといわれる[5]。

しかし、彼(魯迅)の文学への野望は、
文学革命によって再び蘇った[14]。

日本留学時代の友人であった銭玄同から要望され、
雑誌『新青年』の1918年5月号に、
小説『狂人日記』を発表した[14]。

『新青年』は、「民主と科学」をスローガンとして
1915年に創刊され、
文学革命の中核となった。
魯迅は、この小説の中で、
表では礼節を説く「儒教」が
裏では生命の抑圧者として「人を食」ってきたことを指摘し、 

「真の人間」となることを説いたと井ノ口後掲書は指摘する[17]。
同書は続けて、
「儒教」という暗黒の伝統社会と
その一員である自己を否定することで、
未来の子供たちには
自分たちがこれまで経験したことのない
人間らしい生活を準備しようとする
魯迅の精神と彼の進化論が横たわっているとする[17]。

翌1919年には、
『孔乙己』と『薬』の2つの小説を寄稿した[14]。
『狂人日記』がその一人称を用いた文体と食人批判という内容が
社会に衝撃を与えたが、
口語文としての技法や物語構成において未熟だったのに対して、
『孔乙己』と『薬』は、
文体・構成とも優れており、
魯迅の作家としての実質的なデビューは
『孔乙己』と『薬』であると
後掲藤井書は指摘する[18]。

🌕️作家魯迅の最も優れた小説は、
🌕️第1集の『吶喊』と第2集の『彷徨』に含まれている[14]。

散文詩集『野草』とあわせて、
これらの作品は、
彼の創作力が最も充実していた
ペキン在住時代に書かれている[19]。

また彼は、中ごく語の小説では
一般的でなかった語りのモデルを、
自作において様々に試みている[20]。 

代表作『阿Q正伝』(1921年)では
章回小説のスタイルを一見踏襲しながら、
国民性の中に潜む卑怯や惰弱、軽率を
阿Qという形象に結晶させ[20]、

また、『孔乙己』(1919年)、
『傷逝』(1925年)では
物語る主体である
「私」の物語内容に対する認識や責任のあり方を問い、
物語を聞く読者(知識人層)にも同じ問いを突き付けた[20]。

1920年秋から1926年夏まで、
ペキン大学ついで北京女子師範学校の講師をつとめ、
中ごく小説史を講じる一方、『祝福』をはじめとする短編小説や散文詩を執筆発表した[21]。しかし、1925年には北京女子師範大学で学園紛争が起こり、

🌕️学生処分に反対する魯迅は
🌕️処分派の論者と大論争を展開、
これを機に彼は雑文(論争文)に力を注ぐようになる[21]。

1926年3月、 
日本の内政干渉に強硬な態度を採るよう
政府に求めよと抗議する学生・市民に対し、
軍隊が発砲して47名が死亡する「3.18事件」が起きると、

🌕️魯迅は政府を激しく批判した[22]。
これに対し軍閥政府は
魯迅を含め50数名を指名手配者として
リストアップした[22]。
彼は、日本人やドイツ人が経営する
病院に潜伏を余儀なくされた[22]。

避難生活は5月には終わるが、
その年8月ペキンを離れ、
福建省にある厦門大学の中国文学の教授として迎えられた[22][19]。
しかし、当時人口が11万7000人足らずの厦門は、
魯迅にとって居心地の良いものでなく、

翌1927年1月には、
北京女子師範大学の教え子であった
許広平のいる広州に移り、
中山大学文学系の主任兼教務主任の職に就いた[23][21][24]。

広東省の省都である広州の当時の人口は81万人、
中ごく5番目の大きさの都市であった[23]。

中山大学助手となった許と、
郊外の新築マンションで
別室ながらも同じユニットに住み始めた[23]。

ただし、この町でも反共クーデターが起こり、
❌❌多くの学生達が逮捕され、
❌❌虐殺されてゆく中、
🌕️精一杯の抗議として、中山大学の職を辞した[25]。



上海時代
1927年、許とともに密かに汽船で広州を脱出し、
(👩故人西のかた黄鶴楼を辞し、
煙花三月 揚州に下る。
👴それは孟浩然。
魯迅は揚州でななくて広州。)

10月3日上海に着いた[26]。
1929年9月には、長男が生まれ、
彼は「上海で生まれた嬰児」という意味で、
「海嬰」と名付けている[26]。

❇️1930年代の魯迅は、
❇️国民党政府によって、
❇️その作品を
❇️しばしば発禁処分にされた
❇️反体制文学者であった[27]。

しかし当の魯迅は、
許広平と上海郊外のおしゃれなマンションで同棲し、
子供が生まれると一家で毎週のようにハイヤーで上海都心の映画館へ通い、
当時はやりのハリウッド映画を多くみている[27]。

1930年代上海では、
近代的市民社会が形成されつつあったことがうかがえる[27]。
同時に上海では、
新聞発行部数の急増が物語るように
大衆文化が萌芽期を迎えていた[27]。

上海メディアは文化情報ばかりではなく、
センセーショナルな話題も提供して、
多くの読者を獲得しようとした[27]。

そのため魯迅の私生活もゴシップとして報じられている[27]。
妻を北京の母の下に置いて、
17歳年下の教え子(許広平)と
同棲する魯迅像が、
国民党系メディアによって流された[27]。
その一方で、
外国美術に関する旺盛な翻訳、
復刻、評論活動も始めている[28]。

幼年期から美術に深い関心を
寄せてきた彼であったが、
上海移住後は内山書店を通じて
日本や欧米の美術書の入手が容易になったためである[28]。

同時に木版芸術の
「民衆性」にも着目するようになった[28]。
廉価な費用により一枚の版木から
100枚以上の絵を刷りだすことができる版画は
民衆のためのすぐれた芸術手段であり、
革命の武器ともなりうると考えた[28]。

さらに、
❇️文学者としては
❇️国民党独裁体制を厳しく批判し続けた[29]。

魯迅は、1936年10月19日上海にて、
国防文学論戦のさなか、
持病の喘息の発作で急逝する[28]。

魯迅逝去のニュースは全中ごくへ
直ちに報じられ、
その日のうちに
孫文未亡人である宋慶齢の参加を得て
葬儀委員会の名簿が作成されている[29]。

当初は、蔡元培、宋慶齢、毛●東、
内山完造、アグネス・スメドレー、
茅盾ら9名の名が挙げられ、

のちに周作人が加わって総勢13名となった[29]。
10月22日武装警察が出動するなか、
巴金、胡風らの青年作家が出棺に際し
棺を担ぎ、万国公墓に葬った[30]。

中華人民共和国建国後の1956年には
魯迅旧居近くの虹口公園
(現在の魯迅公園)に改葬されている[30]。

魯迅の生涯
魯迅は生涯において、
小説集3冊、
雑文集17冊、
散文詩集1冊、
回想記1冊を刊行したほか、

『中国小説史略』をはじめとする研究書や論文、
さらに膨大な翻訳を残した[31]。

このなかで圧倒的な量にのぼるのは
雑文集である[31]。
とくに、
1927年から始まり
1936年に病没するまでの
上海時代は、彼は教職に就かず、
フリーの文学者・思想家・論争家として生きた[31]。

毒舌的なレトリックを駆使した雑文を
矢継ぎ早に発表し、
多岐にわたる論敵に厳しい攻撃を加え続けた[21]。

古典文学者あるいは小説家として
大成する途を棄て、

論争の現場に身をさらしながら、
転換期を闘い抜いた[31]。

魯迅と漢字
❇️魯迅は、
❇️中ごくの近代文学の元祖であり、
❇️同時に国民精神の改造を
❇️生涯の課題とした作家である[32]。

漢字(当時の漢字は主に康熙字典体である)に対して、
「漢字が滅びなければ、
中ごくが必ず滅びる」と断言し、
以下のように述べている[33]。

「この四角い字(漢字)の弊害を伴った遺産のお陰で、
我々の最大多数の人々は、 
すでに幾千年も文盲として殉難し、
中ごくも 
こんなほかの国ではすでに
人工雨さえ作っているという時代に、
我々はまだ雨乞いのため蛇を拝んだり、
神迎えをしたりしている。
もし我々がまだ生きていくつもりならば、
私は、漢字に我々の犠牲になって貰う外はないと思う。 」
(松枝茂夫訳『魯迅全集』(1956年)
岩波書店刊に所収されている)



中ごく共産党と魯迅

魯迅墓(上海市)

魯迅像(魯迅公園・上海市)

魯迅紀念館(上海市)

1936年撮影
魯迅の人生の最後の6年間は、 
左派的な理念によって育まれた多くの人にとって
突出した文化的英雄であった[3]。

彼の死後、ほどなくして
20巻からなる『魯迅全集』が出版されたが、

これは現代中ごく文学界における
空前の出来事であった[3]。

中ごく現代作家の中で、
このような栄誉に浴したのは
魯迅以外にはいない。

❌❌このような栄誉は、
❌❌中ごく共産党により作り出されたものである[3]。

❌❌国民党との奪権闘争を通じて、
❌❌かれ(魯迅)は
❌❌中ごく共産党にとって
❌❌人民に愛される反政府的な愛国主義を宣伝する代弁者として
❌❌非常に利用価値の高い存在だったからである[3]。

❌❌毛●東は、
❌❌国防文学論戦ですでに魯迅を盾にして、
❌❌党内の敵対派閥を叩くという巧みな戦術を展開していたが、
❌❌魯迅の死後には、
❌❌中ごく共産党統治の正統性を宣伝するために
❌❌徹底的に魯迅を利用していった[30]。

日中戦争開始直後の1937年10月、
共産党中央と中ごく紅軍総司令部が置かれていた延安では、魯迅逝世1周年を記念する集会が開かれ、毛●東が
「魯迅の中ごくにおける価値は、
わたしの考えでは、
中ごくの第一等の聖人とみなされなければならない」
と講演した[30]。

民国期の言論界で、
欧米・日本の帝国主義国に対し抵抗しつつ、
その近代文化を主体的に受容しようとした点、
および左翼文壇の旗手としての
❌❌国民党批判者としての「戦歴」により、
❌❌魯迅は中ごく革命の聖人へと祭り上げられた[34]。



作品原題一覧 編集
熱風
故郷
華蓋集
華蓋集続編

而已集
三閑集
二心集
偽自由書
南腔北調集
准風月談
花辺文学
且介亭雑文
且介亭雑文二集
且介亭雑文末編
集外集
集外集拾遺
集外集拾遺補編
小説
『懐旧』吶喊 -『狂人日記』、『孔乙己』、『故郷』、『阿Q正伝』等、北京時代の小説を収める。
彷徨
故事新編
朝花夕拾
野草  平凡社東洋文庫に全釈
書簡・評論
両地書  2つの土地の間を往復した書簡という意味の書簡集で、北京時代の魯迅と北京女子師範大学宿舎に住む許広平の間(その間2キロ足らず)で交わされた書簡をまとめたもの[35]
中国小説史略  平凡社東洋文庫(全2巻)で新訳
日本語作品集 編集
『魯迅美術論集』 全2巻、張望編、小野田耕三郎訳、未來社
『魯迅文集』 全6巻(代表作品集) 竹内好訳、筑摩書房、新版ちくま文庫
『魯迅全集』 全20巻(相浦 杲 ほか 編集)1989年、学研
『魯迅選集』 全13巻、岩波書店 新書版で訳文は古い。



魯迅と仙台

魯迅の留学時代の解剖学ノート。
藤野厳九郎の添削が書き込まれてある

紹興市から仙台市に送られた魯迅像(仙台市博物館)
仙台医専時代の魯迅を描いた作品に太宰治の『惜別』がある。

この「惜別」ということばは、
仙台医専時代に、
魯迅に個別添削を授けるなど
何かと気を配っていた恩師、
藤野厳九郎が最後に魯迅に渡した
写真の裏に書いたことば。

その藤野との関係は、
小説『藤野先生』に
以下のように描かれている。

「私(藤野)の講義、ノートが取れますか?」
とかれ(藤野先生)は訊ねた。

「どうにか」 
「見せてごらん」
私(魯迅)は筆記したノートをさし出した。

かれ(藤野先生)は(ノートを)受け取って、
一両日して返してくれた。

そして、今後は毎週持ってきて
見せるようにと
(藤野先生は私魯迅に)言った。

持ち帰って開いてみて、
私(魯迅)はびっくりした。 
同時にある種の困惑と
感激に襲われた。

私のノートは、はじめから終りまで、
全部朱筆で添削してあり、
たくさんの抜けたところを
書き加えただけでなく、
文法の誤りまでことごとく訂正してあった。
このことがかれ(藤野先生)の担任の骨学、
血管学、
神経学の授業全部にわたってつづけられた。

-中略- 

だが、なぜか私は、
今でもよくかれ(藤野先生)のことを思い出す。
わが師と仰ぐ人のなかで、
かれ(藤野先生)は
もっとも私を感激させ、
もっとも私を励ましてくれたひとりだ。

私はよく考える。
かれが私に熱烈な期待をかけ、
辛抱づよく教えてくれたこと、

❇️それは小さくいえば中ごくのためである。

❇️(藤野先生は私魯迅が医学覚えて記憶(記録)し、
私魯迅が中ごくに持ち帰ることで、)

❇️中ごくに新しい医学の生れることを
❇️期待したのだ。

❇️大きくいえば学術のためである。

❇️新しい医学が中ごくに伝わることを期待したのだ。 
❇️私の眼から見て、
❇️また私の心において、
❇️かれ(藤野先生)は偉大な人格である。
❇️その姓名を知る人がよし少いにせよ。
魯迅「藤野先生」訳は
竹内好❇️『魯迅文集』第二巻、
1976、p150・p154

仙台医専時代の魯迅旧居跡(解体前の2018年に撮影)

仙台医専時代の魯迅旧居跡碑(解体前の2018年に撮影)
魯迅は、1904年(明治37年)9月から1906年(明治39年)3月までの約1年半しか仙台にいなかったが、仙台市や東北大学では、様々な面で魯迅を通じた交流を中国と行っている[36]。中国人にとっては、東北大学・片平キャンパスにある(旧)仙台医専の「階段教室」がよく知られており、1998年(平成10年)11月29日には江沢民・中国共産党中央委員会総書記も訪問している。訪問した中国人は、魯迅がいつも座っていたとされる同教室の中央帯、前から3番目の右端近くでの記念撮影をしている。その他、同キャンパス内に「魯迅先生像」(1992年10月19日設置)、仙台城三の丸の仙台市博物館敷地内に「魯迅の碑」(1960年12月設置)と「魯迅像」(2001年設置)がある。また、「魯迅旧居」が片平キャンパス正門近くにあったが、2019年5月に解体[37]され石碑のみが残る。

2004年(平成16年)、東北大学は、魯迅の留学100周年を記念して、同大に縁りのある中国要人に『東北大学魯迅賞』、同大大学院に在籍する優秀な中国からの留学生に『東北大学魯迅記念奨励賞』を贈った[38][39]。ただし、諸事情により、翌年から各々『東北大学藤野先生賞』と『東北大学藤野記念奨励賞』に名称変更された。東北大学の創立100周年を記念して、魯迅と藤野厳九郎の胸像が仙台市内のキャンパスに設置された。また、2011年(平成23年)7月19日、東北大学史料館に「魯迅記念展示室」が設置され、9月28日にオープニングセレモニーが実施された。

青葉区米ケ袋にある魯迅が下宿した「佐藤屋」の跡地には石碑が建てられる程度であったが、中国人の留学生や観光客が訪れることから、留学100周年となる2004年に歴史遺産として整備するため市が地権者から土地を取得、2019年5月に木造住宅を解体し、2021年3月に「魯迅記念広場(仮称)」としてオープンする予定。









ウィキペディア
阿Q正伝
中国の魯迅の小説作品

文学
『阿Q正伝』(あきゅうせいでん/あキューせいでん)は、中国の作家魯迅の小説。1921年12月4日から1922年2月12日にかけて新聞『晨報』の週刊付録に一章ずつ発表されたもので、魯迅唯一の中編小説である[1]。阿Qという近代中国の一庶民を主人公とした、他に例を見ない物語として注目を集めた。

評価
阿Qという、おそらくはこれ以下はないであろう最下層の人間を主人公に設定し、それを縦横無尽に活躍させることにより、巧みな布置の中に農村社会ひいては全体社会のさまざまな人間タイプの思考や行動の様式を、浮き彫りにしている[1]。

特にこの作品を気に入った毛●東が談話でしばしば「阿Q精神」を引き合いに出したため、魯迅の名声が高まった[2]。後に中ごくの高校教科書に採用され、中ごく国民の多くが知っている小説である。また外国向けにも翻訳されている。
(👩中ごく国民の多くが、
『阿Q正伝』で魯迅が伝えたかったことを知っているなら、中ごくは今すでに民主化しているはずなのに。
私の想像の産物だが、
毛●東は妻の江青らに、
「魯迅の著書はヤバい‼️私たちの思想にかこつけてしまいましょう‼️」と耳打ちしたかもしれない。)


『阿Q正伝』あらすじ
時代が清から中華民国へ変わろうとする辛亥革命の時期、中ごくのある小さな村に、本名すらはっきりしない、村の半端仕事をしてはその日暮らしをする日雇いの阿Qという男がいた。

彼は、働き者との評判こそ持ってはいたが、家も金も女もなく、字も読めず容姿も不細工などと閑人たちに馬鹿にされる、村の最下層の立場にあった。そして内面では、「精神勝利法」と自称する独自の思考法を頼りに、閑人たちに罵られたり、日雇い仲間との喧嘩に負けても、結果を心の中で都合よく取り替えて自分の勝利と思い込むことで、人一倍高いプライドを守る日々を送っていた。

ある日、阿Qは村の金持ちである趙家の女中に劣情を催し、言い寄ろうとして逃げられた上に趙の旦那の怒りを買って村八分になり、仕事にもあぶれてしまう。食うに困って盗みを働き、逃亡同然の生活を続けるうちに、革命党が近くの町にやってきた事を耳にした彼は、意味もわからぬまま「革命」に便乗して騒いだ結果、革命派の趙家略奪に関与した無実の容疑で逮捕される。

無知ゆえに筋道たてた弁明も出来ず、流されるままに刑場に引き出され、あっけなく銃殺されてしまった阿Qに、観客達は不満を述べ立てるのだった。

背景
魯迅は日本に留学し、仙台医学専門学校(現東北大学医学部)で解剖学を学んでいた。ある日、教室で日露戦争の記録映画が上映される。その中にロシア側のスパイ容疑で日本軍に捕まった中ごく人が銃殺されるシーンがあり、刑場の周囲で同胞の銃殺に喝采する中国ごく人民の無自覚な姿に、魯迅は衝撃を受けた。この体験や心境の変化は、魯迅の小説『藤野先生』に描写されている。

あのことがあって以来、私は、医学などは肝要でない、と考えるようになった。愚弱な国民は、たとい体格がよく、どんなに頑強であっても、せいぜいくだらぬ見せしめの材料と、その見物人となるだけだ。病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、そんなことは不幸とまではいえぬのだ。むしろわれわれの最初に果たすべき任務は、かれらの精神を改造することだ。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文芸が第一だった。そこで文芸運動をおこす気になった。(竹内好訳『阿Q正伝・狂人日記』(1955年)岩波文庫)
これを契機に魯迅の関心は医学から中国の社会改革と革命に転じ、文筆を通じ中国人民の精神を啓発する道に入った。魯迅は本作で、無知蒙昧な愚民の典型である架空の一庶民を主人公にし、権威には無抵抗な一方で自分より弱い者はいじめ、現実の惨めさを口先で糊塗し思考で逆転させる彼の卑屈で滑稽な人物像を描き出し、中ごく社会の最大の病理であった、人民の無知と無自覚を痛烈に告発した。物語の最後で、まったくの無実の罪で処刑される阿Q、その死にざまの見栄えのなさに不平を述べる観衆たちの記述は、同胞の死刑に喝采する中ごく人同胞の姿にショックを受けた作者の体験を反映する。

阿Qの意味
「阿Q」は便宜的な名として作者が設定した仮名である。「阿Q」という主人公の名前は奇妙に思えるが、中ごく南部(魯迅は浙江省出身である)では、「阿」は姓の前につく接頭辞で親しみの表現であり、「―先生」と同様に、現在でも使われている単語である[3][4](中世から近代にかけての日本で女性名の多くが「お」に仮名2文字だったのと同じで、この「お」に相当する)。

「敬称#アジアの言語」も参照
従って、『阿Q正伝』は阿Qの情けない人物像にもかかわらず、「Qちゃんの伝記」といった意味になる。

また「Q」という漢字文化圏ではあり得ない名前については、阿Qは人々から「阿Quei(アークェイ/あくい)」と呼ばれていたが、Queiの部分の漢字表記がどうしても判明せず、また注音符号(注音字母)では一般に判るまいとして、やむを得ずローマ字を略した名前を用いる、と設定している[5]。

参考文献
竹内好訳『阿Q正伝・狂人日記』(岩波文庫、1955年、のち改版)。解説竹内好「『吶喊(とっかん)』について」
川本栄三郎 (1989年). “「阿Q正伝」の物語り文法 (PDF)” (日本語). 岩手大学. 2009年10月20日閲覧。
書誌情報 編集
『阿Q正伝・藤野先生』 駒田信二訳、講談社文芸文庫、1998年5月。ISBN 4-06-197616-8
『故郷/阿Q正伝』 藤井省三訳、光文社古典新訳文庫、2009年4月。








魯迅『故郷』あらすじ考察 封建的な格差が生み出す友人との隔たり
「散文のわだち」より。

2022.02.10 2021.10.02

魯迅の小説『故郷』と言えば、中学の教科書で読み親しまれる、代表作のひとつでしょう。

『阿Q正伝』や『狂人日記』など、魯迅の作品には、当時の中ごく社会を痛烈に批判した内容が含まれていることが多々あります。それは自国を思うゆえの、教訓のようなメッセージです。

本作『故郷』に関しても、当時の中ごく社会の実態が背景に描かれています。義務教育では教わらない、単なる郷愁とは異なる視点で、『故郷』の主題を紐解いていきます。

目次

1 『故郷』 作品概要
2 『故郷』 簡単なあらすじ
3 『故郷』個人的考察
3.1 時代背景
3.2 封建的な格差社会という隔たり
3.3 皿を隠した犯人
3.4 子供たちに託す希望
4 電子書籍での読書がおすすめ!
4.1 関連


『故郷』 作品概要
作者 魯迅(中ごく)
発表時期 1921年(大正10年)
ジャンル 短編小説
テーマ 封建的な格差の悲痛
辛亥革命後の中ごく社会

故郷/阿Q正伝
posted with ヨメレバ
魯迅/藤井省三 光文社 2009年04月
楽天ブックス
Amazon / Kindle
honto


『故郷』 簡単なあらすじ

主人公は20年ぶりに故郷に帰ってきます。かつては地主だった生家も没落し、家を引き払う必要があったのです。想い出の中では美しかった故郷はすっかり色あせ、人々の心さえも貧しく荒み果てていました。

主人公は、少年時代に仲良く遊んでいた閏土(ルントー)との再会を楽しみにしていました。生家が雇っていた小作人の息子である閏土は、少年時代の主人公にとって自分の知らない世界を教えてくれる特別な存在だったのです。ところが再会した閏土との間には、少年時代には感じなかった、地主と小作人という悲しい身分の壁が存在しました。

主人公は閏土との別れ際、 甥の宏児(ホンル)が、閏土の息子の水生(シュイション)と再会を約束したことを知ります。自分たちのようにうらぶれた世代とは異なる、新しい世代に期待を託し、明るい未来の存在を願うのでした。



耳で書籍を読むサービス【オーディブル】がおすすめです!

通勤通学中や、家事などの作業中に、ラジオ小説感覚で物語の朗読を楽しめます。

もちろん『故郷』もございます!

╲月額1,500円が30日間“無料”╱
※無料トライアル期間中はいつでも解約OKです。
【聞く読書】オーディブル
30日間無料体験を試してみる
『故郷』個人的考察

時代背景
1920年頃を舞台にした物語なので、辛亥革命以降の中ごく社会ということになります。

革命の成功によって、民主共和国を発足させたものの、実際は理想的な成果を出すことはありませんでした。富国強兵によって列強の侵略は進み、革命前の清朝末期よりもかえって困窮する結果になったのです。

これらの時代背景を踏まえると、主人公が生家を引き払うために帰郷したのは、まさに地主としての没落、国家の経済状況が窮している様子が想像できると思います。

主人公の記憶の中の美しい故郷のイメージとは裏腹に、風景はすっかり色あせ、人々の心も荒んでいました。豆腐屋の楊おばさんは主人公の足元を見て、意地汚く物品を乞う始末です。

これらは一様に、革命を起しても民政の困窮を救うことができなかった、当時の中ごく社会の悲惨な状況が関係しているのだと考えられます。

封建的な格差社会という隔たり
少年時代には隔てなく親しんだ閏土が、大人になって再会すると、「旦那様」という敬称によって主人公に身分の違いを感じさせました。

学校教育においては、少年時代の純粋な友情が、いずれ社会的な地位によって分断されるという残酷な運命を主題に取り上げていたように思います。地主の息子であろうが、小作人の息子であろうが、子供の頃は関係なく親しくでいたにもかかわらず、大人になれば「旦那様」という言葉が象徴する、明確な隔てが生じてしまうのです。

これは、辛亥革命以降も、いまだ封建的な考えから抜け出せない中ごく社会に対する批判であると推測できます。 実際に閏土は飢饉や税金や地主に生活を苦しめられており、地主と小作人との格差が拡大している実態が見て取れます。つまり、主人公と閏土の間に生じた隔たりとは、封建的な格差社会を象徴しているのでしょう。

少年時代の主人公にとって閏土は、自分の知らない知識を教えてくれる特別な存在でした。

彼等は本当に何一つ知らなかった。閏土が海辺にいる時彼等はわたしと同じように、高塀に囲まれた屋敷の上の四角な空ばかり眺めていたのだから。

『故郷/魯迅』
つまり、裕福な家庭に生まれただけで外の世界を何も知らない主人公に、塀の外にも空が広がっているという事実を教えてくれたのが閏土だったわけです。

封建的な格差によって人々を支配することによって、閏土のように知識や教養を持つ人間の未来を破壊している、そんな当時の中ごく社会に魯迅は警笛を鳴らしていたのかもしれません。


皿を隠した犯人
主人公の引き払う生家の灰溜に皿がいくつか隠してあり、 楊おばさんが閏土を犯人だと決めつける場面がありました。貧しい閏土がこっそり持ち帰ろうとしていたと言うのです。

この皿を隠した犯人についてはしばしば議論の対象になるのですが、恐らく楊おばさんの自演自作でしょう。そもそも閏土は、必要なものを持ち帰ることを許可されていましたので、わざわざ隠す必要がありません。小作人として幼いころから主人公の生家に仕えていたという信用や恩があったのです。

閏土に対する贔屓に僻んだ楊おばさんが、 彼を陥れることで自演自作の手柄にして、自分も物品を貰おうと企んでいたのだと思います。楊おばさんは頻繁に家にやって来ていましたし、足元を見て物乞いをする場面もありました。

困窮した当時の中ごく社会で民衆の心がいかに荒(すさ)んでいたか、という実態を物語に落とし込んでいたのだと思います。

子供たちに託す希望
甥の宏児(ホンル)が、閏土の息子の水生(シュイション)と再会を約束したことを知った主人公は、次の世代に希望を託すような心情を語っていました。 自分と閏土のように封建的な格差で分断されないでいて欲しい、という主人公の願いが込められていたのでしょう。

主人公は、香炉と燭台を持ち帰ろうとする閏土の偶像崇拝を内心で笑っていました。閏土は崇拝によって自らの苦しい境遇に救いを求めていたのです。ところが主人公は、子供たちの世代に希望を託す自分の行為も、手製の偶像崇拝であることに気づきます。つまり、次の世代に押し付けて、自分は何も行動を起こさない、他力本願の愚かさを訴えていたのでしょう。

希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、歩く人が多くなると初めて道が出来る。

『故郷/魯迅』
初めから道など存在しないのだから、まずは自分自身が歩いて道を作り、それがやがて理想の社会を築く希望になるのだ、という自国民に対する強いメッセージが込められているのではないでしょうか。

主人公と閏土との間に生じた封建的な格差の隔たりは、自分たちの歩み次第で、いずれ取っ払うことが出来るのかもしれませんね。










ウィキペディア
吶喊(とっかん) (魯迅)

『吶喊(とっかん)』は魯迅の第1創作集(短編小説集)である。

1923年8月に北京の新潮社[注 1]から出版された。1926年5月の第3刷から北新書局[注 2]が出版。 1929年まで15短編と自序からなっていた。1930年の第13刷から魯迅の意向で最後の「不周山」がはずされた。

「吶喊」とは勢いをつける鬨の声の意味。 魯迅のもっとも売れた作品集であり、藤井省三の推定[1]では正規版だけで14年間に約10万部が売れた。

出版背景
社会的背景
1911年10月 武昌蜂起から辛亥革命勃発。
1912年1月 孫文が南京で臨時大総統となり、中華民国成立。
1912年2月 清の宣統帝溥儀退位。袁世凱が臨時大総統。
1913年10月 袁世凱が大総統。
1914-8年 第一次世界大戦。
1915年1-5月 日本の対華21ヶ条要求。
1916年6月 袁世凱死。以後中ごくは1928年まで軍閥時代。
1919年1-6月 パリ講和会議、ベルサイユ条約。ドイツ権益は日本へ。
1919年5月 北京大学生が五四運動をはじめる。
1925年3月 孫文死。
文学的背景
1915年9月 陳独秀が『青年雑誌』を創刊。儒教批判を展開。
1916年9月 『青年雑誌』の2巻1号から『新青年』に改題。
1917年 1月陳独秀が北京大学文学部長。
『新青年』1月号(2巻5号)に 胡適が「文学改良芻議」で口語文を提唱。
『新青年』2月号に陳独秀が「文学革命論」で平民文学・写実文学・社会文学を呼び掛け。
1921年7月 中国共産党設立。以後『新青年』はその機関紙化。
1921年8月 魯迅の弟周作人らが「文学研究会」を発足。『小説月報』が機関紙。茅盾が編集長。
魯迅自身の生活背景
1912年5月 魯迅は臨時政府教育部とともに北京へ転居。
1913年4月 『小説月報』に処女作「懐旧」を発表。文語小説。1911年の革命中の中国の知識人や庶民を描く。
1913-6年 袁世凱の独裁時代には沈黙を保った。
1918年5月 「狂人日記」で創作を再開。
1919年11月 収入が安定し、北京の西直門内八道湾に家を買った。2人の弟家族をふくめた大家族住宅になった。
1920年8月 北京大学講師。
1923年7月 弟の周作人と不和。8月に八道湾から別宅に移った。
作品内容
以下の引用文は断りがなければ竹内好訳。

吶喊自序
1922年12月作。 以下の作品を作る事になった由来。中ごく国人の精神を改善する必要性があるからだ。

愚弱な国民は、たとい体格がどんなに健全で、どんなに長生きしようとも、せいぜい無意味な見せしめの材料と、その見物人になるだけではないか。(中略)されば、われわれの最初になすべき任務は、彼らの精神を改造するにある。
『狂人日記 』
初出は1918年5月号[注 3]『新青年』(4巻5号)

金心異(銭玄同)にすすめられて執筆。「魯迅」のペンネームを初めて使用。 狂人が主人公。儒教とは「礼教食人」であると知った。

どのページにも「仁義道徳」などの字がくねくね書いてある。おれは、どうせ睡れないから、夜半までかかって丹念にしらべた。そうすると字と字との間からやっと字が出てきた。本には一面に「食人」の二字が書いてあった。
孔乙己(コンイーチー)

初出は1919年9月出版の4月号『新青年』(6巻4号)。

科挙のための知識という現実には役にたたない知識を持ち、秀才試験[注 4]に受からなかったあぶれ者の孔乙己を描く。 ユーモアとペーソスに満ち、孫伏園(中ごく語版)(『晨報副刊』の編集者)によると、魯迅が自分で一番好きな作品と言った[2]。

『薬 』
初出は1919年5月号『新青年』(6巻5号)。

死刑囚の血をつけた饅頭を肺病の子供に食べさせたが、子供は死んでしまった。 (当時病気をなおすには人の血をたっぷりつけた饅頭を食べるのがよいという迷信があった。)

『明天 』
初出は1919年10月号『新潮』(2巻1号)。 日本語題は「明日」。

単四嫂子の家は母子家庭。その一人息子が死んでしまった。家はからっぽになってしまった。

『一件小事 』
初出は1919年12月『晨報』。 日本語題は「些細な事件」 「小さな出来事」。

魯迅の最短編。乗っていた人力車が老婆を引っ掛けた。ころんだ老婆を車夫が助け起こし巡査に届けた、それだけの事件。

『頭髪的故事 』
初出は1920年10月『時事新報副刊・学燈』。日本語題は「頭髪の故事」「髪の話」。

先輩Nの話。留学中に辮髪を切って故郷に帰ったら周囲からいやがらせを受けた。

『風波』
初出は1920年9月号『新青年』(8巻1号)。日本語題は「波紋」「から騒ぎ」。

1917年7月の張勲の張勲復辟事件が題材。清の天子様が再び位についたといううわさが流れる。じゃ切ってしまった辮髪はどうすればいい?

『故郷』
初出は1921年5月号『新青年』(9巻1号)。

魯迅は1919年12月に3週間帰郷した。20年ぶりに帰った故郷への期待と幻滅を描く。

日本の国語教科書にもっとも採用された魯迅作品。最後の文が有名。
「もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」


『阿Q正傳』
初出は1921年12月から1922年2月の『晨報副刊』日曜版に毎週または隔週連載。

阿Qには自尊心はあるが、自己満足するだけで、自分を向上成長させることができない。

魯迅の小説でもっとも長く、この典型的人物を作ったことで、魯迅の代表作とみなされる。

『端午節 』
初出は1922年9月号『小説月報』(13巻9号)。日本語題は「端午の節季」「端午の節句」。

『小説月報』の茅盾の依頼で創作。 当時の給料遅配に反対する1921年3月からの教員ストライキが背景。

方玄綽は教師で官吏(当時の魯迅自身の身分)。しかしどちらの給料も遅配になり金がない。どうやって端午節[注 5]を越すか。

『白光』
初出は1922年7月号『東方雑誌』(19巻13号)。

陳士成は秀才試験に16回落ちた。白光の幻覚が見えはじめ、宝が地中に埋まっていると考えて掘りはじめる。

『兎和猫 』
初出は1922年10月『晨報副刊』。日本語題は「兎と猫」。

弟夫婦が、つがいのうさぎを買ってきた。子うさぎがたくさん生まれた。そのうち2匹は猫にやられていなくなった。

『鴨的喜劇』
初出は1922年11月 『婦女評論』。 日本語題は「鴨の喜劇」「あひるの喜劇」。

ヴァスィリー・エロシェンコ(1922年2月-1923年4月に北京大学講師として北京在住)がおたまじゃくしを買ってきて池で飼った。あひるの雛も買ってきた。するとおたまじゃくしがいなくなった。

『社戯』
初出は1922年12月号『小説月報』(13巻12号)。日本語題は「村芝居」「宮芝居」。

11,2歳の頃、友人たちと船で隣村に芝居を見に行った思い出。

『不周山 』
初出は1922年12月『晨報』。 1930年に『吶喊』からははずされ、1936年に「補天」と改名し『故事新編』に収録。

女媧は退屈しのぎに人間を作った。しかし人間は戦争を起こし天地を破壊する。女媧は天の補修をし疲労で死んでしまう。

魯迅自身による解説
『華蓋集』内の「阿Q正伝の成り立ち」(1926年12月)
「阿Q正伝」はユーモア小説として書きはじめた。 多くの人が、次は自分がやっつけられる番ではないかと戦々競々としたものだ。
『南腔北調集』内の「私はどのようにして小説を書きはじめたか」 (1933年6月)
参考書もなく、昔読んだ百篇ばかりの外国の作品と、ごくわずかの医学知識を元手に、頼まれて書き出した。
日本語訳
最初の部分訳
1922年6月、「孔乙己」を、北京在住の日本人向けの週刊誌『北京週報』に、魯迅の弟周作人が翻訳[1]。
1923年1月、「兎和猫」を、魯迅自身が日本語訳し、『北京週報』に発表。
1927年10月、「故郷」を、武者小路実篤主宰の月刊誌『大調和』に翻訳。訳者不明。
全訳
井上紅梅訳 『魯迅全集』(全1巻)改造社 1932 ※『吶喊』と『彷徨』。「不周山」もふくむ。 『吶喊』分は青空文庫にも収録。
竹内好訳 『阿Q正伝・狂人日記 他十二篇 吶喊 』 岩波文庫 1955[注 6] ※竹内訳は同時期の河出書房や筑摩書房の文学全集などにも使われ、日本でもっとも読まれてきた。
高橋和巳訳 『世界の文学47 吶喊 他』 中央公論社 1967
松枝茂夫・和田武司訳 『世界文学全集93 吶喊 他』 講談社 1975
駒田信二訳 『世界文学全集44 吶喊 他』 学習研究社 1979
丸山昇訳 『魯迅全集2 吶喊・彷徨』 学習研究社 1984