…自分にとって避けては通れない話、心の中の整理も込めて。
自分の祖父が先日、死んだ。94才。8年前に脳梗塞を患い、最初は快方へ向かって行ってたんだけど、同時に齢も重ねていくため、徐々に体調を崩しがちになって、ついに痴呆も加わり…。ある日夜中に起きて、不自由な足を引きずりながら「郵便局へ行かなあかん」と言って、家中のあらゆる戸を開け回っていた。あの毎日が続いた時は…自分もかなり疲れていた。昨年、一時的な昏睡状態に入ってからは入退院を繰り返し…「肺炎の一歩手前」になったのは昨年秋。そこから徐々に衰弱していった。
2月に入り、医者に「あと一週間持つか…」といわれていたけど、最期は体力をすべて持って行かれたような感じだった。きっとしんどかっただろう。亡くなる前日の仕事帰りに見舞いに行ったんだけど、それとほとんど変わりない顔だった。動かなくなったのが信じられなかった。母親は気丈に「やっと楽になれたな…」と、じいちゃんに声を掛けていた。病院の人に処置をしてもらい、入れ歯を入れてもらうと、じいちゃんは笑っているように見えた。
式の細かなことは家族全員で「あぁでもない、こーでもない」と言いながら進めていった。自分には9つ(!)年齢が離れている弟がいて、自分と違って寡黙なコイツとは日常的にほとんど会話することもなかったんだけど、葬儀屋の人に、自分以上に色んなことを積極的に意見していた。心からエライ!と思った。その後、久々に色んなことを二人で話し合った。お互いで「こういう時が来た」というのを確認しあった。週が明けて、弟は仕事を休んで高野山へお参りに行った。
葬式には想像していたよりもずっと多くの人たちが来てくれた。式場は町内ながらも家から大分離れているにもかかわらず、近所の方はほとんど、自分の勤める会社からもひとり、近くに住む、自分が通った小学校の担任の先生まで…申し訳なくて頭が上がらなかった。先生には「お前はじいちゃんに十分すぎるくらい世話になったやろ?」と言われた。本当にそうだった。自分の家は共働きで、家に帰るといつもじいちゃんしかいなかったから。
出棺のあいさつの前、遺影を持つように言われた。子(父親)が位牌、その孫(自分)が遺影を持つらしい。そして生まれて初めて霊柩車に乗った。運転手がフォンを鳴らし、遠くから茶碗を割る音が聞こえ、多くの人がこちらへ向かって拝んでくれているのが見えた。不謹慎に聞こえるかもしれないけど-すごく美しい光景だった。こうやってじいちゃんをみんなが見送ってくれることに、心から感謝した。
斎場に向かうまで、小田さんの『さよならは言わない』がどういうわけか頭を離れなかった。「♪ずっと 楽しかったね…」。よく通る道が、どこか違った街のように見えた。荼毘にふされる間、自分だけ人目を離れ、少しだけ泣いた。そこを追いかけてきた息子に「大じいちゃんが死んだことで、何かを学びなさい」と伝えた。目が赤くなった自分を見て、息子ははっきり「はい!」と答えた。何を考えていたかは知らないけど、そのはっきりとした返事によって、自分はかなり報われた。息子には骨もちゃんと拾わせた。
…
じいちゃんとの細かな思い出を書いてしまうと、それだけでどこかへ行ってしまいそうなんで…今は書くのはやめる。ただ自分の中では楽しい思い出だけが残っている。写真は亡くなる少し前、まだ声を掛けると手を握り返していた時に撮った写真。かなしみはやがて消えていくけど、喜びや楽しかったことはきっと、いつまでも輝き続ける。ありがとう、じいちゃん。
自分の祖父が先日、死んだ。94才。8年前に脳梗塞を患い、最初は快方へ向かって行ってたんだけど、同時に齢も重ねていくため、徐々に体調を崩しがちになって、ついに痴呆も加わり…。ある日夜中に起きて、不自由な足を引きずりながら「郵便局へ行かなあかん」と言って、家中のあらゆる戸を開け回っていた。あの毎日が続いた時は…自分もかなり疲れていた。昨年、一時的な昏睡状態に入ってからは入退院を繰り返し…「肺炎の一歩手前」になったのは昨年秋。そこから徐々に衰弱していった。
2月に入り、医者に「あと一週間持つか…」といわれていたけど、最期は体力をすべて持って行かれたような感じだった。きっとしんどかっただろう。亡くなる前日の仕事帰りに見舞いに行ったんだけど、それとほとんど変わりない顔だった。動かなくなったのが信じられなかった。母親は気丈に「やっと楽になれたな…」と、じいちゃんに声を掛けていた。病院の人に処置をしてもらい、入れ歯を入れてもらうと、じいちゃんは笑っているように見えた。
式の細かなことは家族全員で「あぁでもない、こーでもない」と言いながら進めていった。自分には9つ(!)年齢が離れている弟がいて、自分と違って寡黙なコイツとは日常的にほとんど会話することもなかったんだけど、葬儀屋の人に、自分以上に色んなことを積極的に意見していた。心からエライ!と思った。その後、久々に色んなことを二人で話し合った。お互いで「こういう時が来た」というのを確認しあった。週が明けて、弟は仕事を休んで高野山へお参りに行った。
葬式には想像していたよりもずっと多くの人たちが来てくれた。式場は町内ながらも家から大分離れているにもかかわらず、近所の方はほとんど、自分の勤める会社からもひとり、近くに住む、自分が通った小学校の担任の先生まで…申し訳なくて頭が上がらなかった。先生には「お前はじいちゃんに十分すぎるくらい世話になったやろ?」と言われた。本当にそうだった。自分の家は共働きで、家に帰るといつもじいちゃんしかいなかったから。
出棺のあいさつの前、遺影を持つように言われた。子(父親)が位牌、その孫(自分)が遺影を持つらしい。そして生まれて初めて霊柩車に乗った。運転手がフォンを鳴らし、遠くから茶碗を割る音が聞こえ、多くの人がこちらへ向かって拝んでくれているのが見えた。不謹慎に聞こえるかもしれないけど-すごく美しい光景だった。こうやってじいちゃんをみんなが見送ってくれることに、心から感謝した。
斎場に向かうまで、小田さんの『さよならは言わない』がどういうわけか頭を離れなかった。「♪ずっと 楽しかったね…」。よく通る道が、どこか違った街のように見えた。荼毘にふされる間、自分だけ人目を離れ、少しだけ泣いた。そこを追いかけてきた息子に「大じいちゃんが死んだことで、何かを学びなさい」と伝えた。目が赤くなった自分を見て、息子ははっきり「はい!」と答えた。何を考えていたかは知らないけど、そのはっきりとした返事によって、自分はかなり報われた。息子には骨もちゃんと拾わせた。
…
じいちゃんとの細かな思い出を書いてしまうと、それだけでどこかへ行ってしまいそうなんで…今は書くのはやめる。ただ自分の中では楽しい思い出だけが残っている。写真は亡くなる少し前、まだ声を掛けると手を握り返していた時に撮った写真。かなしみはやがて消えていくけど、喜びや楽しかったことはきっと、いつまでも輝き続ける。ありがとう、じいちゃん。
「じいちゃん、ここは酷いところやで」って呟いてしまいました。
楽じゃないけど…生きてるもんね。しっかり生きないと。
生まれた時には既に両方の祖父が他界していた自分にとっては、少し羨ましくもあります。
(不謹慎ですね…ごめんなさい)
じいちゃんからのバトンを受け継いで、次の世代に繋いでいく責任があります。
昔も今も、生きていくのは楽じゃないけど、不器用でも少しずつでも、しっかりと進んで行こうね。
何とか頑張ってます。
凹んでばかりもいられないんで…ね。
でもほんとうにありがとう。
お疲れの出ませんように