八丈島の続き。
リゾートホテルのようなコテージで2泊して風土を楽しみ、温泉も、郷土料理も堪能した八丈島。東京へ帰る船は(いや、八丈島も東京都だが・・・)なぜか夜行でなく昼行便だ。1隻の船で回しているから、朝着いた船がそのまま戻るということなのだろう。それに何の設備もない埠頭に何時間もとどまっているのは無駄というものだ。
来るときは嵐、滞在中も晴れたり雨が降ったりと不安定な天候で、帰りの船が目の前の底土港から出られるかどうか朝になるまでわからない。宿の人に聞くと、旧八重根港発ということになったら朝車で送ってくれるというのでひと安心。
果たして、、、やっぱり旧八重根港だった。車で約15分、視界が開けると何もない埠頭に黄色い船が停泊しているのが見えた。
港のそばには岩と護岸に囲まれた旧八重根海水浴場がある。海水浴場と言っても遠浅の砂浜ではなく、深さ数メートルありそうな紺碧のプール。元は船着き場だったのではないだろうか。真冬のこんな曇った天気だとここで泳ぐなんてちょっと恐ろしくて考えられないが、晴れた夏日なら気持ちよいのだろうな。
ようやく乗船開始。雨がまたパラパラしてきたので急いで船へ向かおう。
タラップで直接乗り込むのが好きだな!船が身近に感じられる。
かすむ八丈富士。八丈島とお別れ。
海も結構荒れているので離岸したら早々に船内へ入る。。
行きしなは荒天のためスキップした御蔵島にも、帰りはちゃんと寄港した。港の背後がもういきなり断崖絶壁。。。本当に人が住んでいるのだろうか??と思ってしまう、見るからに過酷な自然環境だ。。
それでも昔からずっとこの島に住み続けている人々がいるのだ。
八丈島から御蔵島まで約3時間、さらに約1時間で三宅島に到着。御蔵島に比べると「まち」だなと思える。結構乗降客もいる。ここからだと竹芝まで6時間。うーん、これならバスで名古屋から東京へ行くのと同じぐらいか!?(笑)しかし台風や荒天になると船が出ず閉じ込められるわけで・・・島暮らしというのはちょっとあこがれるが、やっぱり私には無理かな(汗)
ところでこの船は「3代目」橘丸で(2代目という説も)、インパクトあるカラーリングは柳原良平氏のデザインである。ラウンジの壁に貼ってあった「柳原良平・西村慶明 ”橘丸”物語り」がとても面白かった。「私にとって船は鋼鉄の乗り物ではなく人である。友達である。ひとりひとりの船には人生があり、一生がある。・・・・」から始まる文章と、まんが形式で描かれた2代目橘丸の「一生」。柳原氏が少年時代から憧れ親しんできた2代目橘丸の引退に際して「橘丸に見せるために」描かれたという、愛情あふれる本。
鉄道から感情移入できる列車がなくなって、個々に顔があり愛着を持てるような乗り物はもう船のみだと常々思っている私だが、本当に、これを読んだら「船は人で、人生がある」と思えてくる。
東京湾汽船では伊豆大島の観光開発のために大型客船の就航を計画し、三菱神戸造船所の設計による当時斬新な流線形の船を建造。昭和10年進水、華々しくデビュー!速くてカッコイイ橘丸は多くの話題を集め大人気となった。
しかし、支那事変が起こり戦時に突入すると、改装され呉鎮守府所管の海軍特設病院船となる。揚子江で爆撃を受けて損傷、沈没の恐れがあったため座礁させられたあと、引き揚げられ復旧。その後はチャーター便として上海~南京~漢口航路に。大島航路の船が1隻座礁沈没したため橘丸は呼び戻され再び大島航路に就いたが、昭和16年、太平洋戦争がはじまるとまた陸軍に徴用。巡洋船が爆撃され沈没するのを横目に命からがら逃げ帰ったり、病院船なのに軍の命令で兵員や兵器を運んだり、国際法違反で拿捕されアメリカに取り上げられそうになったりと、戦争に翻弄された橘丸だが、何とか持ちこたえ、戦後再び客船へと大改装が施されて大島航路に復帰、東海汽船のフラッグシップとして活躍した。
同僚の船が世代交代していき、後継となるさるびあ丸が進水すると、橘丸の引退が決定、翌年1973(昭和48)年1月に最後の航海を行った後スクラップとなった。波乱万丈の人生。30ページのこのまんがを読み終えると、本当に橘丸が友達と思えてきた。
なお、現在の3代目橘丸は2014(平成26)年就航。活躍して先代に負けない伝説の船になるといいね!
レインボーブリッジが見えてくると10時間の長い船旅も終わりだ。ようやく東京へ戻ってきた。
冬なのでもう真っ暗だが8時前。行きも帰りも荒天の中走ってくれた橘丸、お疲れさま!ありがとう!
隣に並んでいたさるびあ丸。ほんとそっくりだけど、こうやって見るとさるびあ丸の方が客室が多いことが分かる。こちらは東京五輪のマークでも有名な野老朝雄氏のデザイン。2020年の新造船なのでこのデザインなのだな!
伊豆諸島の他の島にもまた行ってみたい。
おわり。