まちかど逍遥

私ぷにょがまちなかで遭遇したモノや考えたコトなどを綴ります。

市島邸を見学

2018-06-27 22:08:35 | 建物・まちなみ
4月の新潟の続き。

順番が入れ替わってしまったが・・・・福島潟で散策したあと、月岡温泉に行く前に市島邸へ立ち寄る。

市島家は兵庫県市島村に発し、溝口侯の新発田移封に随従して新潟に移り、薬種業により財をなした。
さっき見てきた福島潟は、古くから氾濫を繰り返してきており、長年治水と干拓が行われてきたが、1911年に
市島家の所有となっている。市島家は干拓、新田開発を大きく進め、全国でも屈指の大地主として栄華を極めた。


邸宅は140年前に7代目、徳次郎により建てられたもので、こちらの四脚門も140年前から一度も建て替えられて
おらず、1907(明治40)年に屋根を銅板葺に葺き替えられた他はそのままの姿を保っている。

庭の松はもっと古く、200年超の年月を経ていると、係の方が説明してくれた。

こちらの玄関は普段は使われることはなかった。


立派なケヤキの式台。


元米蔵が資料館になっており、福島潟の干拓などの市島家の功績についての資料や所蔵品などが展示されていた。
7代目の時に明治維新を迎えたが、動乱に翻弄され没落する家もあった中、新しい時代に適応して
政府と協力関係を築き、銀行の設立に尽力するなどうまく生き抜いた。
8代目は国立第四銀行の頭取、貴族院議員にも選出されるなど、政財界でも重要な役割を果たした。
最盛期には小作人が2600人、番頭が30人もいたというが、9代目のときに敗戦を迎え、農地改革などの
影響により市島家の経済基盤は大きく揺らぎ、福島潟も国に買い上げられ、家を存続することができなくなって
しまったということである。

裏の方から建物に入り内部を見学する。
市島家は質素倹約を家風とし、内部は簡素である。廊下の天井は茶室のように低くなっている。


廊下から分かれて「水月庵」と名づけられた茶室が。


茶室からは新潟県指定重要文化財となっている回遊式の庭園を眺めることができる。


市島邸は紅葉の名所で、秋には庭いちめん赤と黄色のグラデーションになるそうだが、この時期は地味(笑)。


茶室は池の上に張り出して建てられていた。


奥へ行くと洋風の部屋がひとつあった。


書斎として使われたこの部屋はカーペット敷きで、火鉢を組み込んだ八角形のテーブルが北国らしい。
折りたたみ椅子とライティングデスク、そして古いヤマハのオルガンなどが置かれている。いずれもコンパクトで
簡素だが美しいデザインだ。


ねじねじ脚のテーブル。


そこからさらに細い廊下を進むと帳場が。ここで番頭さんたちがお客の相手をしたとか。


市島家では使用人にも学費援助したり家を建てさせたり公私にわたり面倒を見ていたといい、人間味のある関係だった
ことがこの写真からも伝わってくる。使用人というよりも、学校の先生と生徒のよう(笑)
昔ここの職員だった人が今でもこの近くに住んでおられるそうだ。




さらに奥へ行くと、家族の生活の場であった建物「南山亭」がある。仏間には市島家歴代の霊をまつる大きな
仏壇が据えられていた。




書院の蝶の透かし彫り。


そこここにぶら下がる照明の笠は当時からのものと言い、皆違うデザインでそれぞれに美しい~~



お庭も散策。
大きな空き地には、以前「湖月閣」という建物が建っていた。湖月閣は冠婚葬祭などの公式行事のほか迎賓館として
使用されたが、1995(平成7)年の新潟北部地震により全壊し撤去された。他が大丈夫でここだけ全壊とは
不思議な気がするが、どうも構造的に弱い造りだったとか・・・

池のほとりに散在する小さな建物を見ながら梅林の脇をいちばん奥まで行くと「説教所」があった。


市島家は仏教の信仰が篤く、毎月僧侶を招き近隣の人々を集めてここで説教を行っていたとか。

伊藤家の豪農の館や齋藤家の別邸などとはまた違った、市島家の質実な家風をよく表す館だった。

続く

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