ぽんぽこタヌキの独り言 Solilokui dari Rakun Pompoko

日本を見て、アジアを見て、世界を見て、徒然なるままに書き記す、取るに足らない心の呟き

「マタハリ」=’Matahari'(太陽)のはなし

2016年11月01日 10時19分01秒 | Weblog

「元始、女性は実に太陽であった」これは婦人活動家「平塚らいてう」が、青鞜に掲載した記事の冒頭の句である。この句とは、恐らく関係ないとは思うけれど、実は「東洋のマタハリ」と呼ばれた「女性スパイ」が存在していたことはご存知だろうか。インドネシア語で「マタハリ」というのは「太陽」という意味であり、この’Matahari' という単語を、インドネシア語的に分解してみると、'Mata'=「マタ」が「目」という意味であり、'Hari'=「ハリ」は「日時」の「日」であることから「日中の目玉」=「太陽」ということだろうと推測される。

以前、「虹」という単語の比較で、「インドネシア語」の「プランギ」='Pelangi'に対して、同語族である「タガログ語」では、「バハグ・ハリ」='Bahag Hari' で「虹」を意味するとご紹介したけれど、この単語の後半の「ハリ」='Hari' について、インドネシア語の「太陽」に引っ張られて「太陽のふんどし」と誤った説明をしたかと記憶しており、ここで訂正をしておきたい。実は、タガログ語では「ハリ」='Hari' には「王」という意味があり、タガログ語の「虹」という表現の「バハグ・ハリ」='Bahag Hari' を分解してみると「王様のふんどし」=「虹」ということになる。同様に「太陽」を表す「マタハリ」='Matahari' は、「王様の目玉」=「太陽」ということになる。

実は、第1次世界大戦前後、「マタ・ハリ」='Mata Hari' (1876年8月7日-1917年10月15日)と呼ばれて、フランスのパリを中心に活躍したマレー系オランダ人の踊り子(ダンサー)、ストリッパーがいた。当時、マレー系国家でオランダに統治されていたのは、インドネシアだけであることから、彼女は、おそらくインドネシア人であったと推察できる。彼女は、第一次世界大戦中にスパイ容疑でフランスに捕らえられ、有罪判決を受けて処刑された。「マタ・ハリ」='Mata Hari' はダンサーとしての芸名であり、本名はマルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレ(Margaretha Geertruida Zelle)。世界で最も有名な女スパイとして、女スパイの代名詞的存在となっている。

また、第2次世界大戦時に、中国で暗躍して「東洋のマタハリ」と呼ばれている、和名「川島芳子(かわしまよしこ)」の名を持つ中国人が存在する。彼女は、1907年5月23日-1948年3月25日の生涯で、41年間にわたる激動の人生を全うした。彼女は、清朝の皇族であり、粛親王善耆の第14王女である。本名は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)、字は東珍、漢名は、拝名は和子。他に芳麿、良輔と名乗っていた時期もあるようだ。

彼女が、8歳のとき、粛親王の顧問だった「川島浪速」の養女となり日本で教育を受け、1927年に旅順のヤマトホテルで、関東軍参謀長の斎藤恒の媒酌で蒙古族のカンジュルジャップと結婚式をあげた。カンジュルジャップは、川島浪速の満蒙独立運動と連携して挙兵し、1916年に中華民国軍との戦いで戦死したバボージャブ将軍の次男にあたり、早稲田大学を中退後1925年「韓紹約」名で陸軍士官学校に入学していたらしい。彼らの結婚生活は長くは続かず、3年ほどで離婚。 その後、「川島芳子」は上海へ渡り同地の駐在武官だった田中隆吉と交際して日本軍の工作員として諜報活動に従事し、「第一次上海事変」を勃発させたといわれているが(田中隆吉の回想による)、実際に諜報工作を行っていたのかなど、その実態は謎に包まれている。なお、「芳子」は戦後間もなく中華民国政府によって漢妊として逮捕され、「銃殺刑」となったが、日中双方での根強い人気を反映してその後も生存説が流布された。中国人でありながら、日本人の養女となり、日本の高等教育を受けた、日本とかかわりの深い女性である。しかしながら、彼女は、人種というか、民族的には、全くマレーとは関係なく、従って、マレー語の異名が付けられる必然性はないのである。

マレー系オランダ人の彼女が、ダンサーとしての芸名を「太陽」=’Matahari’(マタハリ)としたのには、やはり、「太陽」の明るく、燃えるイメージを芸風としたかったのだろうし、恐らく、彼女のダンスには、激しく燃える情熱を表現するような激しいものではなかったかと推察される。そんな彼女の華やかな踊りの裏で、恐らく、間違いなく行っていた「諜報活動」が、フランスに一定の脅威となっていたがゆえに、処刑されたのであろうし、それでいて、「マタハリ」='Matahari'という彼女の芸名が「女スパイ」の代名詞とされたことは、彼女の「スパイ活動」自体が、或る意味で、高く評価されていた証ではないかと思われるわけである。

マレー語で「マタ」='Mata'は、「目玉」という意味であるが、「マタ・マタ」='Mata mata'で「スパイ」という意味になるから、偶然にも、「マタハリ」='Matahari' (太陽)という芸名が、「女スパイ」の代名詞とされるようになったことは、違和感なく、受け入れやすいような感じがする。

一方、「東洋のマタハリ」川島芳子は、西洋のマレー系オランダ人と比較すると、全く生い立ちは異なるわけで、彼女は、日中間の激動の狭間で生き抜いた女性であり、彼女の存在が「第一次上海事変」勃発の引き金となったということは、かなり、日本側の工作員として機能していたのではないかと推察されるのである。彼女に「東洋のマタハリ」という、「女スパイ」の代名詞としての「マタハリ」='Matahari'の名が冠されたことは、「女スパイ」としての活動について、一定の高い評価が与えられているわけだけれど、17歳で自殺未遂事件を起こした後、断髪し男装するようになり、 断髪した直後に、女を捨てるという決意文書をしたため、それが新聞に掲載された。芳子の断髪・男装はマスコミに広く取り上げられ、「男装の麗人」とまで呼ばれるようになり、それが、女性の男装ブームを引き起こすなど、当時の社会に一定のインパクトを与えたことなどから、彼女の活動の実態は、マレー系オランダ人という混血だったとはいえ、「ダンサー」という織業の裏家業として「諜報活動」をしていた元祖「マタハリ」='Matahari'=「西洋のマタハリ」よりも、ずっと謎めいており、その存在感、存在意義、そしてその影響力は、より大きく重要なものではなかったかと感じてしまうのである。

そして、最後に、冒頭に記載した婦人活動家「平塚らいてう」の生きた期間は、1886年から1971年である。この期間は、奇しくも、先に述べた「西洋」および「東洋」において、諜報活動を行った両「マタハリ」='Matahari'=「女スパイ」の活動時期とかなりオーバーラップしている。果たして、「平塚女史」は、「冒頭の句」を「青鞜」に掲載した時、彼女ら「2人のマタハリ(太陽)」の存在を認識していたのだろうか?

 


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