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ぽんぽこタヌキの独り言 Solilokui dari Rakun Pompoko

日本を見て、アジアを見て、世界を見て、徒然なるままに書き記す、取るに足らない心の呟き

仏教的「七」「五」「三」について

2014年08月11日 01時19分11秒 | Weblog

「七五三」といえば、毎年11月15日に行われている日本の年中行事であり、7歳の女の子、5歳の男の子、3歳の女の子の成長を祝う行事として定着している。そもそも、この「七五三」の行事の始まりは、「生類憐みの令」を出したことで有名な「犬公方」と呼ばれた江戸幕府第5代将軍である徳川綱吉が、その長男の健康を祈って開始したとされている。

ただ、本稿では、この「七五三」ではなく、「仏教の世界」の「七」「五」「三」に関係する話をあいてみたい。この「仏教」の「七」「五」「三」に思い至ったのは、実は、ある時、たまさか「我慢」という言葉の意味を考えていた時に、何となく、この言葉に「宗教的匂い」を感じたため、ちょいと調べてみようと思ったのがきっかけである。

まず、仏教の「七」とは何かというと、仏教には「七慢」というものがあって、「我慢」という言葉は、その中の1つなのである。以下、「七慢」をすべて挙げてみたいと思う。

 1.「慢」 (まん)   

     これは「他人と比べて、自分を誇ったり過剰評価して、思い上がる心」のことである。「家柄」「財産」

     「地位」「知識」「能力」「容姿」など比べることができる事柄については、何にでも起こりうる「煩悩」

     の1つである。同等の人に対しては、自分と等しいと認識したときの高ぶる心。

 2.「過慢」(かまん)  

     自分と同等の人に対して自分が勝っているとし、自分以上の人は、自分と同等とみなす心である。

 3.「慢過慢」(まんかまん) 

     勝っている人を見て、自分はさらに勝っているという「うぬぼれの心」。

 4.「我慢」(がまん)  

     自負心が強く、自分本位であること。すなわち「我が身をのみ頼みて人を侮るような心」である。

 5.「増上慢」(ぞうじょうまん)

     これは「悟っていないのに悟ったと思い、得ていないのに得たと思い、おごり高ぶる心」である。

 6.「卑慢」(ひまん)

     これは「非常に勝れている人を見て、自分が少し劣っていると思う心」である。

 7.「邪慢」(じゃまん)

   これは「間違った行いをしても、正しいことをしたと言い張り、徳がないのにあると思う心」である。

以上が、「七慢」と言われるものであるが、宗派によっては「八慢」とか「九慢」まであるらしい。

 「八慢」(はちまん)の場合は、

   「慢」「大慢」「慢慢」「我慢」「増上慢」「不如慢」「邪慢」「傲慢」の8つである。

この「八慢」のうち「七慢」にないのは、「大慢」「慢慢」「不如慢」「傲慢」の4つ、一方、「七慢」にあって「八慢」にないのは「慢過慢」である。これらのうち日本語に取り込まれているのは「我慢」と「傲慢」である。そして「傲慢」とは「驕り高ぶって人を見下すこと」である。「キリスト教」では「傲慢」は7つの大罪の1つに数えられる。「儒教」では、「恭」と「倹」が重んじられ、「傲」驕」「慢」は疎まれるのである。また,「七慢」の4番目に記載した「我慢」とは、仏教的には「我が身をのみ頼みて人を侮るような心」である。この意味は、現代の日本語における「我慢」とは意味が異なっている。現代の日本語における「我慢」とは、「耐え忍ぶこと」である。ただ、「我慢」という、この「耐え忍ぶ」という行為の「心の奥」に存在するものを「仏教的」に解釈すれば、「我が身をのみ省みて人を見下すこと」を態度に示さないように「耐え忍ぶ」=「我慢」するのであり、そこに「謙虚さ」は存在しない。日本語において、類似した意味で使用される「耐え忍ぶ」という意味を持つ言葉に「辛抱」という言葉があるが、これは、分解して考えると「『辛さ』を『抱え込む』こと」あるいは「『辛さ』を『抱き込む』こと」であり、少なくとも、そこに「慢」=「プライド」=’Pride' は存在しないのである。

もう1つ「九慢」というものがあるが、これは「七慢」や「八慢」とは少し「成り立ち」が異なっており、基本に「我慢」という概念があり、それを「主観的」に有する「勝」「等」「劣」及び「客観的」な「勝」「等」「劣」の「有」「無」で分類している。

 「九慢」(くまん)の「概念」は以下の9つである。

   「我勝慢」(がしょうまん)「我等慢」(がとうまん)「我劣慢」(がれつまん)

   「有勝我慢」(うしょうがまん)「有等我慢」(うとうがまん)「有劣我慢」(うれつがまん)

   「無勝我慢」(むしょうがまん)「無等我慢」(むとうがまん)「無劣我慢」(むれつがまん)

次の仏教における「五」であるが、これは「中華料理店」とか「餃子専門店」などに行くと、たいてい縁起担ぎの「四字熟語」を目にするだろう。「千客万来」「五福臨門」「商売繁盛」など、よく壁に書かれていたり、貼り付けられていたりする。これら「四字熟語」の「五福臨門」の「五福」がそれである。この「五福臨門」の意味は、文字通り「5つの福」が「門」=「玄関口」=「入口」にやってくるということである。 そして、この「5つの福」とは何かと言えば、それは以下の5つの「福」なのである。

「五福臨門」の「五福」とは、すなわち、

 1.長寿(長生き)      2.富貴(財産と地位)    3.健寧 (健康と平安)

 4. 好徳 (陰徳を積むこと)   5.善終  (臨終のときに心残りがないこと)

であり、これら「五福」がすべて「門」=「玄関口」=「入口」に集まってくれるのである。これら「五福」が集まってくれれば、幸せになれない者はいないだろう。そして、最後、仏教の「三」であるが、これは、みなさんが子供のころに読み親しんだ「孫悟空」が活躍する中国の16世紀頃、「明」の時代に大成した伝奇小説「西遊記」の登場人物を思い起こしていただきたい。仏教の僧侶である「三蔵法師」(「玄奘三 蔵」ともいう)が「サルの化身」である「孫悟空」、日本の「河童」に似ているが、「河童」ではない「水辺に棲む妖怪の化身」である「沙悟浄」、そして「猪の化身」である「猪八戒」の「3人」というか、「3匹」というべきか、これらの家来を連れて「印度」(インド)の「天竺」に向かって旅する物語である。そして、仏教的「3」というのは、この「3人」/「3匹」の従者とは関係はなく、彼らを従えた僧侶「三蔵法師」あるいは「玄奘三蔵」の「三蔵」という名前が仏教的「3」と関係があるのである。すなわち、この「三蔵」という名前は、「三学」と言われる「学問」を修めた者に与えられる「称号」みたいなものなのである。この「三蔵」という「称号」が与えられる / 「称号」を名乗れる条件となっている、修めるべき「三学」とは、以下の学問である。

 1.「戒学 」(かいがく)・・・これは「戒律」のことで、「戒禁」(かいごん)ともいい、「身口意」(しんくい)

                の「三悪」(さんまく)を止めて、「善」を修めること。「律蔵」ともいわれる。

 2.「定学」(じょうがく)・・これは「禅定」を修めることであり、心の散乱を防具ことで「安静」を維持する方法

                を修めること。「経蔵」ともいわれる。

 3.「慧学」(えがく)・・・・これは「智慧」を修めることで、「煩悩」の惑を破って、すべての事柄の真実の姿を

                見極めること。「論蔵」ともいわれる。

 すなわち、これら「律蔵」「経蔵」「論蔵」の3つの学問を修めることで「三蔵」を名乗ることが可能となり、「僧侶」としての「仏道」が完成するのである。私たちは「僧侶」ではないし、「三蔵」という「称号」にも興味がないので、別にこれら「三学」を修める必要性はないし、それを極める必要はないけれども、少なくとも、その意図するところの「方向性」とか「概略」には注目して、それにできるだけ沿った「生き方」ができれば、「五福」のうちのいずれかが「玄関口」の扉をたたいてくれるようになるかもしれない。また、「七慢」の「慢」についていえば、「思い上がりの心」であるから、「人間の生き方」として、「自慢」することなく、「傲慢」な態度を取らないように心掛け、「我慢」が必要なときは、「我」の「慢」=  ’Pride' を消し、それを「辛抱」に変えて耐え忍ぶ「謙虚さ」というものが必要ではないかと思うのである。

 

 

 

  

 

 

 


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