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かものはし通信

他是不有吾

いくじなし

2012-04-27 05:30:35 | 戯言
起業したい人のための入門セミナー、なるものに参加してみた。
会社を辞めて起業するにはどのような準備が必要か、どのような段取りで進めるか、などを簡単に解説してくれるセミナーである。

起業したい、という明確な意思があるわけではない。今の状況を打破するための一つの選択肢として、「起業」を意識している、という程度だ。
しかしセミナーを聴講しながら、以前より漠然と感じていたことがはっきりと形に、というより言葉となって内面に浮き上がってきた。
自分は「いくじなし」である。

起業することで、結果的に負け組へ転落すること、貯蓄が無くなること、金銭的な余裕がなくなり貧しい生活を余儀なくされること、それら全てが怖い。
本が買えない生活。旅行に行けない生活。映画にも美術館にも行けない生活。ファストフード以外のまともな外食もできない生活。
そうなるくらいなら、負け組に片足を突っ込んではいるがそこで何とかこらえ、豊かではないがそこそこに食え、収入の僅かでも趣味につぎ込めるサラリーマン生活を維持した方がよいのではないか、との思いがつきまとう。

故児玉清氏が、なぜそんなに本を読むのかと訊かれ、「自分はいくじなしだから。冒険できない自分は、本の中に冒険を求めているのだろう。」と答えていた。
「いくじなし」に善し悪しがあるとすれば、児玉氏のそれは善いいくじなしであり、自分のはその逆だ。
野卑ないくじなし。俗人のいくじなし。
これを打ち砕かなければ、残りの半生、惨めな思いを抱えて生きていくことになりそうだ。
打ち砕けるだろうか。もっと強くなれるだろうか。

消費者マインド

2012-04-24 05:13:07 | 戯言
朝日新聞に毎週日曜掲載される求人面。その冒頭に、各界の著名人が「仕事力」をテーマとして各々の考えを語った談話が記されている。
先週までの4週は、内田樹氏であった。

「キャリアの扉にドアノブはない」と題されたその主張は、今ちょうど読んでいる山口周氏の著書に通じるものがある。
「キャリアの扉は自分で開くのではなく、向こうから開くのを待つ。開いたらためらわずそこに踏み込む。」
要は就職前から適職、天職を探してもしかたない、ということだ。

そして今の若者が必死になって探している適職とは、即ち「最も少ない努力と引き換えに最も高い報酬を提供してくれる職種」であり、その、最低のもので最高のものを手に入れるのが賢い消費者だという「消費者マインド」が若者の全てのふるまいを支配していると。
最低の学習努力で最高の学歴を手に入れたものが、一番賢い学生。だから彼らは「大学では何も勉強しませんでした」と誇らしげに語るのだと。
「特技や適性を生かした職業に就きたい。」という若者の言葉は、言い換えれば「最小限の努力で最高の評価を受けるような仕事がしたい。」であり、更に言い換えれば「すでに自分が持っている能力や知識を、高い交換比率で換金したい。」であり、そこには労働を通じて自分自身を変化させ成長しようという意思はない、と。

まさにそれだ!と思わず膝を打った。
その「消費者マインド」こそ、ずっと感じてきた違和感に違いない。ミニマムの努力。ミニマムの行動。それで評価してもらえなければ、評価者側を「見る目がない」と非難する。
腑に落ちたから何か解決するというわけではないが、彼らは消費者マインドに侵されているのだと思えば、諦めもつくし対処法も考えようがある。
内田氏、さすがだ。ありがとう。

本日の新聞一面

2012-04-23 06:31:00 | 戯言
昨日早朝、山口県岩国市にある三井化学のプラントで、大きな爆発事故があった。
作業者1人が亡くなり、2人が重傷。近隣の別会社の従業員や居住者にも怪我人が出、爆風で窓ガラスが割れるなどの被害が広範囲で見られた。

これは重大な事故、ではないのか?新聞各社。
死傷者が出ている上に、映像や写真を見る限りプラントの損傷状況はかなり酷い。
にもかかわらず、一面には「トキ」やら「抗がん剤」やら「内閣支持率」やら。この事故の記事は、社会欄で小さく扱われているだけだ。

確かにトキの話題は、自然保護の観点からみれば重要かもしれぬ。
だがしかし、この爆発事故は、そこまで軽く扱われるほど重要ではないのだろうか。
地方の(しかも首都圏から遠い田舎の)工場で起こった事故など、中央の人間の興味の範疇ではない、と新聞各社が判断した、とは考えられぬか。
それは穿った見識だろうか。

嫌いな言葉:その3

2012-04-21 07:48:57 | 戯言
嫌いな言葉シリーズ:其の参
「勇気をもらった」「元気をもらった」

いったいぜんたい、いつから勇気や元気は他人からもらう物になったんだ?
こう言っておけば聞いている人が満足するから、とりあえず口にするのか?
「私はいい人!」と見せたいがために、口にするのか?

誰かに対する感謝の気持ちを表す言葉、感動を表す言葉、日本語にはもっと美しい表現が豊富にあるのだが。
安易にこの言葉を使う人々、自分の頭の悪さを露呈していると本当に気づいていないのだろうか。