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かものはし通信

他是不有吾

たかが漢字の読み方。されど葛藤。

2012-05-14 04:27:31 | 戯言
セミナーを受講した。講師の男性が、テキストに書かれていた「後発メーカー」を「ごはつめーかー」と読まれた。更にその後、「折衝」を「せっこう」と読まれた。

こういう場合、どう反応したらよいのだろう。大変熱意のある良い方だったので、その方が今後もご自身のあずかり知らぬところで恥をかかれるのは忍びない。何とか伝えて差し上げたいのだが。
もちろんその場でご本人に指摘するような礼儀知らずな出席者はいなかったし、後から伝えようとした人もいないだろう。
そんな漢字の読み間違いくらい誰でもあること、放っておけばいい、という考え方もあるのだが。。。

そういえば以前、「上司が『廉価』を『けんか』っていうんですけど、言ってあげた方がいいんですかねえ?」と後輩に相談されたことがあったな。
「相手のことを思いやれるなら、ちゃんと言ってあげた方がいいよ。その人は今ちょっと嫌な思いをするかもしれないけど、これからの人生ずっと自分の知らないところで恥をかき続けることを考えたら、言ってもらってよかったって思ってくれるよ。」
などと、偉そうなアドバイスをしたっけ。
だが、それも相手との信頼関係ができていることが前提だ。ちょろっとセミナーを受講しただけの自分が、講師に対してそれができるか? 否だな、さすがに。

昔小学校の道徳で、フィンガーボールの話があった。遠くの国からやってきた客人をもてなす、お城での晩餐会。客人はフィンガーボールの使い方を知らず、その水を飲んでしまった。固まる出席者。しかし同席していた王女様は、すかさず自分のフィンガーボールの水を飲む。さてこの王女様の行動は正しいか?
ちゃんと正しい作法を教えてあげるべきか否か、「自分ならどうする?」と考えさせる内容だ。
まさにこの、正しい読み方を教えるべき?の葛藤だ。
この歳になって同じことで悩むなんぞ、成長していない証だな

竹森俊平氏 「失われた20年 政治の責任」

2012-05-10 05:43:41 | 戯言
今朝の朝日新聞、13面に掲載されている竹森俊平氏のインタビュー記事に注目。
さすがに慧眼である。1997年に政治の失敗があったことは氏の著書で知っていたが、それだけでなく2005年の小泉政権時にも大きな失政があったとは。
この国の問題は、皆が痛みを分け合って国の立て直しを図るべきときに「政治のアウトサイダー」が無責任に夢を売り込み、民がそちらに流れて重要な改革を阻む、ということなのだと。それを性懲りもなく何度も繰り返す。
確かにそうだ。なぜ今、GDPの2倍もの政府債務残高が積み上がったのか。幾度も繰り返してきた失敗から目を逸らし続けていたら、本当にこの国は立ち行かなくなる。竹森氏は警鐘を鳴らしている。

強い語調でやたらに読者の不安や高揚を煽る、品のない経済書が毎日のように出版されている中、竹森氏が冷静かつ分析的、論理的に綴る書物は、貴重な存在だと思っている。
竹森氏の大学での講義を、一度でよいので拝聴してみたい。自分が学生の頃に受講した経済学の講義なぞ、恐らく比べものにならないほどお粗末だ。竹森氏の講義を受けられる学生は幸せだろう。

小田嶋隆氏のコラムの比喩について

2012-05-02 04:25:50 | 戯言
5月1日付朝日新聞夕刊の文化面、小田嶋隆氏のコラム「原発の『脱ぎ方』考えよう」に感嘆する。
言い得て妙、とはまさにこのことであろう。

そうなのだ。間違いなく国民の7割の一部分である自分は、「原発が嫌なら電気を使うな」的極論者の幼稚さも受け容れがたいし、「再稼働絶対反対!」と声高に叫んで休日に都内をどんちゃん騒ぎして練り歩いている人達にも与しがたい。(休日出勤している身になってくれ。)
最適な道を探しつつ、少しずつシフトさせて、全体観をもって安全でクリーンな電力供給ができる未来をめざす、なんてのがベストだろうに、なんでそこまで皆極端に走るんかいな。いや、両極の声ばかりが格段にデカいだけのことか。しかし声の大きい者が力を奮うのが今の日本だしなあ。
・・・などという頭の中のぼんやりとした思考を形に表すでもなく、日々つらつらと生きているのだが、その「ぼんやり」の靄をいきなり小田嶋氏に洗い流されて、貧弱な骨を晒してしまったような気になった。
この自分の貧弱な骨をもって、小田嶋氏の秀逸な「脱原発」比喩に対し、「そうなんです。私もそういうことが言いたかったんです!」などと口にできるものではない。しかし自分も感じていたこの厄介な問題を、こんなに愉快な表現で表すことができる、そう思うと、なんだかちょっと楽しくなったのだ。
こういう思考ができる人。こういう文章が書ける人。四角四面な自分には、ひたすら羨ましい。

田中慎弥氏を想う

2012-04-29 15:03:04 | 戯言
もう一度「これからもそうだ。」を読んでみる。
気になる本だ。田中慎弥氏も気になる。
好きな作家は?と問われれば、国内・海外問わず何人でも挙げられるが、気になる作家という人はそうそういない。

この本自体は出版社がマイナーなせいだろう、誤植が多い、昨今には珍しく天が切り揃えられていない、などが気にはなる。
(余談だが、装丁画だけでなく真ん中に牧野伊三夫氏の絵が綴じ込まれている理由がよく分からぬ。北九州出身の画家だからか? 本書に収録されている西日本新聞での連載と、関わりがあるのだろうか。絵にサインがなければ、田中慎弥氏が描いたのかと勘違いしてしまう。)

だがそんなことより、とにかくも強く「気になる」のが、著者だ。
芥川賞受賞時の談話のみならず、一度も就職したことがない、源氏物語の原文を2回通読した、といった氏の諸々の逸話は、報道などで耳にしていた。しかし幸いなことに、それ以上は知らなかったことが、氏のエッセイの、一文一文の重みを感じさせてくれたのではないかと思う。
「私はサラリーマンか公務員になりたかった。」と言い、そうなれなかったこと、そのための努力を怠ったこと、その結果として生存するために書き続けなければならないこと、そんな自身への悔悟を「手遅れ」と幾度も語る。
居酒屋で酒を酌み交わす会社員をみて、「この人たちにはかなわない、自分もこうなりたかった。」と言い、一年一日も休まず原稿用紙の枡目に向かって手を動かしながらも、作家は作品を書いて結果を出すことでしか責任はとれず、それができなければ生きていく資格が無い、と言う。

手遅れなのだから、この道を進むしかなく、そうでなければ死しかない。自分はこれで生きていくしかない。それを受け入れる。自分が変わることはない。変えるつもりもない。
本書全体から漂い来る仄暗さは、こんな氏の諦観から生み出されるものなのだろう。

ただ、このエッセイが書かれた思いが、受賞後にいわゆる売れっ子作家となった今、どう変わったのかが知りたくもある。


さて、amazonで氏の文庫をまとめて注文した。
単行本も今月新刊が出ているが、少し悩んで止めておいた。
これが正解。三省堂有楽町店で来月サイン会があると気づく。この単行本出版記念の、である。早速有楽町の三省堂へ電話し、本とサイン会の整理券を予約した。amazonで買ってしまっていたら、整理券を逃すところだった。
田中慎弥氏本人に会える。5月19日が楽しみである。

日本の小説を海外向けに翻訳するということ

2012-04-27 19:27:01 | 戯言
夕刊によると、「容疑者Xの献身」エドガー賞の最優秀長編賞受賞ならず、だそうだ。
東野圭吾の作品の中では、たぶんこれが一番気に入っているので、少なからず残念に思う。

候補作のひとつに挙げられていると報道があった際、まず「翻訳されていたのか!」と驚き、英語ではどんな雰囲気なのだろうと興味をそそられた。
Kindle3を持っているので、早速Kindle版を購入してみた。8ドル66セントだ。実にリーズナブル。
ダウンロードしてページをめくってみる。わずか2ページ目にして、「おや?」と気づく。

"Seicho Garden Park"

清澄公園のことか?
ずっと「きよすみ」公園だと思っていたが、そこは東京に出てきていくらも経たない田舎者。勝手な思い込みだったのか。「きよすみ」白河にあっても、公園の名前だけは「せいちょう」と読むのが正しかったのか。

・・・と首をかしげながらネット検索してみたが、何のことはない、「きよすみ」公園でよいのである。
つまり翻訳が間違っているのだ。
こりゃ酷い。いったい誰が翻訳したんだ。

訳者は Alexander O.Smith という人らしい。東野圭吾、宮部みゆき、京極夏彦、、、 おいおい、こんなにたくさん翻訳しているぞ。大丈夫か? つまり人材不足ということなのか。
いやいや、地名の読み方程度の確認を怠る訳者もどうかと思うが、そもそもこの翻訳を出版前に誰一人チェックしなかったのか?これを読み進めたら、一体どれだけおかしな訳が出てくるのだろうか。
たちまち読み進める気力が失せ、それきりKindleの中で開かれることもなくなったのであった。