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映画レビュー グレイテストショーマン

2022-08-17 03:12:00 | 映画レビュー











#グレイテストショーマン

台風10号の情報を見ながら自宅で鑑賞
批評家に酷評されつつ大ヒットし、劇中歌も何百万回も流された、という作品。
アメリカ南北戦争時代。黒人差別さえ全盛でましてや障害者、マイノリティへの偏見も福祉も現代とは全く違う頃の物語。
作品自体の面白さとは別に、LGBT という言葉ブームがこの映画と共に生まれて認知、浸透していった。
その便乗した社会運動とか人権団体とかポリティカルコレクトネスとかは鼻持ちならなくて好きになれないが、映画とは本筋とは別に観るものの心に刺さり
深く鮮烈に刷り込み、刻みつけられるシーンがほんの3カ所でも発見できて出逢えることができれば、その映画は自分にとって大成功であり大収穫だ。

そういう意味で、この作品は僕の胸にも大いに刺さり、シーンが鮮烈にリフレインしている。他の皆さんにもそんな位置付けの、いい映画だったのだと思う。

気に入ったので色々な関連情報や評論を聴いてみたがなかなか興味深く、底が深い。
映画評論家の町山智浩やオタキング岡田斗司夫の解説は実に役にたった。
興行師ピーターバーナムの史実、当時の社会状勢。ヘイトの圧力。
障害者や見世物フリークスとして彼に関わった団員たちの意外に幸福だった生涯。
実際の映画のアクターたちの造られた部分と実の部分。
エレファントマンやダンボなど他のメジャーな作品世界とリンクし共有される豊饒な作品背景・・。
そんな雑多でメタな情報を知った、というか理解したうえでこの映画を再見すると更に二度美味しく楽しむことができる。
いい本といい映画は、同じ良さと、違う楽しみ方があるものだ。どちらも自分には欠かせない人生の必須栄養素である(笑)














映画レビュー ヒッチコック サイコ

2022-08-17 03:08:00 | 映画レビュー
『サイコ』(Psycho)
監督 アルフレッド・ヒッチコック
原作 ロバート・ブロック
製作 アルフレッド・ヒッチコック
出演者 アンソニー・パーキンス
ジャネット・リー
音楽 バーナード・ハーマン
上映時間 109分

真面目に見直すと実に緻密に作られています
モノクロームであえて勝負してくる必然性
カメラワークの美しさ、どこを切っても絵になる画面、

さんざんリメイクやパロディされてるシーンの数々ですが
オリジナルが持つ先進性は色褪せてないどころか
再制作の追従を許していません
ジャネットリーが美しいですね~( ☆∀☆)
美女が逃亡したり怯えてたりする姿を観るのは格別です




夏休みの課題 花火 スクラッチアート

2022-08-14 19:56:00 | 映画レビュー
#息子の課題  画題「夏の音」
絵手紙を描こう、という課題。最初は水彩画のつもりだったが
ヘタウマの境地が彼にはどうにも理解できず、ヘタヘタ(笑)に
しかならない。。。。。
で、方針変換してスクラッチアートにした。
幼稚園で教わって以来7年ぶりだわ、と感慨深げに言ってるのが
面白かった。
3枚目と4枚目は参考にさせていただいた山下清画伯の傑作。 @ Tachikawa, Tokyo








アニメレビュー レッドタートル ジブリ

2022-08-14 19:39:00 | 映画レビュー
「レッドタートル ある島の物語」 絵本 – 
マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット(原作)
 池澤夏樹(著) セル画(スタジオジブリ)

去年の夏休み、映画館では新海さんの君の名は?🌠が超満員の陰でひっそりと始まりいつの間にか終わっていたジブリ史上初の客の入りの少なさを記録した作品。

こちらはその映画のパンフレットではありません
池澤夏樹さんが映画のセル画に文章を付けた絵本です。
映画がセリフ無しの無声映画の体をなしていて
音楽や動き、効果音などで作品として成立させて
いるものですから、絵があるとはいえ文章をつけて
物語として完結させるのはかなり難しかったのでは
ないでしょうか?

ということで小説家の池澤さんは、語り手の主体を
男が流れ着いた無人島の擬人格として構築しています。
無人島として流れ着いた人間をいとおしみ、守り、
島から出すことを良しとしない人格としての島。
不思議な雰囲気の、セリフのない物語の唯一の語り手は
本来語るはずのない島。
お陰で絵本でありながら大人の思索本のような
長いお盆休みに妙にしっくりとはまる一冊になりました。










カルトホラームービー ファンタズム 

2022-08-13 01:50:00 | 映画レビュー

 







『エルム街の悪夢』シリーズや『13日の金曜日』シリーズに比べるといささか地味だが、それでもなおカルト映画として世界中で根強い人気を誇る『ファンタズム』シリーズ。30万ドルの低予算で製作された記念すべき第1弾『ファンタズム』(’79)は、『悪魔のいけにえ』(’74)や『ハロウィン』(’78)といったインディペンデント系ホラーがメジャー級の大ヒットを飛ばす’70年代の時流に乗って、興行収入1100万ドルを超える大成功を収めた。とはいえ、その後40年近くの長きに渡って続編が作られることになろうとは、監督のドン・コスカレリ自身も想像していなかったに違いない。

コスカレリ監督は、少年時代から大好きだったというホラー映画の製作に着手する。それが父親や知人からの借金で自主制作した低予算映画『ファンタズム』だった。

 舞台はアメリカのどこにでもある風光明媚な田舎町。異次元からやって来た邪悪な葬儀屋トールマン(アンガス・スクリム)が、町の住民を次々と殺してはドワーフ型のゾンビに変えていく。いちはやく異変に気付いた13歳の少年マイク(マイケル・ボールドウィン)は、年の離れた兄ジョディ(ビル・ソーンベリー)やその親友レジー(レジー・バニスター)と共に、トールマンを倒すべく果敢に立ち向かっていくこととなる。

 コスカレリ監督自身が見た悪夢を映像化したという本作。夢と現実が錯綜する摩訶不思議なストーリーに明確な説明はない。そのシュールリアリスティックな語り口はルイス・ブニュエルやジャン・コクトーを彷彿とさせ、ショッキングでスタイリッシュなイメージの羅列はダリオ・アルジェントの影響も如実に伺わせるが、しかし作品全体を覆うジューヴァナイルなセンチメンタリズムは、それまでのコスカレリ監督作品の確かな延長線上にあるものと言えよう

 そのうえで本作は、ストーリーなきストーリーに主人公マイクの揺れ動く複雑な心情を投影する。愛する両親を一度に失い、唯一の肉親である兄ジョディもまた、町を出てひとり立ちしようとしている。思春期の多感な少年が人生で初めて直面する喪失感、このまま一人ぼっちになってしまうのではないかという不安感、そしてまだ子供であるがゆえの無力感。それらをひとまとめにした象徴が、得体の知れない悪魔トールマンなのである。

 誰もが少なからず身に覚えのある、成長期の漠然とした不安や恐怖を想起させる。それこそが、どちらかというと難解な内容でありながらも、多くのファンが『ファンタズム』に魅了される最大の理由であろう。しかし、その後の続編はちょっとばかり違った方向へと舵を切る。

 大手ユニバーサルの出資で製作された第2弾『ファンタズムⅡ』(’88)は、’80年代当時のホラー映画ブームを意識した純然たるエンターテインメント作品に仕上がった。なぜなら、ユニバーサルがそれを求めたからである。

 ストーリーは逞しい青年に成長したマイク(ジェームズ・レグロス)と相棒レジー(レジー・バニスター)が宿敵トールマン(アンガス・スクリム)を倒さんと各地を巡るロードムービーへと変貌し、『エルム街の悪夢』のフレディばりに神出鬼没なトールマンや前作でも強烈な印象を残した空飛ぶ殺人銀球「シルバー・スフィア」のパワーアップした恐怖が強調され、大量の火薬を使った爆破シーンやガン・アクションがふんだんに盛り込まれた。

 まあ、確かに続編とはいえ半ば別物のような作品だが、しかしここではヒロイック・ファンタジー『ミラクルマスター/七つの大冒険』(’82)でも披露した、コスカレリ監督の娯楽映画職人としての実力が遺憾なく発揮されている。もちろん賛否はあるだろう。コスカレリ監督としては少なからず不満も残ったという。しかしそれでもなお、シリーズ中では最も単純明快なB級ホラー映画として十分に楽しめる。

 続く『ファンタズムⅢ』(’94)でもそのエンタメ路線は引き継がれるが、製作元がメジャーからインディペンデントへと戻ったこともあり、コスカレリ監督の好きなように作られているという印象だ。

 過去作で散りばめられた謎の真相を本作で明かすことを試みたというコスカレリ監督。その言葉通り、トールマンの目的やドワーフたちの正体、シルバー・スフィアの仕組みなどが解明され、いわば「ファンタズム・ワールド」の全体像がおぼろげながらも見えてくる。といっても、みなまでを詳細に語らず観客に想像の余地を残すところはコスカレリ監督ならではと言えよう。夢と現実の交錯するシュールな語り口も、原点回帰を如実に実感させて嬉しい。

 しかしながら、真の意味で『ファンタズム』の原点に戻ったのは、次の『ファンタズムⅣ』(’98)である。ここでは第1作目の未公開フィルムをフラッシュバクとして効果的に多用することで、失われた時間や過ぎ去った思い出に対する深い郷愁と万感の想いが浮き彫りにされていく。さらに、かつては善人だったトールマンの意外な過去を描くことで、必ずしも思い通りにはならない人生や運命の悲哀が強調されるのだ。

 かつて13歳の美少年だったマイクもすっかり大人。レジーやジョディに至っては立派な中年だ。みんなもはや決して若くはない。静かに忍び寄る老いを前にした彼らの後悔と不安、そして来るべき苦難の道など想像もしなかった平和な過去へのノスタルジーが、トールマンとの終わりなき戦いの日々を通して描かれていく。30年前の幼きマイクと若きレジーの、まるで波乱の未来を予感したような複雑な表情で幕を閉じるクライマックスは、1作目から追いかけてきたファンならば涙なしに見ることは出来ないだろう。これは、『ファンタズム』と共に大人へと成長してきた大勢のファンへ対する、コスカレリ監督からの真心のこもったラブレターである。

そして、それから18年の歳月が経ち、老境にさしかかったコスカレリ監督が自らの「死生観」を投影した作品が『ファンタズムⅤ ザ・ファイナル』(’15)である。ここで彼は初めてレジー(レジー・バニスター)を単独の主人公に据える。物語はあくまでも年老いたレジーの視点から語られていく。

 相変わらずトールマンを倒してマイクを救うための旅を続けていたレジー。しかし、ハッと目を覚ますとそこは病院で、自分が痴呆症と診断されて入院していることをマイクに告げられる。トールマンとの戦いも何もかも、彼がマイクに語って聞かせた妄想だという。しかし再び目を閉じると、トールマンによって崩壊した世界の真っただ中で、レジーはマイクと共に武器を手にして戦っている。どれが夢でどれが現実なのか全くわからない。その混沌を通して、限りある人間の生命と肉体の儚さ、それでもなお前へ進むことを諦めない精神の不滅が描かれるのだ。

 病床に臥したレジーをマイクとジョディが囲むシーンはまさに胸アツ。1作目と同じキャストが演じているからこその、人生と時間の重みをまざまざと感じさせる。ここまで来ると熱心なファン以外は完全に置いてけぼりなのだが、もちろんそれで全く構わない。むしろこの感動を味わえるのは、1作目から熱心に追いかけてきたファンのみに許された特権であり、そういう自己完結したガラパゴス的な映画があってもいいと思うのだ。

 この『ファンタズムⅤ ザ・ファイナル』を最後に、トールマン役のアンガス・スクリムが急逝。正真正銘のファイナルとなった。