五里夢中於札幌菊水 

野戦病院へ出向予定。
医療崩壊に対して国民全てと共闘を夢想。
北海道の医療崩壊をなんとか防ぎたい。

北海道の旧産炭地シリーズ

2007-05-13 00:39:23 | 北海道
自治体病院一時借入金ランキング で13位にランクインしている市立美唄病院を擁する北海道美唄市(19億7千万円)の歴史を紹介した記事のコピペです。

全然イメージなかったんですけど美唄市も炭鉱の町だったんですね。
  
こちらはランクインしておりませんが参考までに→羽幌炭鉱~昭和時代の遺跡~

昭和40年代後半相次ぐ炭鉱閉山で何が起こったか、現在においてどのようにつながっているのか、他旧産炭地で著明な夕張などの歴史も探訪してみようと思っています。

北海道の歴史を素人が語るページ→なまら北海道からの抜粋です。
いつもお世話になっております。

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北海道の産業を興したのは、開拓使が招聘したお雇い外国人といわれる人々でもありました

最初に北海道の鉱山について調査したのは、ベンジャミン・スミス・ライマンという人物です。彼はアメリカの地質学者でした。

明治7年、ライマンは数人の日本人を助手として、幾春別から美唄川中流域までの調査を行っています。

さらに、明治8年には、日本人だけの調査隊が、奈井江川上流にまで足を伸ばしています。

彼らの報告により、あたり一帯は有望な炭層で、幌内の炭田から連続していることがわかりました。現在の美唄周辺やナイエ一帯も含めると、6500万トンの埋蔵量があるとされました。

しかし、美唄炭田の開発は、なかなか行われませんでした。炭田の開発には、採取する費用と運搬手段が大きな課題でした。

明治20年代まで、炭鉱に投資する三井、三菱などの大手財閥系資本は、九州地域に力を入れていました。

しかし、明治30年代になると、小規模な炭鉱開発や投機的な動きが見られるようになり、その波は美唄炭田にもやってきました。

明治31年、美唄炭田試掘権は56鉱区におよび、その面積は3000万坪以上になりました。それは4年前の50倍もの面積です。

この美唄炭田に早くから足を踏み入れたのは、徳田興三郎という人物です。

彼は明治22年には、美唄川あたりを調査していたといいます。

徳田が美唄地域に本拠を移したのは、明治27年と伝わります。落合川上流を手始めに盤ノ沢など、上流部を中心に試掘の範囲を広げていきました。

しかし、その当時は国道沿いを屯田兵の給与地が占め、小作農場地が広がっていました。そのため山中からの石炭搬出がスムーズにいきませんでした。その影響で徳田の事業は資金難になっていきます。

徳田の鉱区の多くは、人手に渡ってしまうことになりました。徳田は失意のうちに美唄炭田を去っていきます。

美唄炭田で試掘権を得て、開業したのは若狭千代吉と山田宅之助の両名でした。彼らは明治29年に3鉱区、250万坪の試掘権を設定して、沢沿いに現在の国道12号線まで馬車軌道を設営しました。

軌道は屯田兵用地を分断していくことになります。それでも許可された経緯は、謎のままとなっています。

この炭鉱は、両名の名前をとって若山炭鉱と名づけられました。小規模な採掘を行い。農家の暖房用の石炭を供給していきます。

明治32年には1800トンほどを採掘しますが、販売はその半分ほどという状況でした。

若山炭鉱も徳田の場合と同じように、鉱区の権利は小樽の海運業者や地方政治家に移っていってしまいました。

埋蔵量が豊富であるのに、なかなか商売として成立しない。そんな時代が続いていきます。しかし、あることがそれを打開します。

皮肉にもそれは戦争による好景気でした。明治38年、日露戦争による好景気が日本を沸かせました。その波は北海道にも飛び火して、美唄炭鉱周辺は転機を迎えます。

そのころに、峰延炭鉱が開鉱しました。鉱区と国道の間には4キロに及ぶ馬車用鉄軌道が敷かれ、石炭は、峰延駅から搬出されました。

鉱山地域は大変な盛況となりました。温泉も開発され、一時は毎日100頭もの馬が集まるほどでした。

鉱山は事業の拡大も目論むほどでしたが、炭質が不良になり採算があわなくなっていきます。

好景気の反動でおきた不況のため、全国的に炭価も大きく下落していたことも採算不良の原因になっていました。ついに峰延炭鉱は休山となります。

そのころ、徳田興三郎は美唄炭鉱でもう一度事業に乗り出そうとしていました。

明治39年、彼は美唄地域に戻ります。そして、明治40年に再度、美唄炭鉱採掘に着手しました。

従業員は38名。彼らは明治42年から石炭を掘りだし、国鉄美唄駅まで馬そりで運搬しました。雪解けを待って、4キロの軽便馬車鉄道も設置することができました。

しかし、不況は益々深刻になっていきました。石炭の価格はさらに下落し、美唄炭鉱は約2年でその幕を下ろすことになります。

人々は、後世に鉱山の繁栄などありえない、という気持ちになったとことでしょう。

しかし、美唄の炭鉱は大正・昭和初期の三菱美唄炭鉱、三井美唄炭鉱などに受け継がれていきました。

その絶頂期は昭和31年ともいわれています。この年、世帯数は17,137。人口は92,150人を数えました。

参考↓

美唄市の人口
(平成19年3月末現在)
人口総数  28,161人(内73人)

男     13,433人(内39人)

女     14,728人(内34人)

世帯数 12,928世帯(内31世帯)



その後、昭和30年代後半に石炭から石油へのエネルギー転換時代がやってきます。

昭和48年、炭山の閉鎖で、美唄の石炭の歴史は終息しました。

そのすべては、明治期の人々の辛酸からはじまったといってもいいでしょう。

「黒ダイヤ」と言われもてはやされた石炭は、人々の人生にも大きく関わっていました。

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