風に吹かれて マメタロウ

途中下車した看護師のつれづれです。癌治療の後遺症と付き合ってきた母の介護を中心に書いてあります。

認知症の経過(アルツハイマー)

2010年09月24日 | 母の癌治療の後遺症と介護

アルツハイマーと診断され、症状は悪化していくんだと現実を突きつけられ、かなりショックで狼狽し、落ち込みました。そんなときに、探し当てた介護当事者のブログで、励まされ、癒され、笑顔の介護が待ってると思えるようになりました。あたたかいつながりをここでも感じました。感謝です。「当事者でしか分からないこと」って大事だナーと思いました。


今日、母を担当しているケアマネさん、介護の管理者、ショートの方、訪看の管理者、デイの方、と私が集まり、今後の介護サービスについての担当者会議を開きました。
1時間超、みなさんが仲間みたいに話し合ってくれてありがたかったです。
結局の所、私の夜勤がネックになり(利用者にも、事業所にも)訪問介護とデイケアでつなぐのは困難だろうという事になりました。
たまたま、ショートがあいていて利用できるため、今回はまずそちらを利用することになりました。その後は、母の様子を見て、私が日勤の勤務とし、在宅に戻る予定です。
「日勤の勤務とする」のが、また難しいのですがネ^^

母の急な認知面の悪化を受けて今回の話し合いがあったので、経過をまとめました。
 



2年前・・・母が「物忘れがひどい」と心配していたので、CT検査が出来る脳外科クリニックを受診し「年齢相応だから気にするな」といわれる。CTと、会話だけだった。(このときにHDS-Rをすれば早期発見できたのかと今となっては思う。先日のアルツハイマーデイでは、早期発見を盛んにPRされていて、判ってあげられなくて悪かったなーと辛かったです。)
この頃、歩くのが億劫になってきていたので、介護申請だけでもと申請し
2008/8「要支援」となる。散歩とか連れ出してくれる人がいるといいなーと思っていたが、そんな支援はないし、仮にあったとしても本人は拒否したと思いますがww買い物や近所の公園に連れ出したりしていました。

2009/1「要介護1」となり、制度の関係でケアマネが変わった。(要支援は介護予防サービスで、介護予防支援事業者がかかわり、要介護は介護サービスで、居宅介護支援事業者が関わる。一人の人間を継続してケアできない制度になっていることに驚いた。しかし、今のケアマネさんになって良かったと思っていますけど。)
要介護となっても、母自体に変化はなく、他者が家に入るのを嫌う傾向があるので、この頃の目標は「僕(ケアマネ)が訪問するのを受け入れてもらえるようにしよう」でした。明るく楽しく接してくれるので、拒否はなく受け入れていました。ケアマネであるとかは理解してないと思いますが。
今思えば、出来ないことが徐々に増えていた。「諸手帳類の管理」「ストマパウチの交換」「整理整頓」姉には、たまに遊びに来ても「どなた?」といっていたらしいが、姉は冗談だと受け止めていたらしい。

「一人で過ごす時間が多いし、これからのことを考えたら徐々に介護ケアに慣れておくほうがいいよね」っていう事でデイサービスを週に1回利用する計画を立てたが、意欲が出ず、2ヶ所試し、結局デイケア利用に変更する。私としては歩行能力や体力アップのきっかけ作りと保清目的だったが、デイケアはある程度流れに乗れる対象者でないと無理みたいでした。
2010/2 週に1回デイケアに通い始める。なじめず家に戻ると、疲れる。いやだ。の発言が多い。

2010/6 週に1回の訪問介護、看護を追加。
血尿や、発熱があり体力的にかなり低下したり入院をしたのもあり、サービスを増やすことに。ケアの拒否は結構あって、ご苦労をかけていた。
2010/8 長崎の父を見舞いに行く関係で、初のショートステイ体験6日間。。「家に帰る」とは、言っていたみたいだけど、心配していたせん妄症状もなく、大過なく過ごした。
(私の夜勤と関係なく規則正しい生活が功を奏したようで、その後から日中の覚醒度がアップしたようだとヘルパーさんたちから言われる。ケアの拒否も少なくなってきた。)

このところ、「食事を忘れる」「尿パットを裏返しに当てる」「服をでたらめに着る」「ここに入られないと荷物をまとめようとする」「気分の波、表情が極端に違う」に加え、まじまじと私と話しながら「あなたを生んで育てた気がしないんだけどね、私の娘なの?」と言うので、ケアマネに相談したら認知症の専門に見てもらうほうがいいとアドバイスしてくれたので、近い所の「物忘れ外来」をネットで見つけた。
2010/9 物忘れ外来受診。中から重度のアルツハイマー型認知症と診断。一人で自宅にいさせるのは無理、危ないですよといわれる。アリセプトが処方されるが、あくまでも進行が遅くなればイイナ、くらいですよと念を押された。




そして今日に至るが、「今思えばあれは症状、、、」と思うことが多くあり、気付いてあげられなくてごめんなさいと反省。仕事中心の生活が長く続いていたから、母が家にいてくれればよしで、SOSが分からなかった(言い訳ですが)。
今、急に悪くなったと感じているけど、母が頑張って頑張ってやっていた部分が、破綻したということなんだろうな、、、人に頼ることを是とせず、生きてきた人だからなおさら無理していたのだろうか?


母の混乱が始まったころ、
私が仕事から深夜に帰宅し、母の失敗したパウチの処理やおむつ交換、着替えをした時に
つい大きなため息で、「もうやってられんなー」と言ってしまった日、
いらいらしても仕方ないと、母を相手に夜中いろんな話をした。
昔話、仕事の話、、、ちゃんとした対話には、なってないんだけど、何かのときに
母が「もう頑張らなくてもいいんじゃない、らくにすれば」と言った。
あの言葉は、私だけじゃなく自分自身に贈った言葉なのかもしれません。


長文を読んでくださった方有難うございました。