予定調和なやり口でない人が、個人的に正しく振る舞っても、予定調和だからこそ担えた調整部分をすっ飛ばすがゆえに、事態の混濁を招くばかりのことが結構増えた。
けれど、思えば予定調和で斉唱できてたうちのほうが疑わしく、いかがわしくもあった側面をはらんでたって意味では、この際その揉めようは必然なのかもしれないって空気も作り出す。
皆、自分は正しいと思ってるし、思いやりから出た所作が最善と信じるんだけど、結果それが重かったり、思い込みであることを免れずに、けっこうそうした邁進こそが動機であり原因であることが、傍目には見える。
ただ、当事者というのは「自分の正しさ」過ぎて、拠り所にするには脆弱なのだと見えてたほうが良かった。事態は悪く廻りはじめもするものだから。
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