強く感情に訴える、それはわかる。
今は言葉に出来ない魂になってるから、それもわかる。
衝動やショックを与えて、現状の打破に一役になう、その意図も底が透ける。
でも禁じ手だと思う。人としての尊厳の領域だと思う。
亡くなってしまった事実まででその人の人生を幕にしてあげないのは、生者の傲慢に感じます。
「これが出来る」技術だからと、できるのでやってしまう、というのでは括られる次元が違います。
故人自身は「これを亡くなったのちにも語り継ぎたい、自分の最後の言葉」にしたいでしょうか。すべからく、話はここに起因すべきと思います。
誰かの意図や、扇動に「亡くなってまでも」担ぎ出されたいでしょうか。
魂が理不尽な戦争が原因で亡くなり、静かに眠りについているのに、「あの人の言葉だ」とされるのは本意でしょうか。
身内が聞き知った言葉や、生前の故人の願った意図もあるにはあるでしょう。
ただ、私にはこれは一つの”なぶり”みたいないうちにも感じるんです。
無念はあったでしょう。戦争の歯止めの一因になれるほどの衝動も、ここに渡す機会ともなるでしょう。
それだけに、もっと、もっと慎重にあって欲しいのです。
今、かのアスリートたちは、眠っているのですから。
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