九運久運の筑波山彷徨録

筑波山や近くの公園を気息奄々の足取りで歩いた備忘帳

つくば市にある「泉の観音さま」を訪ねて鐘楼を見学。

2015年03月20日 | ぷらっと・名所旧跡
3月14日(土)筑波山を歩いた帰り道に、つくば市泉にある「慶龍寺」を訪れました。

子供が小さい時に、虫封じ祈願と御礼詣りに足を運んだとき以来で、数十年ぶりの
訪問になりました。目的は、筑波山中禅寺から移設されたと云う鐘楼を観てみたいと
思っていた事でしたが、いつでも寄れる場所にあるため、先延ばしになっていたお寺様でした。

桜川市椎尾にある薬王院コース登山口から戻り、麓を廻り込むように県道14号線を走り
国道125号線からつくば北警察署を右に見ながら信号を右折し、道なりに走ると
「泉子育観音」の看板が立つ専用駐車場が道沿いにありました。
地元では「泉子育観音」「泉の観音さま」と呼ばれ、小児の成長祈願として有名なお寺様です。


 
駐車場から住宅が並ぶ細い道を歩き正面側に立ちました。正面にも5・6台ほど停められる
駐車場がありました。石塀が囲む正面入り口には立派な門柱が立っていました。
脇には「茨城百景」石碑が立っていましたが「北条泉の観音と小田城址」と二ヶ所の名称が刻まれていました。




  
山門をくぐります。
「勢光山」と書かれた扁額や素晴らしい彫刻物が飾られた山門でした。貞享四年(1687)に
土浦藩主・土屋政直が寄進した門で、当時のまま現存している建造物と云います。
土屋政直がこの山門を寄進した時代は、五代将軍徳川綱吉が「生類憐みの令」発布の年で、
大老の堀田正俊と肩を並べて中老として土屋政直(能登守)が就いていた時代でした。





山門脇に立つ「二十三夜塔」碑。





鐘楼。
現在の筑波山神社境内に建っていた筑波山中禅寺の鐘楼でしたが、明治五年(1872)
廃仏毀釈の時に多くの仏堂や仏像仏具などが焼き捨てられたときに、仁王楼門(現在の随身門)の
脇に建つ鐘楼を護るために、この慶龍寺に移設したと云います。
移築した年代は?と思い、帰りに北条にある図書館に立ち寄り調べましたが「建立年月不詳」と
書かれていました。




 
手水舎。




 
観音堂。
「子授観音菩薩」「子さずかり観音菩薩ここにあり 世の安泰と人の幸せ」と刻まれてありました。





 

 
本堂。
正式には「勢光山広蔵院慶龍寺」と云い、真言宗豊山派のお寺様です。
元和元年(1615)に小田原の観音寺の住職・慶龍法印が観音像を笈に収めて
布教の途中に泉村に草庵を建て、元和四年(1618)に堂宇を建立したのが
始まりと伝えられています。
御本尊は「子育出世正観世音菩薩」。慶龍法印が収めた、このご本尊は、大同二年(807)
京都・東寺において小児の成長安全を祈願し、弘法大師(空海)がみずから彫ったと伝えられる秘仏です。






「弘法大師千百年御遠忌記念塔」





お堂(?)





「弘法大師千百五十年御遠忌供養塔」





本堂から裏側の石塔を見て境内を歩き、観音様の前に敷かれた石畳を歩き寺務所(庫裏)まえにたちました。




  
寺務所(庫裏)。
寺職の方に「写真を撮らしてもらっています」と伝えると「はい、どうぞごゆっくり」と
声を掛けて頂きました、そのあと受付の前にある「浄財」と書かれた賽銭箱に四重縁を入れ
お詣りしました。(この時は本堂と併せて浄財は大奮発の九重縁でした)




 
境内に大きな枝垂れ桜。桜の名所にもなっています。




 
通用門をくぐり裏側に廻り駐車場に戻りました。
お寺の外周には堀があり防災面でも工夫されていました。


慶龍寺には重厚で趣きのある建造物が並びますが、いずれにも解説板がありませんので
事前に下調べをしてから訪問したのが賢明のようです。私はまったくの知識不足で、
帰りに北条にある図書館に立ち寄り、「筑波町史」など3冊の郷土史を読みながら
ヤット慶龍寺の由来などが解った次第です。







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