九運久運の筑波山彷徨録

筑波山や近くの公園を気息奄々の足取りで歩いた備忘帳

矢板市の寺山観音寺・秋海棠と深い歴史を感じて。

2015年09月09日 | ぷらっと・名所旧跡
9月5日(土曜日)矢板市長井にある寺山観音寺を訪ねました。
高原山の一峰・釈迦ケ岳を歩いた帰り道に立ち寄りました。

下山した林道守子線の釈迦ケ岳登山口で身なりを整えて林道を戻り、県道63号線から
「尚仁沢はーとらんど」に寄り、トイレで用を済ませて顔を洗い、自販機で飲み物を買い、
ヒヤカシ半分に店内を回りました。県道から県民の森を抜け、寺山ダム前の水汲み場を左手に
眺めながら暫く走ると「←寺山観音寺・長井→」の道標と「寺山観音寺入口」の石柱が
左側に見え、その道をUターンするような感じで左折しました。上るように走る細い道を
対向車が来たらどうしょうと考えながら走って行くと、着いた所が参道入口でした。
少し先に専用駐車場の案内板がみえたので、右側を廻りこむように進み駐車場に着きました。
2台が停まる駐車場では日陰の場所を選んで停め、ポケツトにお賽銭、首にはカメラをぶら下げ
準備万端に歩き出しました。





   
駐車場から来た道を下るように戻り参道入口に立ちました。
「寺山緑地環境保全地域」の解説板と「寺山観音寺」と書かれた解説板を読んでから
大きな石灯籠が建つ入口から進みました。




 
入口石段から数段進むと石灯籠や記念碑が建つ場所がありました。
右側には打ち出の小槌を持ち福袋を担いだ大黒天像が建ち、
象頭山と刻まれた大きな石碑がありました。(知識が無いので解りません)







 
御橋を渡ります。
アーチ状に組まれた石橋の下には満願ケ池が水を湛えてありました。







 
苔生した石貼りの参道をヨロヨロと歩きました。紅葉の頃にも良いだろと
思いながら進み、左側を見ると御堂が建っていました。中を覗くと不動明王様が
祭られていました。普段好く観る不動明王像はコワイ顔付きですが、
ここの不動明王様は優しい顔をしていました。




 
石灯籠の多さに驚きながら、滑りそうな石段を一歩、一歩慎重に上りました。






  
楼門。
「与楽山大悲心院」と書かれた趣きのある扁額がつき、門の中央には転法輪と刻まれた
石碑がありました。転法輪の上部の丸い石には般若心経が刻まれてありましたが、
読んでいると目が回りそうでした。門をくぐる足元には仏足石が置かれてありました。
楼門内部から参道を見下ろす様に金剛力士像(?)が両側に収まり、観音堂側には御堂に
向かうように風神・雷神像(?)が二基構えて建っていました。





  
くぐった楼門の直ぐ脇の大きなイチョウが目を惹きます。推定樹齢350年と言われ、
栃木県の天然記念物に指定されている古木です。イチョウの木の元にはイチョウ解説板と
並び「伝説 ゆうれいの腰掛石その二」と刻まれた石柱が建っていました。
伝説では、
「昔、人は亡くなるとゆうれいになり観音堂に入ると云われています。
 麓から上ってくる女性のゆうれいは、山道を汗を流しながら歩いて、
 疲れ、化粧も落ち着物も乱れた恰好になり、このままの恰好では
 観音様に逢うのはハズカシイ~し失礼だと思い、この石に腰掛け、
 身なりを整えてから観音堂に入ったと云います」(こういう伝説を聞くのは好きです)
伝説の石に「その二」と書かれてありましたが「その一」と云うのが有るのかは判りませんでした。





 

 

   
観音堂。
正式には「与楽山大悲心院観音寺」と云いますが、寺山にある観音様で「寺山観音寺」
御本尊は国の指定重要文化財である「千手観世音菩薩坐像」と云い、脇侍には「不動明王立像」
「毘沙門天立像」といずれも国指定重要文化財が安置されていると云います。
御本尊は秘仏となっており。ご開帳は60年に一度と云います。
近年では大正13年(1924)昭和59年(1984)にご開帳があったと云います。
この後は平成56年(2044)甲子旧暦9月10日から7日間で
ご開帳となるそうです。(あと29年先か~ここまで長生き出来ませんね)
観音堂の丸柱には「しゅうかいどう祭り」の案内が貼られてありました。
9月20日の日曜日10時から境内で、しゅうかいどう苗無料配布(先着50名様)や
ソバや抹茶セットなどの屋台が並んだり、森のコンサート(他)などを
開催すると書かれてありました。
浄財としてポケットに用意した小銭をチャラ~ンと入れ、深々とお詣りをしました。
(本などに掲載されている御堂の名称は「本堂」と書かれていますが、
 私の書き込みは勝手に「観音堂」と書いています)





  
虚空蔵堂。
「福一満虚空蔵菩薩」と書かれた扁額と歴史を感じる鰐口に趣きがあります。
虚空蔵堂の裏側に回ると、江戸時代中期の年号、享保や元文などと刻まれた石仏が
見事に並んでいました。
(本などには御堂の名称を「観音堂」と書かれていますが、
 私の書き込みは勝手に「虚空蔵堂」と書いています)




 
虚空蔵堂左側(観音堂右側)に「百観音御砂踏み霊場」がありました。
銘石を読むと、寺山観音寺御詠歌会皆様が百観音(西国三十三観音・坂東三十三観音・
秩父三十四観音)を巡拝し、各霊場のお砂を少しずつ頂き、その砂をこの下に納めたと
云います。
私も仏足石・西国・坂東・秩父と踏んで、この場所で百観音のご利益を受けました。
(お賽銭を入れ忘れました)




  
百観音霊場の並びに、今回のメーンとなる県指定重要文化財「大日如来坐像」が安置されていました。
「天明元年 佐野市天明鋳物師・丸山善太郎易親作」と刻まれた銅鋳造像です。
下野国天明(現在の佐野市)で天明元年(1781)に鋳造された貴重なものです。
私も茨城県五霞町のお寺様の梵鐘で一度拝見した事がある天明鋳物ですが、
天明鋳物を後世に残すと云う事で、必ず重要文化財になっていると云う数少ない物と
伝えられています。


「大日如来坐像」の右側には宝筐印塔。





  
「大日如来坐像」の後ろ側には、月山・湯殿山・羽黒山・大日尊供養塔(安永三年造立)が並んで、
右側には庚申講の青面金剛石像、その脇に千手観世音菩薩の前に五輪塔八基立足が並んでいました。





  
観音堂の前を通り、子安(?)観音菩薩像の廻りを取り囲むように建つ
小さな石仏を見て、向かい側の千手観世音菩薩像に手を合わせてから
本堂に続く渡り廊下を眺め、観音堂を背にして石段を下りました。



そして、そして。




参道入口から一旦市道に回り本堂側石段を歩きます。
こちら側にも石灯籠が何箇所にも建っていました。
(境内西側にある建造物の名称が解らず勝手に「本堂」と書きこんでいます)




 
石段を上ると左側に六地蔵尊(物干し竿がジャマですが)その左側には
「南無大師遍照金剛」の修行像が建っていました。




 
本堂側にある山門をくぐります。




 
本堂。(正式な名前は解りませんが)
本堂前には輝くように新しい「十三仏」が建っていました。建立年号は最近の物でした。







 
十六羅漢像。
「十六羅漢・じゅうろくらかん
 羅漢(阿羅漢)とは悟りを得た聖者の意。十六羅漢の信仰はインドにおいて早く成立した。
 中国の唐の玄奘訳「法性記」によると、十六羅漢は釈迦が涅槃に入るとき正法を付嘱され、
 自らは滅することなく現世にあって、衆生を守り益するという。
 (中略して後章に)
 わが国では東大寺のりょう然(?~1016)が十六羅漢図を請来したと伝えられる。
 寛仁三年(1019)に藤原道真が羅漢供養をしたのが早い。平安後期の十六羅漢信仰は
 法華経信仰と密接な関係にあると思われ、聖衆来迎寺伝来本(国宝、東京国立博物館蔵)の
 ような大和絵の羅漢図が描かれた。平安末期~鎌倉初期には日宋交流を背景に、寧波仏画の
 羅漢図が大量にもたらされ、禅宗を中心に受容された」(佛教大事典から引用)







 

 
鐘楼堂と梵鐘。
以前の物はヒビが入り壊れたため、新しく鋳造した鐘と伺いました。
境内の一番高い場所にあるため鐘楼堂からは矢板市方面や周辺の景色を
眺める事が出来ました。
最初は鐘楼堂の場所が解らずにウロウロしていましたが、丁度その時に
虫よけ網を被った作業服姿のボランティア男性と会い、その場所を教えて頂きました。


鐘楼堂から本堂・寺務所・庫裡を眺めます。本堂後ろにあるのが「観音杉」だと
教えて頂きましたが、奥の院側は杉の大木ばかりで、どれがどれだか好く判りませんでした。





本堂前に建つ十三重塔の前を通り、観音堂側の境内を通り抜けて、
奥の院側から駐車場に戻る道を歩きました。





  

 
奥の院と周辺に咲くシュウカイドウ。

秋海棠を撮りながら駐車場に戻りましたが、先程案内して頂いた男性の手入れ作業の姿が見え、
「先ほどは有難う御座いました」「ガイド料も払わずに済みません(笑)」と声を掛けると、
笑って「また来て下さい」と会釈をして頂きました。
13時20分頃に着き、帰りの車に乗り込んだのが15時頃とかなり長い訪問となってしまいました。

帰り道は寺山観音寺から対向車がある細い道を下り、りんご園が並ぶ県道を走り、T字路を
右折してから、矢板バイパス入口にあるコンビニ(矢板下太田店)で飲み物とサンドイッチを
一つ買い、バイパス経由で国道4号線で帰りました。


『 この下の記事はスルーして下さい 』(暇な方だけ読んで下さい)

「寺山観音寺」
「神亀元年(724)に行基菩薩が剣ケ峰のふもとに法楽寺を建立し、千手観音と
 両脇侍を安置したのが興りといわれています。延暦二十二年(803)雷火により
 寺を焼失しましたが、観音堂は安泰でした。
 現在地に移転したのは、大同元年(806)と伝えられ、徳一上人が七堂伽藍を
 建て、尊像と御堂も移したといわれています。
 その後、塩谷氏代々の祈願寺として知行地一千石を寄進、塩谷氏滅亡後は
 宇都宮城主代々の祈願寺となりました。住職は毎年正月十五日は拾万石格式の
 駕籠に乗って祝賀に登城するのが恒例でした」と入口解説板に書かれてありました。

また「下野寺社歴訪記・島遼伍著」の観音寺の項目の中では
「現在『剣ケ峰』と称される杉木立の山里に佇む寺山観音には、つかの間世俗を浄化させて
 くれる森厳とした品格がそなわっている。
 もっとも現在地に寺域が移されたのは後年で、開創時は、剣ケ峰の西下の地名「寺の在所」に
 寺が建ち、南側の平地「観満平」に奥の院があったといわれている。
 開山は行基といわれ、神亀元年(724)上人が剣ケ峰の麓に法相宗の法楽寺を建立、
 堂内に本尊の木造千手観音坐像(国重文)、脇侍の木造不動明王立像、木造毘沙門天立像
 (ともに国重文)を安置したことに始まるという。
 だが、千手観音、脇侍の製作は弘仁年間末期(820頃)といわれ、行基の生存年代と
 一致しない。また観音菩薩の脇侍に不動明王、毘沙門天を配する安置スタイルは
 天台宗の様式で、これも相入れない。
 というわけで、寺山観音の開山は、やはり徳一僧都としたほうが妥当のようだ。
 筑波山の学僧であった僧都は、法楽寺が雷火によって観音堂をのこして焼失した
 延暦二十二年(803)から三年を経た大同元年(806)来山し、観音堂を
 高原山の東南麓に位置する現在地に移転し、七堂伽藍を再建、寺の振興に寄与した」と
書かれています。



 



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