このようにブログを書き綴っていると、
こと“文体”というものにも少しは気を使う。
多く、同じように感じる方がいるとは思うが
普段、書くにあたってはなるべく“和文”的な表現にしているつもり。
それは、読み手と書き手とのコミュニケーション上の微妙な(?)雰囲気
というか、ニュアンスというか(ここで外来語を出すのはまずいか・・・)
受け取って欲しい微妙な気配とも言うべきものに、
“柔らかさ”や、“やさしさ”、或いは“細やかな”といったような
感覚的なものを文体から察知して欲しいことの現われだろうと思っている。
ようするに、あまりキツクない言い方にしたいとのことか。
ここで、要となっているのはこの既成概念。
“漢文”=“キツイ”“堅苦しい”“小難しい”“冷たい”
“和文”=“柔らか”“やさしい”“分かりやすい““温かい”
こんなイメージ。
誰も持っているんじゃなかろうか?
だって、ねえ。
どう考えたって、漢字熟語と言えば堅苦しい。
日常会話で4文字熟語を使って言い表す人がいたら、
間違いなくケムたがられるでしょ?
そこが 和語 だと、感じが違う。
和語はひらがなの文体・文章。
「つれづれなるままに・・・そこはかとなく 書き綴れば」もしかり
「春はあけぼの、ようよう白くなりゆくやまぎわ・・・」しかり。
夫である藤原兼家との結婚生活や、兼家のもうひとりの妻である時姫(藤原道長の母)との競争、夫に次々とできる妻妾のことが書かれ、また唐崎祓、石山詣、長谷詣などの旅先でのできごと、上流貴族との交際、さらに母の死による孤独、息子藤原道綱や養女についての記事があるという「蜻蛉日記」などは、その後の女流(日記)文学のさきがけとされていると言われる。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
これなどは、ほんと、今のブログ的な内容じゃない?
「土佐日記」というのが記憶に深く残っている。
(以下出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
紀貫之の著したもので、成立は935年(承平5年)頃と言われる。930年(延長8年)から934年(承平4年)土佐の国の国司だった貫之が、任期を終えて土佐から京へ戻るまでの55日間の紀行を、女の作者を装って平仮名で綴った。この時代男性の日記は漢文で書くのが当たり前であり、そのため、紀貫之に従った女性と言う設定で書かれた。
そう、この頃の文体の主流は“漢文”であり、“男文体”とでもいいましょうか。
日記文学(=女流文学)が和文(ひらがな)で確立されたのは、やはり
その“柔らかな”印象が“女性”の持つやさしさと重なったからだろうね、と。
ただし、それを仕掛けたのは男の紀貫之。
そこがスゴイよね。
今で言うところの・・・・つんくあたりか?
まあ、文体、表現一つで印象は大分変わってくるぞ、ってなこと。
そんなことを実感(逆実感?)した出来事があった。
先日、薬局での一コマ。
(細やかな、伝わりやすい=和文、堅苦しく冷たい印象=漢文・・?)
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おっちゃん : おい、わきの下のにおい消しどこや?
薬局の店員 : あ、制汗剤ですね?
おっちゃん : ああ。わきの下のにおい消しや。どこにおいてる?
薬局の店員 : ○○さん、制汗剤、ご案内 宜しく。
うーん。。。分かりやすい、伝わりやすい和文より
堅苦しく冷たい漢文の方が、心地よいこともあるのかも・・・・
そんな風に思った ある日の 夏の夜の出来事
日本語、大切に扱わなきゃね。。。。
しかし、“におい消し”という表現は・・・合っているのか??
こと“文体”というものにも少しは気を使う。
多く、同じように感じる方がいるとは思うが
普段、書くにあたってはなるべく“和文”的な表現にしているつもり。
それは、読み手と書き手とのコミュニケーション上の微妙な(?)雰囲気
というか、ニュアンスというか(ここで外来語を出すのはまずいか・・・)
受け取って欲しい微妙な気配とも言うべきものに、
“柔らかさ”や、“やさしさ”、或いは“細やかな”といったような
感覚的なものを文体から察知して欲しいことの現われだろうと思っている。
ようするに、あまりキツクない言い方にしたいとのことか。
ここで、要となっているのはこの既成概念。
“漢文”=“キツイ”“堅苦しい”“小難しい”“冷たい”
“和文”=“柔らか”“やさしい”“分かりやすい““温かい”
こんなイメージ。
誰も持っているんじゃなかろうか?
だって、ねえ。
どう考えたって、漢字熟語と言えば堅苦しい。
日常会話で4文字熟語を使って言い表す人がいたら、
間違いなくケムたがられるでしょ?
そこが 和語 だと、感じが違う。
和語はひらがなの文体・文章。
「つれづれなるままに・・・そこはかとなく 書き綴れば」もしかり
「春はあけぼの、ようよう白くなりゆくやまぎわ・・・」しかり。
夫である藤原兼家との結婚生活や、兼家のもうひとりの妻である時姫(藤原道長の母)との競争、夫に次々とできる妻妾のことが書かれ、また唐崎祓、石山詣、長谷詣などの旅先でのできごと、上流貴族との交際、さらに母の死による孤独、息子藤原道綱や養女についての記事があるという「蜻蛉日記」などは、その後の女流(日記)文学のさきがけとされていると言われる。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
これなどは、ほんと、今のブログ的な内容じゃない?
「土佐日記」というのが記憶に深く残っている。
(以下出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
紀貫之の著したもので、成立は935年(承平5年)頃と言われる。930年(延長8年)から934年(承平4年)土佐の国の国司だった貫之が、任期を終えて土佐から京へ戻るまでの55日間の紀行を、女の作者を装って平仮名で綴った。この時代男性の日記は漢文で書くのが当たり前であり、そのため、紀貫之に従った女性と言う設定で書かれた。
そう、この頃の文体の主流は“漢文”であり、“男文体”とでもいいましょうか。
日記文学(=女流文学)が和文(ひらがな)で確立されたのは、やはり
その“柔らかな”印象が“女性”の持つやさしさと重なったからだろうね、と。
ただし、それを仕掛けたのは男の紀貫之。
そこがスゴイよね。
今で言うところの・・・・つんくあたりか?
まあ、文体、表現一つで印象は大分変わってくるぞ、ってなこと。
そんなことを実感(逆実感?)した出来事があった。
先日、薬局での一コマ。
(細やかな、伝わりやすい=和文、堅苦しく冷たい印象=漢文・・?)
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おっちゃん : おい、わきの下のにおい消しどこや?
薬局の店員 : あ、制汗剤ですね?
おっちゃん : ああ。わきの下のにおい消しや。どこにおいてる?
薬局の店員 : ○○さん、制汗剤、ご案内 宜しく。
うーん。。。分かりやすい、伝わりやすい和文より
堅苦しく冷たい漢文の方が、心地よいこともあるのかも・・・・
そんな風に思った ある日の 夏の夜の出来事
日本語、大切に扱わなきゃね。。。。
しかし、“におい消し”という表現は・・・合っているのか??
日記っていいながら、書いてるものと読んでるものとの感覚の確かめ合いみたいなところがあるよね。。
日記と言わず、随筆っていえばいいのかな。。?
まぁ、状況しだいってことですかね~
ブログはじめる前なんて、「なんでみんな日記なんて公開してるんやろ~」って思ってたけど、昔からそういうものってあったんよね。
はじめてみると、みんなとのやりとり楽しいし
ちょっと違うかもしれないけど、大阪弁をそのまま、ひらがなで書くとちょっと和みます。