♪団子四兄弟
写真㊤:ねこまんまちゃん
団子三兄弟ならぬ みたらし団子四兄弟 の話。
みたらし団子については、このblogでも何回かにわたって採り上げてきた。
各地各様のみたらし団子が存在する。味もいろいろである。甘いの、醤油味のもの、みそ味のもの、‘とろみ’をつけたものつけないもの、さらに串に刺してあるもの刺してないもの……実にさまざまである。どれが好きかは各人各様であろう。
しかし面白いことに気付いた人がいる。筆者の友人だが、江戸っ子の彼は「東京では串に刺さった団子の数は、普通4個である」と主張する。
なるほど………そう言われて注意してみると、東京では串に団子を4個刺したものが多い。
そこでザッとだが調べてみたら、絶対的というわけではないものの、概ね西は5個が多く、東京は4個が多い。全国的には詳しくはわからない。3~5個でバラバラのようだ。
なぜ東京だけが4個が多いの
か?
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意外なことが原因だった。
その前に、江戸時代の通貨制度について簡単に触れなければならない。
江戸時代の通貨制度は、小判などの金貨、銀通貨、銭の三本立てだった。
詳しい説明は別の機会に譲るが、非常に大雑把にいって、大名をはじめ上級武士や大商人のクラスは主に金貨(一両小判・一分金・一朱金)、下級の武士や中小商人は主に銀貨(丁銀・豆板銀・一分銀・一朱銀)、庶民は専ら銭貨(一文銭・四文銭)を使うのが通常だった。また大坂では金貨よりも銀貨が主として使われたらしい。
そのうち庶民の通貨である一文銭は銅貨で、幕府がこれを最初に作ったのは、1636(寛永13)年のことである。当時の年号から「寛永通宝」と称した。それ以降、幕末に至るまで「寛永通宝」の名称で作り続けた。江戸庶民に最も親しまれた通貨である。
画像元 → http://www15.ocn.ne.jp/~hiromaru/tetu5.html
1768(明和5)年、真鍮製の四文銭が発行され、これも「寛永通宝」と刻まれていた。一文銭よりもやや大型で、裏に青海波(せいかいは)の模様が描かれていたことから、「波銭」とも呼ばれた。
http://www.rakuten.co.jp/icoins/434461/449118/545756/
以下大筋は、【PHP新書 「お江戸の意外な生活事情」 中江克己】より引用した。
四文銭は使い勝手が良かった反面、物価には大きな影響をおよぼした。商品の値段が四文銭にあわせて、四文の倍数、八文、十二文、十六文、二十四文などが主流となり、五文とか十文の値をつけた商品が少なくなった。
その典型例が、串団子=みたらし団子であった。串団子は、5個を一串にして五文で売られていた。
しかし四文銭が出回ると、四文銭で串団子1本を食べようとする客が多くなった。そこで団子屋は、4個で一串にし、四文で売るようになったそうだ。
06.09.04