フツーの市民の無頼性について
編集委員・吐山 継彦
■共在する従順性と無頼性
今回の東北・関東の大災害において、過酷な状況下での被災地の市民による行動が世界の人々に感銘を与えたと報じられた。とりわけ、その冷静さと規律正しさ、つまり秩序を守る態度が世界各国の関心、感心を呼び起こしたようだ。また、このことに対して、被災しなかった地域の市民たちが日本人と
しての“誇り”を感じたことも確かであろう。しかし、マスコミやネットであまりにもそのことが話題に上るので、少し違う角度から事態を考察してみたいと思う。
「規律正しい」とか「秩序を守る」というのは、社会的規範に対しての順応性の高さを意味しているのだろう。言い換えれば、体制(大勢)に順応しやすい、従順性が高いということでもある。確かにこれは、権力側にとっては日本人の国民的な美質の一つとも考えられるのだろう。
では、一般的にそれとは正反対と考えられる抵抗性・反抗性、異議申立てへの積極性といった、民主主義や多元主義にとって不可欠な資質、要素についてはどうだろう。例えば、福島の原発事故。これまでぼくら日本の市民は、原発推進という国策に対してあまりにも唯々諾々と従って来た部分が多いのではないだろうか。もっと抵抗し、異議申立てをするべきだった、と感じている人も多いはずである。国や権威の言うことを鵜呑みにすることは、時には大きな禍根をもたらすということが今回、身にしみて分かった。
ところで、近畿地方で言えば、福島県と同じく太平洋に面した和歌山県と三重県に一つも原発がない。過去に誘致話はいくつかあった。大阪、名古屋の大都市圏に近く、両県とも自然はとても豊かだが、資本主義経済という意味では取り立てて豊かなところではないから、交付金をエサに電力会社が原発立地を探しても不思議な話ではない。しかし三重県では芦浜原発が2000年に白紙撤回されているし、和歌山県でも60年代後半から70年代にかけて日高町や日置川町で原発建設計画があったが、実現していない。これは何も推進側が簡単にあきらめたわけではなく、地域住民の大論争と反対運動があったからである。だから、同義反復を承知で言うと、本当の意味での“市民主体の民主主義”にとっては、よき従順性やフォロワーシップばかりでなく、市民としてのある種の“ 無頼性”が必要不可欠なのではないかと思う。無頼という言葉は誤解を受けやすいが、辞書的には「定職が無くて、法を無視した行動をすること(新明解国語辞典)」とか「たよるべきところのないこと(広辞苑)」という意味である。これら二義は、全く独立した二つの意味というより、合体してそこから「ゴロツキ」や「不良」などの含意も出てくる。
いま被災地の人々は、「法を無視した行動」は論外としても、「仕事も無く、頼るべきところも無い」という意味では真の無頼なのである。これを少し拡大解釈して、市民の無頼性とは、「権力・権威に頼らず、自分たちで生活を確立・維持したいと願う気質」とでもコジツケてみたい心持ちである。
従順性と無頼性という二つの資質はぼくら市民の中に共在しているものだが、大きな違いは、前者は新規の行動を伴わないが、後者は必ずなんらかの形での既存の秩序に対する異議申立てと行動を含んでいることである。そういう意味では、民主主義的市民社会にとって、市民の無頼性が不可欠だと言っても過言ではないだろう。
■無頼性の根拠としての無名性
市民の無頼性について論じるとき、すぐに頭に浮かぶのが沢木耕太郎が描いた実父の物語『無名』の中に出てくる俳句「その肩の 無頼のかげや 懐ふところで手」である。句意は、普通に考えると、沢木の父・二郎が後ろから誰かの背中を見ており、その人物の懐手の様子に何らかの無頼の雰囲気があるのを感じている、というようなことであろう。しかし沢木は、懐手が出てくる父の別の句「黒つむぎ 妻厭へども 懐手」を重ね、この句が二郎自身を詠んだことは明らかだから、実は「その肩の」の句の人物も父自身のことではないか……と推測する。そして次のように書く。
「父は無頼の人だったか。いや、無頼とは最も遠い人だった。博打とも、女出入りとも無縁の人だった。子供に手を上げたこともなく、ことによったら声を荒げたこともなかったかもしれない。一合の酒と、一冊の本があればよい人だった。しかし、もしかしたら、無頼とは父のような人のことを言うのではないか。放蕩もせず、悪事も犯さなかったが、父のような生き方こそ真の無頼と言うのではないか……」。
では、この「父のような生き方」とはどういうものなのだろうか。別のところで沢木は次のように述べている。「父には自分が何者かであることを人に示したいというところがまったくなかった。何者でもない自分を静かに受け入れ、その状態に満足していた」。
このような、自己顕示に対する無欲こそが、フツーの市民の無頼性の根拠であろう。成功したいとか、名を成したいとか、功績を残したいなどは、結局全て自己顕示欲の為せる技であるが、そういう要素が全くなく、無名性を受容している人間というのは御しがたいものである。たとえば、政治や経済がその人物を利用したいと思っても、出世欲も名誉欲もないから、権力・権威になびかない。市民の中にあるこのような無頼性こそが、巨大な力に対する抵抗、異議申立てを可能にする。
人々が既存の社会体制によく順応する、ということは国家(社会)の安定にとって不可欠のことである。それは、日本がある程度、不当な暴力や収賄によらず、正義と公正に基づいて運営されている証でもある。しかしながら、もし政府や大企業など巨大な影響力をもつシステムが、健全な市民社会の存続を脅かすなら、市民は躊躇なくその無頼性を発揮すべきだろう。そのことは過激でも何でもなく、むしろ市民としての義務である。
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