先日はキルタンの会に参加しました。
キルタンは終わりに向けて盛り上がるにつれ、小さなライブ会場です。人々が踊りだす(^^)。
みんなが立ち上がって、ぴょんぴょん跳ねたり、踊りだしたり… 沖縄って感じ(笑)要するにドリカムのコンサートみたいな感じなんですよね。
それは、純粋に楽しい、という感覚です。で、それが聖歌を歌っている間に起こる。
まぁ歌を歌うということも、とても強いストレス発散効果があることは誰でも実感として感じることが出来ますよね?
私は1人で車を運転しているときは、結構大音量で歌を歌っています(^^)
そして、踊りだす人々の様は、ある種、阿波踊りを思い起こさせます。踊るあほですね。高揚感&恍惚感があります。疲れてくたくたになるまで踊る・・・というか踊り狂う。 クラブとか昔ならディスコだってそういう快感があったのではないかと思います。
それはお祭りのクライマックスと似ています。原始宗教でもありそう…雨乞いダンスとか?人は集団である種の恍惚感を得るとトランス状態に入りやすいそうですし…基本的にお祭りは”祀り”、つまり神を崇め、祀ることから来ているのでそれも理解できます。
…というわけでキルタンを歌うことに見出せるのは
・純粋な楽しさ= 感情
・祭りの恍惚感= 感覚
とこれがもたらすのは、一般的なヨガではめったに無い、開放感です。
■ 神聖なのはいいけど神聖すぎるのよね…
私には不満がありました…ヨガはなかなかストレスを発散させる効果が無いことでした。バレエと比べてです。
バレエの場合…笑いを取る余地が一杯あります。バレエのレッスンでにこりともせずに帰ることはめったに無いです。それはいっくら堅苦しい決まりに一杯に縛られていても、バレエというものが結局は踊りだからですね。ジャンプも回転も、喜びの表現の一つなのです。表現ですから、そこには感情があるはずで、ダンサーの究極の目的は相手に同じ感情(共感)を呼び起こすことです。だから結局、踊ること自体が喜びでもありますし、喜びを伝播させることが究極的にはバレエの目的です。
まぁ単に優雅であるはずのポーズを一般人がやるとダサくて笑わずにはいられない、ってだけですが(^^)
ところがヨガの場合は、なんとなく神聖な感じがしすぎて、ニコニコなんかしたらいけない感じ(笑)?
神聖=神妙な顔をしなくてはいけない という連想は、おそらく中世の宗教の遺産ですね…世界中の宗教が権威をまとって失敗したので…ある人を尊敬するというのは、その人に笑顔を見せない、ということでもあったのです…だって牧師さんとか偉そうでしょう。にこにこしているお坊さんなんて、読経の価値が下がりそうだし、神主が神妙でなかったら神様降りてきてくれなさそう…
ってわけでヨガは基本、あまり笑いがありません。そこが私には最大の不満でした。不服が一杯・・・もっと楽しくないと…なのに笑いを取るネタにも欠けます…だから、ヨガは発散した感じが足りないんですよね。
発散ではなく集中… バレエの場合は発散するために力を集中する感じです。ヨガでは修行の、行のイメージが強すぎて、とても禁欲的、ストイックで、なんだかジャマしちゃ悪い感じ。
そこがどうも私には現代人が必要な癒し…笑いや無邪気さを取り戻すには、ヨガは非力なような気がしていました。
そこを埋める手段として歌を歌うキルタンは発散と言う効果がヨガを補っていると思いました。
■ 白魔術&黒魔術
ヨガが解脱を目的にしたものであるとすると、菜食だったり体を鍛えたりなどは良い習慣と言うことで白魔術ですね。
逆に飲酒などの自己破滅的な悪習慣による自己解放感…それはいうなれば黒魔術ですね?ヨガでは一般に詳細な定義とは別に大まかな意味合いとして、その悪の道のほうにタントラ(呪術的)という言葉を使うそうです。
私はこのタントラと言う言葉は『神が望むこと』という本で(内容は神は何も望まない、という話)「タントラとは自己と目に見える世界がひとつであることの認識」という定義を最初に知りましたが一般にはヨガ界ではタントラと言うと禁じられた手を使う的な感じです。
開放感の無さ…決まりばっかり、良い子ばっかり、な感じが、ヨガではなく、例えば夜の飲み歩きなど不健康な行為に人々がどうしてもひきつけられてしまう原因ですよね…、例えば女性だと甘いものをたくさん食べたりします。
私は自己破滅的でなければ、多少はOKかなと思います。ヨガでは別に人間的な楽しみを味わってはいけないと言っているのではありません(^^)。
むしろ、五感を開放するのはとてもヨガ的にはおススメのことです。良い香りや良いイメージ、感触などの感性を研ぎ澄ますのは、観察眼を向けるということでとてもヨガ的です。どんどん緻密化した結果、意識の拡大がある、というのがヨガ理論ですし。
ですから、ヨガは禁欲を人間に強いるものではないのですが…なぜかそういう話になっているのはやはり人々がとても抑圧されていて、その抑圧からの解放を望むからですね。
抑圧=ストレスです。でもストレスと思っていることは実はストレスではない。思い込みというほうが正しいです。思い込みそのものが覆れば、ストレスはストレスではなくなります。仕事が苦痛だと思い込んでいればストレスですが、楽しいと思えば仕事はもっとやりたいものになるでしょう。
仕事と言うストレスをタバコと言う発散でやりくりしているのが黒魔術とすれば、仕事と言うストレス自体を喜びに変えてしまうのがヨガという白魔術です。
黒魔術は延々と終わることなく続けないといけません。白魔術は原因から根本療法です。なので、結局は、ストレスを発散するのではなく、ストレスがストレスでは無くなるように物事の見方、考え方を変えるほうが永続性のある、生産的な方法です。
でも、目の前にある苦は取り除かないと何も出来ないのも事実…そこで健康的な手段でストレスを発散する方法があればいいなとヨガを教えながら感じていました。
私は笑いとヨガに取り入れたいのですがヨガは笑いを取る余地がそんなに無いのですよね…うーん、困ったな。
それにはキルタン、ちょっといいかもです。ヨガのように日常的にやらずとも、たまにでも、充分発散効果があると思いました。
キルタンは終わりに向けて盛り上がるにつれ、小さなライブ会場です。人々が踊りだす(^^)。
みんなが立ち上がって、ぴょんぴょん跳ねたり、踊りだしたり… 沖縄って感じ(笑)要するにドリカムのコンサートみたいな感じなんですよね。
それは、純粋に楽しい、という感覚です。で、それが聖歌を歌っている間に起こる。
まぁ歌を歌うということも、とても強いストレス発散効果があることは誰でも実感として感じることが出来ますよね?
私は1人で車を運転しているときは、結構大音量で歌を歌っています(^^)
そして、踊りだす人々の様は、ある種、阿波踊りを思い起こさせます。踊るあほですね。高揚感&恍惚感があります。疲れてくたくたになるまで踊る・・・というか踊り狂う。 クラブとか昔ならディスコだってそういう快感があったのではないかと思います。
それはお祭りのクライマックスと似ています。原始宗教でもありそう…雨乞いダンスとか?人は集団である種の恍惚感を得るとトランス状態に入りやすいそうですし…基本的にお祭りは”祀り”、つまり神を崇め、祀ることから来ているのでそれも理解できます。
…というわけでキルタンを歌うことに見出せるのは
・純粋な楽しさ= 感情
・祭りの恍惚感= 感覚
とこれがもたらすのは、一般的なヨガではめったに無い、開放感です。
■ 神聖なのはいいけど神聖すぎるのよね…
私には不満がありました…ヨガはなかなかストレスを発散させる効果が無いことでした。バレエと比べてです。
バレエの場合…笑いを取る余地が一杯あります。バレエのレッスンでにこりともせずに帰ることはめったに無いです。それはいっくら堅苦しい決まりに一杯に縛られていても、バレエというものが結局は踊りだからですね。ジャンプも回転も、喜びの表現の一つなのです。表現ですから、そこには感情があるはずで、ダンサーの究極の目的は相手に同じ感情(共感)を呼び起こすことです。だから結局、踊ること自体が喜びでもありますし、喜びを伝播させることが究極的にはバレエの目的です。
まぁ単に優雅であるはずのポーズを一般人がやるとダサくて笑わずにはいられない、ってだけですが(^^)
ところがヨガの場合は、なんとなく神聖な感じがしすぎて、ニコニコなんかしたらいけない感じ(笑)?
神聖=神妙な顔をしなくてはいけない という連想は、おそらく中世の宗教の遺産ですね…世界中の宗教が権威をまとって失敗したので…ある人を尊敬するというのは、その人に笑顔を見せない、ということでもあったのです…だって牧師さんとか偉そうでしょう。にこにこしているお坊さんなんて、読経の価値が下がりそうだし、神主が神妙でなかったら神様降りてきてくれなさそう…
ってわけでヨガは基本、あまり笑いがありません。そこが私には最大の不満でした。不服が一杯・・・もっと楽しくないと…なのに笑いを取るネタにも欠けます…だから、ヨガは発散した感じが足りないんですよね。
発散ではなく集中… バレエの場合は発散するために力を集中する感じです。ヨガでは修行の、行のイメージが強すぎて、とても禁欲的、ストイックで、なんだかジャマしちゃ悪い感じ。
そこがどうも私には現代人が必要な癒し…笑いや無邪気さを取り戻すには、ヨガは非力なような気がしていました。
そこを埋める手段として歌を歌うキルタンは発散と言う効果がヨガを補っていると思いました。
■ 白魔術&黒魔術
ヨガが解脱を目的にしたものであるとすると、菜食だったり体を鍛えたりなどは良い習慣と言うことで白魔術ですね。
逆に飲酒などの自己破滅的な悪習慣による自己解放感…それはいうなれば黒魔術ですね?ヨガでは一般に詳細な定義とは別に大まかな意味合いとして、その悪の道のほうにタントラ(呪術的)という言葉を使うそうです。
私はこのタントラと言う言葉は『神が望むこと』という本で(内容は神は何も望まない、という話)「タントラとは自己と目に見える世界がひとつであることの認識」という定義を最初に知りましたが一般にはヨガ界ではタントラと言うと禁じられた手を使う的な感じです。
開放感の無さ…決まりばっかり、良い子ばっかり、な感じが、ヨガではなく、例えば夜の飲み歩きなど不健康な行為に人々がどうしてもひきつけられてしまう原因ですよね…、例えば女性だと甘いものをたくさん食べたりします。
私は自己破滅的でなければ、多少はOKかなと思います。ヨガでは別に人間的な楽しみを味わってはいけないと言っているのではありません(^^)。
むしろ、五感を開放するのはとてもヨガ的にはおススメのことです。良い香りや良いイメージ、感触などの感性を研ぎ澄ますのは、観察眼を向けるということでとてもヨガ的です。どんどん緻密化した結果、意識の拡大がある、というのがヨガ理論ですし。
ですから、ヨガは禁欲を人間に強いるものではないのですが…なぜかそういう話になっているのはやはり人々がとても抑圧されていて、その抑圧からの解放を望むからですね。
抑圧=ストレスです。でもストレスと思っていることは実はストレスではない。思い込みというほうが正しいです。思い込みそのものが覆れば、ストレスはストレスではなくなります。仕事が苦痛だと思い込んでいればストレスですが、楽しいと思えば仕事はもっとやりたいものになるでしょう。
仕事と言うストレスをタバコと言う発散でやりくりしているのが黒魔術とすれば、仕事と言うストレス自体を喜びに変えてしまうのがヨガという白魔術です。
黒魔術は延々と終わることなく続けないといけません。白魔術は原因から根本療法です。なので、結局は、ストレスを発散するのではなく、ストレスがストレスでは無くなるように物事の見方、考え方を変えるほうが永続性のある、生産的な方法です。
でも、目の前にある苦は取り除かないと何も出来ないのも事実…そこで健康的な手段でストレスを発散する方法があればいいなとヨガを教えながら感じていました。
私は笑いとヨガに取り入れたいのですがヨガは笑いを取る余地がそんなに無いのですよね…うーん、困ったな。
それにはキルタン、ちょっといいかもです。ヨガのように日常的にやらずとも、たまにでも、充分発散効果があると思いました。