オトシモノ、ヒロイモノ

マイニチの中にころがる
落として失くしそうな物
そんなナニカを拾います

追い剥ぎ

2007-02-09 15:44:00 | おーらノツブゆき
あら素敵☆ソレちょうだい
貴方の首から追い剥いだ
縞の襟巻きコノ手に今ある
今なき貴方想う時
慶びに変わる持ち続けた罪ごころ

photo; 先生から追い剥いだ襟巻き
先生の襟巻きあんまり素敵で『ありがとう♪』勝手にそう云って先生の首から外し頂いたのです…ホント酷い学生だったよなぁ…

恩師・香原勝文先生が1月20日に永眠された事はここでも記しました。残念ながら通夜・葬儀には参列できませんでしたが、嬉しい事に友が後輩の読んだ弔辞の原稿を送ってきてくれたのです☆今日、ここに紹介させていただきます。

【弔辞】
 2年前の2005年1月。先生からいただいた葉書には「76歳を1月2日に無事迎えることができました。15歳で少年航空兵、17歳で軍曹で終戦。日大ではラグビー、新聞修業、女房との出会い、卒業して社会部ひと筋、外国特派、そして日芸、君たちゼミ生との出会い。いい人生だったと思います」と書かれていた。
 この葉書を受け取った時、正直早くも人生を振り返る先生に疑問を持ったことを覚えています。しかし今は、この文章が先生の本心であったと思えるのです。
 先生がお亡くなりになったと知った時、僕はただ悔しいとしか思えませんでした。弔辞の話をいただいてからは、この悔しい気持ちを香原ゼミのゼミ生であるならば、感謝の気持ちに変えるべく、先生を取材すべきだと思いました。
 奥様の美津江さんをはじめ、長女のめぐみさん、次女のちさとさん、先生の文章の一番弟子である日本大学文理学部事務局長の笹岡弘虎さん、1期から8期までのゼミ生。そうすると、次から次へと“香原伝説”が出てきました。
 少年航空兵の時は、陸軍三式戦闘機・飛燕に乗る前にいもを食べ、熊本上空で破裂しそうになったと笑っていた先生。
 東京新聞社会部記者の時は、戦後ラオスで失踪した辻政信さんの足跡を実際にたどるために現地へ向かい、その後に書かれたルポ記事が話題となり、「東京新聞に香原あり」という異名をとりました。家庭画報には『事件記者コーさん』という記事も掲載されました。
 新聞記者を卒業後は、学園紛争の嵐が吹き荒れる中、学生とマスコミ対策にうってつけの人物としてその手腕を買われ、日本大学経済学部広報室長を経て、日本大学芸術学部放送学科へと“伝説の道”は続いていきました。
 僕は香原ゼミの試験に落ちました。しかし、新聞記者として長年第一線で活躍してきた経験を持つ、当時一番倍率の高かった先生のゼミにどうしても入りたかった。だから僕は、新歓コンパをやっていた店の前で「只今次点待ち」という看板を首から下げて立っていました。そんな落ちこぼれの僕を「入り口におもしろいやつが立っているぞ。あいつもゼミに入れてやってくれないか」と先生は言って下さいました。
 その瞬間、僕の生きていくための根っこが生まれたと信じ続けています。
 それから14年。先生の78年という人生を振り返れば、本当にわずかな時間しか共有することはできませんでしたが、先生が文章の真髄として教えて下さった『結論を先に書く』『難しいことをわかりやすく書く』『データを盛り込んで書く』『人の逆に行って、みつけたものを書く』ということを踏まえ、僕は今出版社で働いています。
 先生の結婚記念日でもある去年の11月4日。5回目となった『香原先生を囲む会』で言ってましたよね。「俺はこれからガンと闘うために入院生活に入るが、病室でも原稿を書き続ける」と。本日受付にて配られていた1月1日付けの防衛ホーム新聞の『論陣』。残念ながらその原稿が最後の原稿となってしまいましたが、最後までペンで闘う、まさに先生の名前のとおり、文章で勝つ、その姿勢、生き方こそが、香原先生そのものだと思っています。
 今後我々105名のゼミ生は、『香原先生を囲む会』から『香原先生を偲ぶ会』へと名称を変え、まだまだ山のようにあるであろう“香原伝説”を取材し続けていきます。そして先生が体を張って教えてくれた“香原イズム”を継承し、社会に貢献していきます。
 女子ゼミ生の誰もが憧れ、男子ゼミ生の誰もが惚れた香原先生。昭和、平成の時代を駆け抜け、最期はゼミの飲み会後と同じく、風のように逝ってしまいました。その先生の後姿は本当にかっこよすぎます。
 それでも、僕らはその姿を追いかけて生きます。
 香原勝文先生、本当にありがとうございました。

香原ゼミ4期生 福山純生

☆福山くん、ありがとう

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※一年前の今日のツぶゆき※