家族の誰か、はたまたその一族全体の仕事や趣味ゆえに、
生活のある部分だけが突出して贅沢ということがございます。
例えば前回お話しした親族、ニワトリ研究家の家族は、
一つのお値段が普通の15倍もするかという地卵を、
娘がホットケーキを作る時にさえ使っております。
それ以外はごく普通の、まる子ちゃん家や磯野家の様な一家ですが。
私の母の子供時代は戦後の食糧難でございました。
ですが母の実家が呉服屋だったため、その洗い張りの糊に使う為や着物の代金の変わりに、
あちこちから白米が持ち込まれ、米びつが空だった記憶は無いのだそうです。
周囲の子供達が皆、お芋や大根などが入った雑穀米のお弁当を持って来る中、
一人、輝く白米一色のお弁当を持参させられ、肩身が狭く隠れて食べたそうです。
ですが白米ばかり有っても、おかずが有る訳でもなく、貧しさは同じこと。
「同じ白いならお砂糖の方が良いもん!」等と罰当たりなことを考えていたそうです。
その娘、私も子供の頃は大変罰当たりな日々を送っておりました。
私の父は地方には数多く生息する山菜採りの名人の一人。
さすがの父も、今では毎年探すのに悪戦苦闘しておりますが、
私が子供の頃、秋の我が家は松茸のオンパレードでございました。
もうね、飽きるんでございます、松茸。
その頃でも都市部では高値で取引されていることに変わりは有りませんでしたから、
確かに人様に差し上げれば、大変喜んで頂けました。
我が家の女達の秋のひと仕事と言えば、松茸のギフトラッピング。
竹の籠に杉の葉を敷き、松茸を並べ、それを幾つも作って廊下に並べます。
私はその様子を美しいな、と思いました。秋の匂いが廊下に広がっていました。
「人様にものを差し上げる時には、心も一緒に贈らなければね。」
隣に座っている役に立たない妹とともに、そう教えられて育ちました。
そして住所を書いた送り状をそれぞれの籠の上に並べて行く。
ご家族の人数に合わせて、松茸の本数が違いますので間違えない為です。
やっと終わったと思っても、まだい~っぱい残ってるんです。
そして明日になればまた父は山に行く。。。。
初物こそ、有り難がって土瓶蒸しなど頂いてみる我が家族も、
もういい加減にしてくれ!と、贅沢甚だしいことを言い出します。
途方に暮れた母は、目先の変わった料理を次々考案。
「松茸が入っていることが気にならない一品」不届き極まりないテーマです。
松茸チャーハン、和風松茸スパゲティー、松茸グラタン、松茸ハンバーグ等々。
香りを活かすのではなく、殺す為に味噌やらバターやらスパイスやら、もうゴチャゴチャ。
それはそれで美味しかったですけれど。
月日が流れ、私は今陶芸家として日々を暮らしております。
そんな我が家の突出した贅沢は、なんといっても器もの。
トーストがカリッとしたまま保てるトースト専用のお皿、
タイカレーの為だけに作った蓋ものセット、
王様も マイ・おやつ壺 を持っていたりします。
こちらは直径30センチ程の大鉢。
ペーパーシリーズの削りを、斜めに削り上げることで動きを出したものです。
これは我が家で使う為に作ったもので、何に使うかと申しますと・・・・・
たいそう大きなキャンドルホルダーです。
真ん中にちょこんとティーキャンドルが置いてあります。
ちなみに敷物は、ランチョンマットだと思うのですが、
凸凹すぎて使い勝手は悪そうだけれども、敷物としては面白いかも?と購入しておいたもの。
昼の間はコーヒーテーブルの真ん中に置かれた、ただの白い大鉢です。
それが夜になりまして、キャンドルに火をつけますとこうなります。
純白な焼き物の肌に光が反射し、小さなティーキャンドルが驚く程の光を放ちます。
オレンジの光が、鉢の底から登るロクロの穏やかな同心円に沿って陰影を映し出します。
コーヒーテーブルの上に置くキャンドルは、無香料のものがよろしいです。
飲み物の香りを邪魔しないからです。
手持ち在庫が底をついて参りましたので、特別な時にしか使えませんが、
本当は、日本の老舗が作っている和蠟燭が理想です。
燃え尽きる最後の瞬間が、それはそれは美しいからです。
おしゃべりに夢中で、その瞬間を見逃した時など、
プログラム最後の1尺玉を見逃したくらいがっかり致します。
和蠟燭の凄さを知ったのは、一年かけてバーテンダーと日本中を旅していた頃、
和蠟燭の職人さんにお目に掛かった時でした。
大鉢の底から放たれる、ゆらゆら揺れる光をぼんやり眺めておりましたら、
遠く離れた親戚家族のこと、母の子供時代、私の子供時代、そして私達の旅の時代。
様々なことを思い出しました。
花器にもなれば、鉢カバーにもなる。沢山の煮物を入れることも、
柿やリンゴや蜜柑を盛ることも出来る。パーティーの時のキャンディー入れにも・・・・
それでも私はこの大鉢を、キャンドルホルダーとしてだけ使うつもりです。
多様化の時代などと申しまして、色々な用途に使えるものが愛される世の中ですが、
時に、私の最愛なる美の神様には、
一つの目的の為だけに作った、贅沢な器を持つことをお許しいただこうと思います。
フレキシブルではない美も良いものです。
では