高校1年生の時の体育の担任だった俊野先生が授業中に語ってくれた言葉をふと思い出した。
"地面に置かれた幅50センチの板の上を歩けと言われたら、ここにいる大部分の人が、簡単に渡ることができるだろう。しかし同じ板が2棟の100階建てのビルとビルの間に立てかけられていたらどうだろう。何人の人が地面に置かれたときと同じように渡ることができるだろうか"
同じ板の上を地面であろうと、100階建てのビルの上であろうと、同じように渡れるようになるために行うことこそトレーニングの真髄だというのが、そのときの先生の話の要点であったと思う。というか、そのときはその話を一面的にしか受け止められず、上のように解釈していた。
しかし今ではこう思う。
100階建てのビルの間に立てかけられた板を渡ることはおそらく難しいだろう。けどいったんそれを地面まで持ってくれば、それは簡単に渡れるかもしれない板なのである。と。
年齢を重ねて、いろんな経験をし、いろんな話を見聞することで培った想像力は、何かをやったことによるリスクや、そのリスクに伴う不安を増大させて、チャレンジする、自分の可能性に挑むことを阻んでいるのではないか。
自分が今できないと思っていることは、もしかしたら板を100階建てのビルの間に自ら板をかけて、渡るのは難しいと言っているのではないか。
どんなに難しいと思えることでも、それを一旦地面まで持ってくる、そんな尺度と姿勢を自分の中に持っていたい。
"地面に置かれた幅50センチの板の上を歩けと言われたら、ここにいる大部分の人が、簡単に渡ることができるだろう。しかし同じ板が2棟の100階建てのビルとビルの間に立てかけられていたらどうだろう。何人の人が地面に置かれたときと同じように渡ることができるだろうか"
同じ板の上を地面であろうと、100階建てのビルの上であろうと、同じように渡れるようになるために行うことこそトレーニングの真髄だというのが、そのときの先生の話の要点であったと思う。というか、そのときはその話を一面的にしか受け止められず、上のように解釈していた。
しかし今ではこう思う。
100階建てのビルの間に立てかけられた板を渡ることはおそらく難しいだろう。けどいったんそれを地面まで持ってくれば、それは簡単に渡れるかもしれない板なのである。と。
年齢を重ねて、いろんな経験をし、いろんな話を見聞することで培った想像力は、何かをやったことによるリスクや、そのリスクに伴う不安を増大させて、チャレンジする、自分の可能性に挑むことを阻んでいるのではないか。
自分が今できないと思っていることは、もしかしたら板を100階建てのビルの間に自ら板をかけて、渡るのは難しいと言っているのではないか。
どんなに難しいと思えることでも、それを一旦地面まで持ってくる、そんな尺度と姿勢を自分の中に持っていたい。