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蹴ログ

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「ヴェネツィアの宿」~カティアが歩いた道~

2006-06-22 01:56:29 | 須賀敦子
 今一番会って話を伺いたい方である湯浅健二氏が、 
湯浅健二のサッカーホームページの最新トピックで、予選リーグ3連勝したドイツに触れ、

「・・あくまでも基本に忠実に、ギリギリまで闘う意志を高揚させて全力を尽くす・・それがドイツのサッカーなんだ・・」

と表現した。できることを徹底してやる。ゲルマン魂強しである。

 この強いドイツをまざまざと見せられて、思い浮かんだのが、頼りの須賀敦子「ヴェネツィアの宿」の「カティアが歩いた道」。
 
 留学先のパリのルームメートとして出会った、ドイツ人「カティア」の「歩き靴」(chaussures pour marcher)についての一節。

 "たんすの上のカティアの「歩き靴」に、私があるまぶしさのようなものを覚えたのは、それが、歩くことを通して子供たちに土地のつながりの感覚をおぼえさせるという、ヨーロッパの人間が何世紀にもわたって大事にしてきた、文化の伝統の一端をまざまざと象徴しているように思えたからだった。"
 
 ブラジル、そして主にフランス、ドイツのシステムのいいとこ取りで積み上げてきた日本のサッカーには、まだ確固とした日本サッカーとしてのスタイルはない。伝統というものは数えきれないチャレンジとその結果の振り返りにより作られるもので、一朝一夕では作られない。今日本代表は(というより日本のサッカーは)、何が自分達のスタイルなのか試行錯誤している段階である。

 慶應義塾体育会ソッカー部女子も、まだ始まったばかり。しかし慶應としての伝統は受け継ぐことができる。それは大きな強みの一つだ。大学時代には合宿所に何気なく置かれているその色紙の重みを理解していなかったが「練習は不可能を可能とす」という小泉信三氏の言葉。「魂のディフェンス」(このディフェンスという言葉にはいわゆる受け身な守備ではなく、攻撃的な守備という意識が刻み込まれている)に代表されるあきらめない慶應魂。その伝統を受け継ぐだけの魅力と個性をもった選手は揃っている。そのベースの上にいかに自分達のサッカーを作り上げていくか。「歩き靴」による一歩一歩を踏み出していることを忘れてはならないと思う。

ヴェネツィアの宿

文藝春秋

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2005-08-25 23:42:44 | 須賀敦子
 被害が大きくならないことを祈るけど、たまには台風もいい。時間がゆっくりと過ぎている。

「外に出て夏を探し、夏が大きな安全ピンのように魂をしっかりとからだに留めてくれると、また中に戻った」

 魂は留まっていますか?

 歩みを止めて後ろを振り返ったりしていないですか?

 やりたいことでなく、やるべきことをやっていますか?

須賀敦子のヴェネツィア

河出書房新社

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停滞

2005-07-11 01:00:25 | 須賀敦子
 思考不明瞭、何をするのにも体が重く、そのわりに、気持ちはふわふわ浮いた感じの1週間。
別に今は自分の中ではオフと定めた時期なので、それでよいのだけど、定まってない不安がさらに疲れを増す。

 こんなときは、やはり須賀敦子だと思い、「写真とエッセイでつづる須賀敦子の軌跡」シリーズを
並べて、気持ちだけ今は、トリエステ。

帯にある、
"サバのなにを理解したくて、自分はトリエステの坂道を歩こうとしているのだろう。さまざまな思いが錯綜するなかで、押し殺せないなにかが、私をこの町に呼びよせたのだった。「トリエステの坂道」"

 たとえ、その行動をとることに、明確な意義や目的を見いだせなくても、自分のなかの押し殺せない何かに逆らわずいたほうがいい。そんな時期もあると思う。

来週もがんばっていきまっしょい。

須賀敦子のトリエステと記憶の町

河出書房新社

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『樹々は緑か』

2005-01-26 00:58:52 | 須賀敦子
どういった偶然か。それとも一度読んだ記憶が遠い記憶の中に残っていたのか、昨日と今日全く無意識に手に取ったエッセイに、吉行淳之介『樹々は緑か』が引用されていた。

昨日出勤前に手に取ったのは、
『やがて哀しき外国語』村上春樹/講談社文庫

それを昨夜読み終えたので、今日通勤前に全く偶然に本棚(というよりは本の集積場)から手に取ったのは、
『トリエステの坂道』須賀敦子/新潮文庫

両方ともエッセイ集だが、
『やがて哀しき外国語』では、アメリカの地で『樹々は緑か』の英訳文しか手に入らなかった著者が、それを日本語に逆翻訳して、原文と比較することを試みている。その中で英文翻訳で吉行淳之介を読むことを『クラシック音楽の古楽器演奏にも似た、「洗いなおし」風の面白みがある。』と語る。

『トリエステの坂道』では、1995年(地下鉄サリン事件があった年だ)という時代に、著者が宗教について思う中で(著者はキリスト教の信教をいかに現実世界の課題解決に結びつけるかを命題としていた)、『樹々は緑か』を学生と読んだことにふれ、『宗教といってよいものがあるとすれば、この小説に似ているのではないだろうか。』としている。

どちらも、『樹々は緑か』の冒頭を引用しているので紹介したい。昨日のことながら、今日『トリエステの坂道』を読みながら、あれどこかで読んだなあと考え込んでしまった。この文の描写について僕は語る言葉をもたない。

 陸橋の上で、伊木一郎は立止つて、眼下に拡がつている日暮れの街に眼を向けた。
 毎日、この時刻が彼の出勤時間だ。そして毎日彼は橋の上に立止つて、街を眺める。
 街は、靄のようなものの中に半ば沈んでいた。それは本当の夕靄なのか、この地帯を取囲むように聳えている幾十本もの煙突から立騰る煤煙が層を成して街の上にかぶさつてくるのか分からないが、いつも、街は靄の中に沈んでいた。
 靄の中の街を見下した時、彼の中に起こる感情が二種類ある。一つは、その街の中に降りてゆくのが億劫な気分だ。其処で待つている単調な仕事のことを、彼は鬱陶しい気持ちで考える。橋の上でそのまま踵を返して部屋に戻り、蒲団に潜り込んで眠り込んでしまいたくなる。
 もう一つは、靄の底にかすんでいる得体の知れぬ場所へ降りていく、という刺戟的な気分である。その二種類の感情のうちのどちらかが、その日によつて彼の中に起る。


『トリエステの坂道』は、須賀敦子を先輩に紹介されて、初めて手に取った本だが、『ヴェネツィアの夜』ほど、これまで読み返したことはなかった。ただ今読んでみて、あらためて須賀敦子に感じ入っている。

トリエステの描写を読みながら、初めての海外出張のときローマの空港で出会った老夫婦を思った。お二人とも、樹が年輪を刻んだようなとても自然な服装で、とてもお洒落な老夫婦だなというのが第一印象だった。旦那様が若い頃、造船の技術協力で転々としていたイタリアの港湾都市を、定年を迎えた今、再び夫婦で旅しているとのことだった。

ローマの空港の国内線用の小さなターミナルで、自分はフィレンツェ、彼らはたしかトリエステに向かう飛行機を待っていた。国内線の飛行機を1時間30分前からロビーで待つのは、彼らと僕の日本人3人しかおらず、そのなかで、たまりかねて話しかけてくれた奥様が、少し離れて座る旦那様を、「実はあの人の方があなたに話しかけたくてしょうがないのよ」と。

旦那様が今気づいたように隣に座ると、そこから先は彼のイタリアでの武勇伝(外国の地で受け入れられるためにはどうすべきか、ディナーの席ではどんな話をすべきかなどなど)であっという間に飛行機の時間が来てしまった。

そんな彼の武勇伝は、はじめての出張でかちんこちんだった自分に少なからず勇気を与えてくれたと思う。

そうだ。彼らもきっとこの『トリエステの坂道』を読んだに違いない。そして、彼らが若い頃この街を訪れた記憶と、このエッセイに描写された街の細部を思い浮かべながら、二人で歩いたに違いない。

あれから3年近く経った今でも鮮明に思い浮かぶ、夫婦の凛としたたたずまいに、須賀敦子の影響を想像するのである。

トリエステの坂道

新潮社

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須賀敦子を読む

2004-10-13 01:42:17 | 須賀敦子
 おそらく、冷たい雨と台風でその大半の花を落としながらも、かすかな存在感を残す金木犀と、昨日の負けで内省的になった心が一緒になって、須賀敦子を読み返している。

 フランスやイタリアでの長いヨーロッパ生活の中で、絶えず自分と向き合って選び取った一つ一つの言葉が、いつか行ったレオンのカテドラルの建物とステンドグラスのように重厚な、この女性の文章が好きだ。

 その日から、それはたいてい、よろこびではなくて、悲しいこと、がまんできないことのほうがだんぜん多かったのだが、自分ひとりで持ちきれない荷が肩にのしかかるのを感じると、私はその重さを測りに橋をわたってノートル・ダムに出かけた。中世からの時間のつながりを、揺れつづける人々のなかにあってどっしりと生き抜いた彼女は、たしかに頼り甲斐のある測り手だった。

そのころ読んだ、サン=テグジュベリの文章が私を揺り動かした。「自分がカテドラルを建てる人間にならなければ、意味がない。できあがったカテドラルのなかに、ぬくぬくと自分の席を得ようとする人間になってはだめだ。」
須賀敦子 「ヴェネツィアの宿」 文春文庫

今は、自分の生き方に迷ったときの、その考えの深さの測り手に、須賀敦子がいる。