大学の地元、相模大野で活動しているNPOが、「市民」をテーマに連続講座をやっている。その3回目に私が話をすることになった。月曜日の夕方の7時から、難しいテーマであるが、10人ほどの市民が集まった。
題目は、市民って誰のこと?主に、市民と行政との適度な関係性は、どうすれば生まれるのか?である。
メンバーの問題意識は、住民とは、たとえば住民エゴという言葉に代表されるように、自立性・公共性が欠けた存在であるが、それに対して市民は、自立した個人としての人格を持ち、民主主義の担い手にふさわしい存在であるというものだろう。つまり、どうすれば「住民」から「市民」に変わることができるのかというものだと思う。
それに対して、私の話は、メンバーの期待を裏切るものになった。私も、かつては、住民と市民の関係を同じように整理していたが、自治基本条例を住民と一緒に作るようになって、自分自身の考え方が大きく変わったからである。今では、こうした概念分けをしてもほとんど意味はないと考えるようになったからである。
今では、むしろ住民という存在に魅力を感じている。住民は、時には、驚くほど一方的で冷たい存在になることもあるが、多くの場合は、人懐っこく、また実に懐の深い存在だからである。あるべき論で語る市民像に比べて、なんと魅力的で奥深いことか、そんな風に感じるようになった。
そのなかで、私の仕事は、住民の弱点を減殺し、その魅力を引き出せる制度や仕組みを考え、さまざまな政策現場で実践することである。思えば、たくさんの場数を踏んできたが、そのなかで、住民の魅力にどんどんと惹かれてきたのだと思う。
この日の午後は、NPO論の授業、学生たちの卒論指導、さらに補講で政治学を話した後での市民講座となった。遅い夕食は久しぶりに日高屋になった。