第5回目は地方自治の理論を考えた。少人数なので、話題がどんどん飛ぶ授業である。
フランス革命以降、国家と国民の関係は信託論で説明される。国民は自ら決定し執行することができないから、国民は政府に信託する。それゆえ、政府は、国民の政府ということになり、国民は主権者として、その政府をコントロールする権利を持つことになる。地方政府についても、同様に考えるのが二重の信託論である。この信託論の意義と射程距離を考えた。
今回は、ヨーロッパの中世から話が始まった。地域にいた封建領主が没落し始める。日本で言えば、国人が、戦国大名によって統一され、その戦国大名も織田信長によって統一されるような感じである。フランスでは、ルイ14世の時に絶頂期を迎える。
王様はなぜ、騎士団や農民を支配できるのか。どういう根拠があって、王様といえるのかという問題である。一方は、力である。強い軍隊と財力がその裏付けである。しかし、強いだけでは人は納得しない。一定の権威が求められる。そこに登場するのがローマ教皇である。教会の権威で権力の正当性を図るのである。その理論が王権神授説である。つまり、自分の権力は神から与えられたものであるという理論である。
フランスのルイ16世は、他の国との戦争に負けないように、国民に重税を課す。時代とともに生産力を高め、余剰を持ち始めた農民や商人は、狙われるわけである。しかし、せっかく稼いだお金をみすみす取られるわけにはいかない。その均衡が破れ、爆発したのがフランス革命である。その結果、今度は国民の国ができる。
国民が権力を持つが、ルイ16世の場合と同様に、なぜ国民が権力を持つのか、その正統性の根拠が問われることになる。そこで編み出された理論が、自然権、人権天賦説である。人は生まれながらにして権利を持っている。人はみな平等である。王様だけが偉いわけではないのである。王権は神様から与えられたものかもしれないが、こちらは与えられたものではなく、もともと持っているものである。ここに国民が権力を持つ強い正統性の根拠がある。
その国民が、その権力を政府に信託したというのが信託論である。
ここから、私の理論は、ややひねくれる。
信託したというが、私はいつ信託したのだろうかという疑問である。私にはその記憶がない。では信託を止めるということができるのか。その手続きは、どのようになっているのだろうか。
つまり、知らないうちに信託したことにされ、やめることもできないということは、これは擬制ということである。実態とは違うということである。
さらに話は人権天賦説にひろがる。本当に人は生まれながらにして平等なのか。これも事実とは違うではないか。例えば今年の冬、私は宮古島で、三線を習ったが、連れ合いはあっという間に上達したが、私はいつまでも、基礎の基礎で止まってしまった。明らかに、人は生まれながらにして平等ではない。
自然権思想も人権天賦説も魅力的で優れた理論であり、私も高く評価するが、あるべき論だけで突き進み、もう一方の現実を見ないでいると、自分たちは主権者だから、役所は市民の言う通りにしていればよいという要求型民主主義となったり、あるいはお任せ民主主義に堕してしまう。
そこから、新しい公共論を論じようと考えたが、ヨーロッパの中世、黒死病の話からはじめていては、そこまで到底行きつかない。今回は、尻切れトンボで、悔いの残る授業となってしまった。残念。
フランス革命以降、国家と国民の関係は信託論で説明される。国民は自ら決定し執行することができないから、国民は政府に信託する。それゆえ、政府は、国民の政府ということになり、国民は主権者として、その政府をコントロールする権利を持つことになる。地方政府についても、同様に考えるのが二重の信託論である。この信託論の意義と射程距離を考えた。
今回は、ヨーロッパの中世から話が始まった。地域にいた封建領主が没落し始める。日本で言えば、国人が、戦国大名によって統一され、その戦国大名も織田信長によって統一されるような感じである。フランスでは、ルイ14世の時に絶頂期を迎える。
王様はなぜ、騎士団や農民を支配できるのか。どういう根拠があって、王様といえるのかという問題である。一方は、力である。強い軍隊と財力がその裏付けである。しかし、強いだけでは人は納得しない。一定の権威が求められる。そこに登場するのがローマ教皇である。教会の権威で権力の正当性を図るのである。その理論が王権神授説である。つまり、自分の権力は神から与えられたものであるという理論である。
フランスのルイ16世は、他の国との戦争に負けないように、国民に重税を課す。時代とともに生産力を高め、余剰を持ち始めた農民や商人は、狙われるわけである。しかし、せっかく稼いだお金をみすみす取られるわけにはいかない。その均衡が破れ、爆発したのがフランス革命である。その結果、今度は国民の国ができる。
国民が権力を持つが、ルイ16世の場合と同様に、なぜ国民が権力を持つのか、その正統性の根拠が問われることになる。そこで編み出された理論が、自然権、人権天賦説である。人は生まれながらにして権利を持っている。人はみな平等である。王様だけが偉いわけではないのである。王権は神様から与えられたものかもしれないが、こちらは与えられたものではなく、もともと持っているものである。ここに国民が権力を持つ強い正統性の根拠がある。
その国民が、その権力を政府に信託したというのが信託論である。
ここから、私の理論は、ややひねくれる。
信託したというが、私はいつ信託したのだろうかという疑問である。私にはその記憶がない。では信託を止めるということができるのか。その手続きは、どのようになっているのだろうか。
つまり、知らないうちに信託したことにされ、やめることもできないということは、これは擬制ということである。実態とは違うということである。
さらに話は人権天賦説にひろがる。本当に人は生まれながらにして平等なのか。これも事実とは違うではないか。例えば今年の冬、私は宮古島で、三線を習ったが、連れ合いはあっという間に上達したが、私はいつまでも、基礎の基礎で止まってしまった。明らかに、人は生まれながらにして平等ではない。
自然権思想も人権天賦説も魅力的で優れた理論であり、私も高く評価するが、あるべき論だけで突き進み、もう一方の現実を見ないでいると、自分たちは主権者だから、役所は市民の言う通りにしていればよいという要求型民主主義となったり、あるいはお任せ民主主義に堕してしまう。
そこから、新しい公共論を論じようと考えたが、ヨーロッパの中世、黒死病の話からはじめていては、そこまで到底行きつかない。今回は、尻切れトンボで、悔いの残る授業となってしまった。残念。
先生の授業の内容を知ることができて
本当に楽しいです。
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