松下啓一 自治・政策・まちづくり

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☆学校と協働1・協働の水準(三浦半島)

2019-03-04 | 1.研究活動
 自治体の次に協働を取り入れているのが学校である。その協働の意義については、「国語としての協働」と「政策論としての協働」が錯綜しているようだ。ここを明確にしないと、筋の通った具体的な取組みは、難しいと思う。

 地域学校協働答申(平成27年12月21日)では、地域と学校の目指すべき方向性として、「地域とともにある学校」「子供も大人も学び合い育ち合う教育体制の構築」「学校を核とした地域づくりの推進」の三つが示された。その中で、「地域学校協働活動」の推進、「地域学校協働本部」の整備、「コミュニティ・スクール」の推進が提言されている。

 その中核的な概念が、地域学校協働活動である。地域学校協働活動は、「地域と学校が連携・協働して、地域全体で未来を担う子供たちの成長を支えていくそれぞれの活動を合わせて総称したもの」とされる。

 連携・協働の相手方は、地域の高齢者、成人、学生、保護者、PTA、NPO、民間企業、団体・機関等、幅広い「住民等」である。協働活動の具体例としては、学校を舞台とするものでは、学校支援活動、放課後子供教室、土曜日の教育活動、学びによるまちづくり、地域を舞台にするものでは、地域社会における地域活動等がある。

 ここで使われている協働概念は、協力ぐらいの意味で、国語としての協働のようにも読める。全体を見ると、政策としての協働だと思うが、今ひとつ、明確でない。多くの教員、地域の人たちは、一緒に活動するという意味に理解してしまうだろう。国語としての協働は、英語では、コプロダクション的な意味になる。

 なぜ、学校で、協働が説かれるようになったのか。その背景から考えてみよう。簡単に言えば、それは、①子どもの教育が、学校だけではできなくなった(社会教育との連携)、②学校教育も学校の教員だけではできなくなったという事情である。

 ①については、子どもの人格形成的自立は、家庭、地域、学校等が、それぞれの場面で、子どもに影響を与え、子どもを教育(大人)にしてきた。ところが、家庭、地域、学校のそれぞれの機能が変化(弱体化)した。改めて、これらの再機能化、再構築を迫られてきたという事情からであろう。

 協働の萌芽のようなものは、すでに、昭和49(1974)年に、社会教育審議会から「在学青少年に対する社会教育の在り方について-家庭教育、学校教育と社会教育との連携-(建議)」が出されている。そこでは「青少年期において豊かな人間形成を図るためには、従来の学校教育のみに依存しがちな教育に対する考え方を根本的に改め、家庭教育、学校教育、社会教育がそれぞれ独自の教育機能を発揮しながら連携し、相互に補完的な役割を果たし得るよう総合的な視点から教育を構想することが重要である」と指摘されている。

 ここには、私が言う「政策としての協働」の考え方が示されている。一緒にやるということにとどまらず、「それぞれ独自の教育機能を発揮しながら」つまり、それぞれの得意分野を活かしてという、協働の考え方である。

 平成8(1996)年の生涯学習審議会「地域における生涯学習機会の充実方策について(答申)」では、これまでの「学社連携」が「学校教育はここまで社会教育はここまでというような仕分けが行われたが、必要な連携・協力は必ずしも十分でなかった」という反省から、「学校教育と社会教育がそれぞれの役割分担を前提とした上で、そこから一歩進んで、学習の場や活動など両者の要素を部分的に重ね合わせながら、一体となって子供たちの教育に取り組んでいこうという考え方」、「学社融合」という考え方を提起した。

 平成18(2006)年には、教育基本法が戦後初めて改正され、第13条に「学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする」と、学校、家庭、地域住民等の相互の連携協力に関する事項が新設された。

 社会教育の分野では、子どもの教育を軸に、学校、家庭、地域住民等が、それぞれの強みを活かしながら、子どもを大人にしていこうという理念が共有されているようだ。その理由は、「子どもを大人にする」という点が、共通目標で、これは学校だけではできないのが、明白だからなのだと思う。

 これに対して、②の学校教育の分野においても、錯綜しながらも、①超越的な学校から、②「開かれた学校づくり」、そして、③「地域とともにある学校」への転換している。

 平成10(1998)年9月21日の中央教育審議会「今後の地方教育行政の在り方について(答申)」では、「学校が地域住民の信頼にこたえ、家庭や地域が連携協力して教育活動を展開するためには、学校を開かれたものとするとともに、学校の経営責任を明らかにするための取組が必要」としている。平成12(2000)年には、地域住民の学校運営への参画の仕組みを制度的に位置付けるものとして、学校評議員制度が導入されている。

 平成12(2000)年12月に取りまとめられた「教育改革国民会議報告-教育を変える17の提案-」では地域の信頼に応える学校づくりを進めるために「新しいタイプの学校(コミュニティ・スクールなど)の設置を促進する」ことが提案された。

 平成16(2004)年3月には、中央教育審議会答申「今後の学校の運営の在り方について」で、学校運営協議会制度の導入が提言されたが、その基調は「公立学校の運営に保護者や地域住民の参画を求めることにより、学校を内部から改革しよう」というものである。そいて、地域の住民や保護者のニーズを学校運営により一 層的確に反映させる仕組みとして、学校運営協議会制度が導入されている。

 平成19(2007)年には、学校評価が、学校の責務として学校教育法に位置づけられた。

 学校教育における一連の流れは、学校に対する不信を前提に、信託論的な基調で、住宅が学校に参加、評価すれば、学校教育は良くなるという発想がある。住民参加や評価を取り入れることで、学校改革を行おうというもので、古い信託論的な発想の延長線と言えよう。「参加」を「協働」に置き換えたもので、また行政に対する議論を教育に持ち込むもので、あまりに素人っぽく、時代錯誤的な違和感を感じてしまう。

 ただ平成23(2011)年7月に、学校運営の改善の在り方等に関する調査研究協力者会議が取りまとめた「子どもの豊かな学びを創造し、地域の絆をつなぐ~地域とともにある学校づくりの推進方策~」と題する提言では、この点は、軌道修正されている。
 提言は、「子どもの『生きる力』は、多様な人々と関わり、様々な経験を重ねていく中でよりはぐくまれるものであり、学校のみではぐくめるものではな」く、「保護者は家庭教育の責任者として、地域住民は地域教育の担い手として、それぞれの責任があり、子どもたちをどのように育てていくのかについて、学校に求めるだけではなく、当事者として自分達の持ち場で積極的に関わっていく」と指摘している。

 これは、保護者や地域住民等を説明責任を受けたり、学校支援を行ったりする立場から、学校とともに子供たちの豊かな育ちを担う当事者(主体)として明確に位置付け直すものであった。ここでの協働は、「政策論としての協働」である。

 いずれにしても、教育の本質から、協働を考えれば、協働の意味は明確になるはずであるが、その点がないがしろにされ、そして教育現場に、一気に協働が入ってきたため、行政と同じ「とまどい」を教育現場で感じているのだと思う。

 それが、①学校側のみがWINになる協働にとどまったり、②協働する相手がいない、なかなか乗ってくれない、③負担感ばかり感じてしまう、④人の異動で協働がたちぎれになってしまうなどの問題となって、表出してくる。

 学校と地域の協働は、もっぱら学校サイドから論じられるが、地域サイドから論じる必要もあるのだろう。どこまで書けるかわからないが、考えてみよう。
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