きんいろなみだ

大森静佳

季節のエッセー14「光を飲みほす」

2019年08月10日 | その他
光を飲みほす         大森静佳


たとえば私が八十歳まで生きるとして、その八十年の人生において見たものや感じたことを緻密に書きとめるために、さらに二百年くらいの時間がほしい、と思う。机と椅子とパソコンだけが置いてある小さな部屋にひとりで閉じこもって、二百年間、ひたすら書く。そういう夢想をしてみる。
 
もちろんそんな贅沢は叶わなくて、ものを書く人たちは皆「生きる」と「書く」を同時にやっている。「生きる」の後で何かを「書く」ことは誰にもできない。そんな当たり前すぎる真実に、六月のベランダで洗濯物を干しながら、ふっと気が遠くなる。
 
数日前に京都のミニシアター「出町座」で、「幸福なラザロ」というイタリア映画を観た。監督はアリーチェ・ロルヴァケル、一九八二年生まれ。ひとつひとつの場面が深い水底で震えているような、とてつもなくリリカルな映像美に圧倒され、帰宅してすぐに、同じ監督の前作「夏をゆく人々」をレンタルした。「夏をゆく人々」はトスカーナで養蜂を営む家族の物語で、ロルヴァケル監督の半自伝的な要素も混ざっているらしい。
 
主人公は四人姉妹の長女・ジェルソミーナ。すぐ下の妹はマリネッラ。ある午後、二人は納屋にいる。崩れかけた壁の隙間から細く射し込んでくる光をゆびさして、ジェルソミーナはマリネッラに「飲んで」と言う。「飲んで」? 陽の光なのに。
 
ああ、いつもの遊びねと言う顔でマリネッラはその光の筋を両手に掬いとり、ごくごく飲みはじめる。喉を鳴らしながら光を啜るマリネッラの恍惚とした目つき。「飲んで」という簡潔な命令をくだし、あとは妹のパントマイムを見つめるだけのジェルソミーナの仁王立ちもまたすごい。
 
そういえば私と弟もかつて、これにすこし似た遊びをしていた。田んぼの土手などから彼岸花の花首を集めてきて、地面にこんもり盛ると、それは立派な焚き火になる。炎のように真っ赤な彼岸花の山に手をかざしていると、不思議なことに、だんだん本当に手が温まってくるのだった。
 
存在しないものを目の前に出現させてしまう力。そこにある、と信じこむ力。私はもう大人だからパントマイムで遊びはしないけれど、かわりに「書く」ことを覚えた。「書く」時間がいま、私のなかにある。


「京都新聞」朝刊2019年6月24日

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