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こんな本を読んできた、ほか少々

これまでに読んできた本やマンガについて、好き勝手に書てみることにした。記憶のままに書いているので、間違い等はご容赦を。

円城塔「Boys Surface」「Self Reference Engine」「後藤さんのこと」「オブ・ザ・ベースボール」

2013-12-15 22:01:32 | SF

手持ちの作品集は 「Boys Surface」「Self Reference Engine」「後藤さんのこと」(ハヤカワ文庫)「オブ・ザ・ベースボール」(文春文庫)。 このほか、図書館で借りて読んだのが「道化師の蝶」「烏有奇譚」「私はペンです」。

以前グレッグ・イーガンのことを「小難しいSF作家」と紹介したが、言い方を合わせるなら円城塔は「わけのわからないSF作家」である。 いや、彼の作品はSFなのか、そのあたりからして怪しい。

とにかく難解である。

文章には高等数学や物理学の用語がちりばめられている。また、作品のモチーフやテーマにも、(私が感じ取られる範囲で)数学や物理の概念にインスパイアされたものが多い(ように思われるが、自信はない)。

さらに、「時間軸」や「書く主体・書くための手段・書かれた対象」など、物語の約束事とでもいうべきものが、いとも簡単にバラバラに分解され、自由奔放に再構成されてしまう。

カッコよく言えば「「書く」という行為の本質と可能性を追求している」といえるし、身もふたもない言い方をすれば「「文学」を挑発している」、工学的な言い方をすれば「「小説」の耐久度試験をしている」、ともいえそうである。

こう書くと前衛小説のようにも思えるが、(小難しい用語を除けば)文章自体は至って平易(一部の作品を除く)で、ユーモアさえ感じる。

村上春樹に近いものを感じなくもないが、その方向性は正反対といっていい。村上春樹は非常に感覚的だが、円城塔は論理的である。

たとえば円城塔氏を一人捕まえてきて、私が作品の適当な部分を指さして「問い:ここは何を言っているのか。100字以内で説明せよ」と問う。すると、円城氏は理路整然と(100字以内で)説明してしまう、そんな様子が浮かぶ。もちろん、私がその説明を理解できるという保証は全くないが。

読んでいると、一見意味が通っていそうで、通っていない。何を言っているのか説明できない。不安感というか、非常にあやふやな感覚を覚え、それでも印象に強く残る。

確かなのは、何なのかわからないんだけれどもオモシロイということ。何か釈然としないところがあるが、オモシロイものは仕方がないとあきらめることにする。

というわけで、あらすじを紹介するのは非常に困難であるし、その意味があるのかもわからないが、これだけでは何のことやらわからないので、(比較的)わかりやすそうなものについて、紹介を試みる。

例えばBoys Surface。テーマになっているのは、ある図形を文章に変換する「写像」。その発見者である変り者の数学者の恋の始まりから終わりまでの顛末。そしてこの物語を語っているのは…という話。多分、ラブストーリーだと思われる。(こちらの方が「Self Reference Engine」というタイトルにふさわしいような気がしてならないのだが)

Self Reference Engineは、そのものずばり「ある時を境に時間がバラバラになった世界」を舞台にした連作(連作なのか?)短編集である。彼の手にかかると、撃たれた人の中から未来から過去に向かって飛んできた銃弾が飛び出してくるわ、戦闘機は時間の中で旋回するわ、人類を凌駕するコンピューターが自然そのものを使って演算戦を繰り広げるわ。それでいて全体の印象は「ホップでクール」(なのか)、というSF(これはかなりの確信を持って言える)である。

また、「道化師の蝶」は、物語の語り手がいつの間にか男性から女性になり、さらには「作中で語られていた物語」の登場人物がいつの間にか現実に出てきたり。 いろいろな角度から見た対象物を組み合わせて物事の本質に迫ろうとするキュビズムをちょっと連想する。

「後藤さんのこと」は、様々な「後藤さん」なる人(人なのか?)の種類をめぐる考察なのだが、読めば読むほど「後藤さんとは何か」が理解できなくなっていく、不思議な作品(ちなみにこの作品、モノクロ印刷不可能である。文庫本のくせに色刷りになっている)。

「オブ・ザ・ベースボール」にいたっては、米国の「ときどき空から人が降ってくる」小さな町で、降ってきた人を打ち返すチームのメンバーが主人公。で、作品中に何回も「これは野球ではない」旨の独白が出てくる。なのにこの題名。 やっぱりうまくいかない。

とにかく一般受けはしないに違いない。でも好きな作家の一人である。

 

・・・それなのに。

2012年(平成24年)、「道化師の蝶」で第146回芥川賞受賞。

確かに芥川賞は、一般に思われているよりもトンガッテルが、基本的には純文学に与えられる賞である。 でははたして、彼の書いているものは純文学なのか。そもそも、小説という概念で評価できるものなのかしばらく考えてしまった。(実はこの時、「道化師の蝶」は未読。後に読んで、確かにSFでないことだけはわかった)

注:結局、韻文でも戯曲でもない文章を使って架空の事物を描写して読み手の感情に訴えかけるのだから、小説だろうと結論した。

この回、同時に受賞した田中慎弥氏の過激な言動と経歴が話題になって、円城氏はすっかり影に隠れている。しかし、受賞作のあらすじを見る限り、田中氏の「共喰い」は、典型的な純文学の主題に真っ向から取り組んでいる(と思われる。実は未読)。一方で円城氏の「道化師の蝶」は、そもそもあらすじを掲載したものが見つからない。内容も上記のとおりで、既存の「文学」の枠組みからするとはるかに過激であると思う。

 

自分の目もなかなかのものだ(偶然なのだが)と誇らしいとともに、自分の秘密の楽しみが公開されてしまったような、ちょっと悔しい気もする。