goo blog サービス終了のお知らせ 

こんな本を読んできた、ほか少々

これまでに読んできた本やマンガについて、好き勝手に書てみることにした。記憶のままに書いているので、間違い等はご容赦を。

モリス・メーテルリンク「青い鳥」

2013-05-27 21:02:22 | 戯曲
ふと、『青い鳥』の原作を読んだことがないことに気が付いた。

幼稚園の年長組の時に学芸会で「青い鳥」をやったので(たしか、森の木の役だった。セリフ一言、実働時間1分)あらすじは知っているが、大人向けの戯曲としては読んだことがない。

このブログの最初の方で書いたかもしれないが、そもそも、私はこれまで「戯曲」を読んだことがない。「青い鳥」ならあらすじは知っているし、そんなに複雑な話ではないから、戯曲初体験としてもちょうどいいだろう。

というわけで、早速買ってきた。新潮文庫版。文庫本としては薄い方だが、想像していたよりは厚い。そんなに長い物語だったっけ。
買った後で気が付いたが、翻訳は堀口大學。すごい大物だった。さすがにちょっと古い文体(初版は昭和35年)だが、格調高く美しい文章。

気楽に読み始めたが、すぐに、見た目よりもずっと深い意味を持った話だということに気が付いた。すべて読み取れたわけではないが、一つ一つの場面、登場人物、セリフにまったく無駄がない、全てが意味を持っているような気がする。

チルチルとミチルが旅をした国々は、おとぎの国のようでいて、実際にはみな現実の社会を反映したものだ。ある時はアイロニカルに、ある時は人間とは反対の立場から、またある時は何気なく見過ごしている真実、そういったものを映し出している。

二人と旅をする、忠実な犬、二心を持つ猫、権威主義のパン、アメ、水と火。身近すぎて、ともすれば見落としがちだが、それぞれにこの世界で役割を担っている。(これらの登場人物に込められたメッセージは読み取れていないけれど)

それに、二人を導き一緒に旅をする「光」。劇中ではストレートには出していないが、宗教的な何かのアナロジーらしい。「神」ではないのは確かであるが、それに近いもの。しかし、宗教的な価値観を強く押し出すことなく、ほどよく滲み出しているところに、この物語が単なる教訓ものとは別の、リアリティを感じさせるものにしている。

とかく、「青い鳥は最初からチルチルとミチルの家にいました」という部分だけが語られるが、様々な世界を長く旅したからこそ(夢の中では一年間の旅をしたことになっている)、最初から家にいた青い鳥を見出すことができたのだということが大切なところだろう。家に戻った(目がさめた)兄妹は、見慣れた家の光景の中に、今まで気が付かなかった美しさを見出す。家にいたのが「青い鳥」だったことは、もしかしたら、その結果に過ぎないのかもしれない。

さらに、二人は隣のお祖母さんの求めに応じて、青い鳥を隣の足の悪い娘にあげてしまう。青い鳥をもらった娘は足がよくなる。二人の所にお礼に来た娘は、不注意で鳥を逃がしてしまう。悲しむ娘。

物語は、「家にいた鳥が青い鳥でした」でストーリー的にはまとまりがついている。しかし、メーテルリンクはあえて、娘が青い鳥をもらい、それを失うくだりを入れた。
実はこの部分に一番のテーマが隠されているのではないかと思う。

実は、この場面を読んで、「青い鳥」(=この世界の、これまで気が付かなかった美しさ)は与えられるものではなく、世界の様々な側面を苦労して目にした結果得られるものである、というメッセージだろうかとも考えた。
ただ、そうすると最後のチルチルのセリフ「(見物人に向かい)どなたかあの鳥を見つけた方は、どうぞ僕たちに返してください。ぼくたち、幸福に暮らすために、いつかきっとあの鳥がいりようになるでしょうから」が、しっくりこない。「僕たちに返してください」「いつかきっとあの鳥がいりようになるでしょうから」。どういう意味だろうか。

考えれば考えるほど、奥の深い物語である。

そしてもう一つ。この物語のすごいところは、そんな難しく考える必要がないところである。チルチル、ミチルの兄弟と一緒に不思議な世界を冒険するだけで、十分に魅力的なのである。ちょうど、幼稚園の私がそうだったように。

名作といわれることに得心がいった。

ところで、ミチルって、ほとんどチルチルにくっついているだけだったんだなぁ。